6.野に咲く花

 つと、客が腕に顔を埋めた。その肩が、小刻みに震えている。が、堪えきれない様子で腹を抱えて笑い出した。


「なに、俺、幽霊と話してんの?」


 呆れられた。


(それにしても、笑いすぎ)


 そこまで笑わなくてもと、穴を掘って潜りたくなった。手っ取り早く、この忌まわしい寝具でもいい。とにかく身を隠したい。


「あー、笑える。あんた、真面目な顔で面白いこと言うんだな」


 ひぃひぃ声を震わせながら、客は袖で目元を拭いた。押し上げた眼鏡を外すと、腕を当てたまま、まだ笑っている。


「まあいい。合格」

「え」

「そこまで口が堅いなら、封じる必要はないってこと」


 顔をあげ、にやりとした客を見て、彩羽は息を止めた。悪戯っぽく笑う瞳は金色だった。目を縁取る睫毛も、室内の淡い光を透かせる金色。


「その節は、どうも」


 どんな巧妙な嘘を重ねたとしても無駄だった。当の本人が目の前にいる。このような所へ来ると思わず、気が付かなかった。


「あんたのお陰で命拾いした。それと、あと少しのところで怪我をさせて、悪かったな」


 お礼、と差し出されたのは、新しいハンカチだった。洗っても汚れが落ちきらなかったとの言葉も上の空で、彩羽は手元のハンカチと客の顔を見比べた。

 濃い茶毛の鬘越しに辛うじて見える金色の眉の端が、穏やかに下がった。


「でもどうして、そこまで頑なに隠すんだ? 地郷公安部に通報すれば、店を出られるくらいの懸賞金が手に入るってのに」


 他人事のように言う青年に、彩羽は口ごもった。


「おんなじだって。思って」

「何と」

「あたしも、地郷から疎まれる娼婦で。その中でも仲間に見捨てられるくらい、疎まれてて」

「なにそれ。同情してくれんの?」


 青年が嘲笑を吐き出した。

 同情、だったのだろうか。しばらく考え、彩羽は首を横に振った。


「羨ましい、ていうか。活き活きしてるっていうか。あたしは、生きていたくもなかったし」

「それじゃ、俺の苦労はなんなんだ」

「無駄じゃないよ。あんな所で死にたくはなかった。だけど、答え次第じゃ殺すつもりだったんじゃない?」


 ムッと睨み返すと、青年は肩をすくめた。


「本来の姿を見られたのは予定外だったからな。俺だって、ほいほい通報されて厄介なことになるわけにいかない。ま、それもこっちのミスだったから、あんたを始末する必要が無くて正直ホッとしている」


 青年は、軽く広げた掌に視線を落とした。


「こっちに銃口や刃先を突きつけられてないのに、やれって言われて簡単にやれるほど落ちちゃいない」


 客の口から聞く噂では、カゲは、テゥアータ人を擁護するだけではない。昨今では、法の隙間をかいくぐって民から不当に税を搾取する領主や金持ちを襲撃し、溜め込んだ財を奪い、生活に苦しむ民へ分配しているという。その際、必要があれば容赦なく暗殺もする。


 領主のヒデトがそうだ。自分の機嫌を損ねた取引相手や召使、娼婦や近隣の人々を、密かに消し続けた。しかしこれといった証拠がないため、地郷公安部も手をこまねいていた。

 ヒデトを殺したのはカゲ。それも、目の前の彼かもしれない。


 彼の手は、細く、筋張っている。陽に焼けておらず、白くきめ細かい肌をしている。けれど、もしかしたら目に映らない血糊で汚されているのかもしれない。

 その手が、ふっと近付いた。


「ひっ」


 思わず悲鳴が漏れた。椅子が音をたてて倒れる。首筋に当てられた指は、正確に喉を捉えていた。彩羽の気道を塞ぐのも、首の骨を砕くのも、どちらでもすぐに実行できる。目の前へ寄せられた彼の目は、カエルを一飲みにするヘビ同然の冷たいものだった。


