広げた翼

19.沙月の事情

 窓の外がいつもよりぼんやり明るい。不思議に思って窓辺に立った彩羽は嘆息した。


「桜が、あんなに」


 川縁の桜が、いつの間にか満開になっていた。淡い花弁が月明かりを反射させ、花自体が発光しているかのようだ。


 この桜を、ハヤトの隣で見ることができたらどんなにいいだろうか。彩羽は込みあがる涙を必死に堪えた。


 本当の名を明かされてから二月ばかりが過ぎようとしていた。その間、ハヤトの姿は酒場にすら一度も見ることができなかった。

 もしや、狩人や地郷公安部によって「処刑」されたのではないかとも思ったが、あれだけはっきりとしたテゥアータの容貌をしている人物だ。なにかあったら、必ず客が噂で盛り上がる。幸い、そのようなことも一度もなかった。


 会いたい。せめて、どこかから見ていて欲しい。噂を耳にして欲しい。


(あたしは、ここにいる)


「あら、素敵」


 宮美が窓を開けた。彼女の手の動きに合わせ、一筋の冷たさを残した春風が酒場へ流れ込んだ。花弁が数枚、風に乗って小さく舞う。宮美の柔らかくうねる栗毛に、ふんわりと降り立った。


 それにしても、と宮美は花弁を指でつまんだ。なんてことのない仕草でも、彼女が行えば優雅に見える。


「ミカド聖誕祭でも年始でもないのに、この静けさはどうしたことかしら」


 眉を八の字にして、苦笑いしても色気を感じさせる。


 酒場には、片手で数えられるほどしか客がいなかった。奥の間へ入った者も、夕方から二、三人といったところだ。

 客より断然店員の方が多い。女たちは暇をもてあまし、かといっておおっぴらに怠けることもできず、呼ばれもしないのに客の両脇に座って他愛の無いおしゃべりをしていた。


 入り口の鐘が鳴る。期待を込めて振り返るが、来店したのはタケさん、モッさん、ハカセの三人組だった。


 彩羽は落胆を見せないよう、微笑んだ。


「どうぞ、こちらへ。桜が綺麗に見えますよ」


 窓辺の机へ案内した。


「桜はかつて地球人種の祖が『方舟』で運んだ遺伝子から再生され、今では地郷のあらゆる場所に植えられ、その数は……」

「いやはや。花見もいいが、彩羽ちゃんも綺麗だねぇ」

「ありがとうございます。あら?」


 鼻先を、酒の匂いが漂った。どうやら三人は、すでに別の場所で飲んできたようだ。沙月も気が付いたのだろう。媚びた上目遣いで、席に着いたタケさんにしなだれかかった。


「今夜は、どこかで浮気して来られたんですの? 沙月、哀しいです」

「いやいや。沙月ちゃんが一番だよ。なに、今日は地聖町でちょっとした祝い事があってね」


 ほろ酔いの饒舌さでタケさんが破顔した。モッさんが、丸っこい目を細めた。


「金物問屋が大盤振る舞いさ。なんせ、大切な跡取り息子の結婚だもんな」


 沙月の手から、盆が滑り落ちた。幸い何も載せていなかったからよかったが、閑散とした酒場の床で派手な音をたてた。


 彼女がミスをするのは珍しい。しかも、淡いランプが壁に反射させた間接光でもそれと分かるほどに、青ざめている。

 訝しく首を傾げた彩羽の脳裏に、今は亡き蓮華の声が蘇った。


『沙月は、外で婚約者が待っているんですって』


 確か相手は、金物問屋の御曹司だと。


 沙月は、客に謝り盆を拾おうとしゃがむが、手先が震えて何度も取り落とした。彼女の腰巾着たちが、おどおどと顔を見合わせる。離れた会計台で、店主が顔を顰めていた。


 彩羽は、調理場へ戻ろうとする沙月の後を追った。


「沙月、あなた今夜は休んだほうがいいよ。昼から具合が悪かったんでしょ」


 わざと、店主にも聞こえる声で腕を引く。状況をつかめない沙月が反論しようとした。彼女が口を開く前に、彩羽はキッと睨んだ。小声で鋭く諭す。


「動揺したまま仕事にならないでしょ」


 やはり、そうだ。沙月の視線が不自然に彷徨った。震える唇が、言いかけた言葉を飲み込んだ。

 彩羽は酒場へ頭を下げると、沙月の腕をとったまま彼女の自室まで引っ張っていった。


「何の真似?」


 沙月は、彩羽を見ず手を払った。僅かに見える頬が濡れていた。


 いい気味だと、思えたらどんなに楽だろう。たいした距離を走ったわけでもないのに、口を開いて喘いでいる沙月を見ていると胸が痛んだ。ここにいるのは、大切な人に捨てられた哀れな女だった。まるで、自分の姿を外から見ているようだ。


