野に咲き 空を彩る
かみたか さち
晩秋の月
1.猶予は二ヶ月
※この物語の世界では、15歳で成人します。作中に「少女」とあっても、15歳以上は成人の扱いを受けます。そのため、様々な行為は児童ポルノにあたらないという解釈で読んでください。(作者より)
※ ※ ※ ※ ※
俄かに廊下が騒がしくなった。女たちの悲鳴、罵り声、右往左往する足音。
仰向けの
店主が扉を開くと、外の喧騒は一気に鮮やかになった。
「あ、店主。テゥアータです」
「掃除中に、いきなり廊下にテゥアータ人がいたんです」
きぃきぃ喚く女たちに、店主は露骨に顔を顰めた。
「通報はしたのか」
「守衛が、直に来てくれるはずです」
言い捨てて、女たちは走り去った。彩羽は乱された服を直すと、そっと廊下を窺った。
なるほど、廊下のどん詰まりに、異人が二人追い詰められていた。箒やお玉、麺棒を振りかざした女たちに囲まれ、青ざめ、震えている。一人は夜空のような暗い青の髪と瞳の男で、もう一人は冬の晴天を思わせる淡い水色の髪に灰色の瞳をした女だった。
明らかに地球人種の色味ではない男女は、震えながらも無断で建物に侵入してしまった非を詫びていた。
「まったく、何でまたこんなところに」
忌々しく誰かが呟いた。異人たちにも聞こえたのだろう。血の気を失った男の唇から、掠れた声が絞り出された。
「そー……に落ちてしまいまして」
彼が口にした聞きなれない単語を、彩羽はそっと口の中で繰り返した。
どこに落ちたというのか。どこから落ちたというのか。頭上の天井に損傷はみられない。
まだ昼前だ。川の中州に作られた花街へ入る道は、北に設けられた橋しかない。そこは守衛が厳重に警備している。門から最も離れたところに建つこの店まで通りを歩いてくれば、必ず誰かの目に留まるだろう。見たところ商人か旅人の成りをした男女が、容易に忍び込めるところではない。
考えているうちに、筋骨逞しい女が数名、廊下を駆けてきた。娼館内の警備を請け負っている女守衛たちだ。
「はい、どいてどいて」
先頭の女守衛が、口々に騒ぎ立てる店の女を太い腕で掻き分けた。たちまち二人の異人に縄をかけると、引きずっていく。
弁明を繰り返す異人たちの後ろ姿が哀れだった。彩羽は心の中で密かに頭を下げた。突然の彼らの出現により、自分は店主の乱暴から逃れることができた。その礼も兼ねて見送る。
「さすが、オトコオンナね。あたしなんかもう、奴らがいつ変な力を使うかとヒヤヒヤしたけど」
箒を握り締めていた
「さあ、みんな持ち場に戻れ。ヒデト様のお屋敷に行く者は急いで準備をしろ」
店主の叱責に、女たちはたちまちクモの子のように散っていった。
「お前もだ」
冷たい目で見下ろされ、彩羽は背筋を冷たくして頷いた。踵を返す前に手首を掴まれた。反射的に振り解こうとしたが、男の力に叶うはずもなく、壁に背中を押し付けられた。血走った白目が目前に迫る。必死に顔を背けるが、頭頂近くに結い上げた髪と壁に動きを阻まれた。
荒い息が頬にかかる。彩羽は瞼をきつく閉じた。
「さっきのことを忘れるな。このまま客を拒み、業績が伸びなければ二ヶ月後には他所へ売り払ってやる。ここがどんなに労わりある娼館か、思い知るがいい」
恐怖故に震え、声を発することも出来ず、ただこくこくと首を振る彩羽へ唾を吐きかけると、店主の溜飲も少しは下った様子だった。
「よく覚えておけ。お前は
手首を掴む手の指で彩羽の甲の焼印を痛いほど強く擦ると、ようやく店主は彩羽を解放した。
無言のままひとつ頭を下げ、彩羽はとにかく一秒でも早くその場から離れたい一心で足を動かした。
狭く暗い廊下を、彼女の小さな足が駆けていく。形の良い曲線に囲まれた黒い瞳の目から、涙がこぼれそうになった。紅を差さずとも鮮やかな唇を噛み締める。涙を拭った手の甲には、四角い枠に囲まれた『藤紫』の紋が茶色く焼き付けられていた。
走りながら、拳を胸に押し当てた。右手にはめた指輪を抱きしめる気持ちで。金の台座に青い石を嵌め込んだ指輪は、彼女の指には大き過ぎた。拳を握る際に少しずれる。
(お母さん。どうしてあたしを産んだの)
もう何度繰り返したか分からない。問いに答えられる母は、彩羽が十一の時に死んでいる。
翌年、先代の店主は
それから三年。
ようやく成人し、正規の年齢で客をとれるようになったが、最初に植えつけられた恐怖心が消えることはなかった。客の手が触れようものなら体が強張り、取り乱す。その手のやり方が好みの客は喜んで彩羽を買ったが、彼女の男性恐怖症は悪化するばかりだった。
母親譲りの艶やかな黒髪を揺らし、やっとのことで自室へ駆け込んだ。生活に必要な最低限のものを積むと、あとは辛うじて横になれる場所を確保するだけが精一杯の狭い部屋で、彩羽はしばらく指輪を抱きしめていた。
花街・
(そんなの、嫌)
かといって、彩羽が店に出さされたのと同じ時期に買われた沙月のように、一日も早く借金を返済して花街を出ようと仕事に励めるか。考えただけで全身が粟立ち、胃の辺りが気持ち悪くなった。
(外にあたしの帰る場所なんてない。それならいっそ、お母さんのところに行きたい)
涙目で部屋を見回した。しかし、自ら命を絶つのに使えそうなものは一つもなかった。鋏を含め、刃物は全て店主によって厳しく管理されている。
「彩羽、あんたもヒデト様のお屋敷に行くんでしょ。さっさと支度しなさいよ、愚図」
扉の代わりとして掛けられた厚い布越しに、沙月の蔑みを含んだ声がした。先ほど女たちに囲まれちやほやされていたときと打って変わって冷たい口調だ。
(死ぬのも、怖い)
彩羽は、両手両足に石をくくりつけられているかのようにノロノロと支度を始めた。
領主ヒデト。彩羽を違法に「女」にしたばかりでなく、かつて『藤紫』で最も人気のあった母・青蘭に身請け話を拒まれ、怒りに任せて彼女を殺した仇。
それでも、命じられたなら従わねばならない。身体を求められたら、相手が誰であろうと応じなくてはならない。
それが、流花町に生きる彩羽たちの身の上だった。
暗い気持ちのまま、彩羽は沙月のほか三人の女と共に、大門を潜って迎えのウマ車へ乗り込んだ。
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