「婚約者だったんでしょ。金物問屋の御曹司」


 静かな彩羽の言葉に、沙月は大きく肩を震わせた。唇を噛み締め、どうして、と問い返してくる。


「蓮華が言ってた」

「あのおしゃべりが」

「今夜は休んだら? またミスをされても困るし」


 敢えて突き放すように言った。沙月は鼻を鳴らすと、目元を押さえた。化粧を直すつもりか、道具を並べ始める。


「あんたじゃあるまいし。こんなことで借りを作るのも癪だわ」


 意地でも厚意を受け入れない姿に、彩羽は肩をすくめた。


「借りを返したいだけ。この前、呼びに来てくれたでしょ。それとも、店主みたいに、借りを押し付けて楽しむ悪い趣味でもあるの?」

「別に。あんたのためにしたことじゃないわよ。大枚積んで頼まれちゃ、断れないでしょ」


 つんと言い返しながら、沙月の手は化粧道具を片付けていった。衣擦れの音が暗い部屋に大きく響く。沙月の結い髪から解かれたリボンが宙に弧を描いた。真っ直ぐな栗毛が肩から背へ、生き物のようにうねりながら滑り落ちた。


「仕事に戻ったら? たいしたことないわよ。うすうす、分かっていたことだし」


 ふっと吐き出された沙月の息が切なく聞こえる。


「どうせ私たちは、親の商売拡充の駒。本人が待つと言っても、許されることじゃないし。親を裏切ってまで私を迎えに来る度胸がある人じゃなかった」

「けど、本当は待ってたんでしょ。迎えに来てくれるのを」


 慰めるつもりで口にした言葉が、沙月という火には油だったようだ。怒りで赤らんだ顔に睨まれ、たじろいでしまった。


「そうよ。私は、地郷一の商人の妻になるはずだった。愚かな父が青蘭に溺れて、店の金まで使い込まなければ、ね」


 雷に打たれたように、彩羽は目を見張った。ぎり、と音が聞こえるほど歯を食いしばった沙月の、燃えるような双眸が眼前に迫っていた。般若の笑みが視界一杯に広がった。


「あんたの母親が、父の、家族の、私の人生を台無しにしたの」

「そんな」


 母は悪くない。


 言いたかったが、言えなかった。言い切る自信がなかった。今までも、明らかに妻子のある客を「もてなす」際、意識の片隅に凝っていた罪悪感。


 無言で、唇を引き結び、下ろした拳を震わせて立ち尽くしてしまった。

 沙月の口の端が、無理やりのように引き上げられた。


「言い返すこともできないの? あんたの身の上が酷いのは知っているわよ。だったら」


 ずい、と人差し指を鼻先に突き出され、思わず仰け反った。


「怒ればいいじゃない。跳ね除けてしまえばいい。なにもかも押し込めて自分は不幸なんですって顔してふさぎこんで。そういうの、大嫌いなの」

「そんなこと、言われても」

「分かってるわよ。あんたがそういう性格だってことも。あんたや青蘭が悪いんじゃなくて、見境をなくした父が悪いんだってことも。分かって、いるわよ」


 徐々に弱くなっていく声。髪を振り回しながら顔を背ける沙月の姿が、痛々しかった。


 婚約者と引き裂かれ、仇とも言える花街に売られた沙月を支えていたのは、怒りだったのだろう。どこかにぶつけずにはいられなかったのだろう。その矛先が、全てを諦め俯いてばかりいた青蘭の娘に向けられていたのか。


 分からないでもない。乱暴な客の中にも、そのような人がいる。しかし。


 沙月が、一瞬彩羽へ目を向けた。伏せられた長い睫毛の下の茶色い瞳はすぐ、彼女が摘み上げた栗毛の先を見つめた。


「ヒデト邸でのことは、さすがに悪かったと反省してる。避難誘導してくれた消防隊に、出た頃に言えば間に合うかと。まさか、あそこに爆薬が溜め込まれているなんて思ってもみなかった」


 指で弄ばれた栗毛が、はらりと解放された。今度は、まっすぐに見つめられた。


「あんたは、一人で逃げたと言い張っていたけど。本当は、消防隊に助けられたんでしょ。あの時、仲間の制止を振り切って火の中に戻った人がいた。あんたが意地になって隠す理由に興味はないけど」


 ああ、と彩羽はひとり合点した。

 屋敷から発見された遺体は、館の主と侍従長のものだけだった。消防隊員は含まれていない。だとすると、沙月が消防隊の一人と思っているのは、ハヤトのことだ。


 沙月はこちらに背を向けて仕事用のドレスを脱いだ。そばの荷物にかけてあった簡素な服を身にまとう。


「あんただけには負けないから。だけど、今夜はお言葉に甘えて休ませてもらうわ」


 ドレスを荷物の山に広げ、沙月は寝具にもぐった。もう何も話しかけて欲しくないという主張なのか。その割に、寝具の端が凹み、彩羽の様子を伺う茶色い目が覗く。


(素直じゃないんだから)


 感謝の言葉は、天地がひっくり返っても言わないつもりなのだろう。怒りの火を消せば、花街で生きていくことができない。それが、彼女なのかもしれない。


(沙月らしい)


 満開の桜のような形の寝具の膨らみを見つめ、彩羽は知らず微笑んでいた。どこか、晴れ晴れとした笑みだった。


「あたしも、負けないよ。あんたの今までのこと、赦すわけにいかないから」


 沙月の呼吸音が、いっとき止まった。構わず、彩羽は微動だにしない膨らみに続けた。


「だけど、これからの『藤紫』を支えられるのは、きっとあんたとあたし。そのことは、認める。明日には何事もなく店に出られると信じてるよ」


 扉代わりの厚い布を跳ね上げた。くぐもった声で呼び止められた気がした。しかし、彩羽は振り返らなかった。

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