「だけど、あんたが俺たちに都合が悪くなれば、そんときは容赦しない。どんなときも見張られているってことを、忘れんなよ」


 こくこくと小さく頷きを繰り返すと、彼は柔らかく笑って、再び椅子に跨った。


 彩羽は、そっと首元へ手をやった。距離が保たれても、青年の手の感触が残っている。大きな塊がそこにあって喉が狭まり、息が上手く吸えない。


「あたしの命は、あんたが握ってる、てことね」


 どうにか搾り出した言葉に、青年が満足そうに頷いた。分かった、と彩羽は青年を睨みつけた。


「死ぬことなんか、平気。でも、苦しくはしないで」

「簡単に言うんだな」


 青年は眉を上げた。

 彩羽は彼から目を反らせた。


「今だって、死んでるも同じ。お母さんが殺されて、その年じゃないのに、客を取らされて」


 身体の奥がまた、キリリと痛んだ。全身に蘇るおぞましい男たちの肌の感触。


 異例とは言え接客中だったことを思い出し、彩羽は青ざめて口を手で覆った。


「申し訳ありません」


 深く頭を下げると、青年は面食らったように金色の目を瞬かせた。やがて、状況を察したのか、鬱陶しそうに頭を、本来の金色の髪を隠したこげ茶色の鬘を掻いた。


「俺の目的は、あんたの本意の確認と監視だから。客扱いされるより、さっきまでみたいに喋ってくれるほうが楽しい」

「でも」


 地郷の平均的な生活を営む町民が娼婦を買おうとしたら、半月の稼ぎをつぎ込まなくてはならない。それだけ、花街での遊びは金がかかる。


「みんなに配るべきお金を、無駄に使われるのも」


 彩羽の言葉に、青年がむせた。くくっと喉で笑い、天井を仰ぐ。


「やっぱ、いいわ、あんた。名前は」

「あ、あやは」

「それは、店に出るときのでしょ。そうじゃなくて」


 彩羽は寝具を握り締めた。

 絶対、笑われる。母がつけてくれた名を恥じるわけではないが、今まで教えた誰もが彩羽の本当の名を笑った。宮美以外。


「ナズナ」


 案の定、彼は口の端を上げた。ふっと息を吐くのが聞こえる。


「わ、笑わないでよ」

「別に。似合ってるなと思って」


 薺は、雑草だ。道端に生え、行き交う人の靴に踏みつけられる運命にある。ちょっと花壇に混じろうものなら、すぐさま引っこ抜かれる野草。


 それがお似合いだと直球で言われ、さすがに彩羽の顔は怒りで熱くなった。しかし、彼は気が付いていないのか、頓着しない口ぶりで続けた。


「あれだろ? 春先に、いろんな所に咲く、白いの。小さな花だけど、しっかり根を張る。見たところ、あんたも芯が強そうだ。俺は嫌いじゃないよ、ナズナって」


 ぽっと、心に火が灯った気がした。今まで忘れていた、温かな気持ちが蘇る。その小さな炎が照らす胸の内を眺め、彩羽は息をついた。

 死にたいなんて、嘘だ。母がつけてくれた名に恥じないよう、強く生きたい。だけど今は。


「あたしは、抜かれたまま石の上に放置されて干からびかけてる薺だから」

「そりゃまた、面白い例えだな」


 今度は、しっかり笑われた。顔を真っ赤にして、彩羽は彼に問い返した。


「そっちも名乗ってよ」


 恥ずかしさを誤魔化すために、語気が強くなった。こいつは失礼、とおどけ、青年はさらりと答えた。


「ハヤト」

「嘘」

「なんでそう思う」


 青年がニヤリと笑った。


「なんで、て」


 彩羽は言葉につまった。カゲであり、テゥアータ人と思しき彼が、そう簡単に本名を名乗ると思えない。しかし、それを素直に口にしていいものか、どうか。

 喉元に、先ほどの圧迫感が蘇った。何がきっかけで彼らの禁忌に踏み込んでしまうか分からない。


「なんていうか、そんな地球人種みたいな名前」

「じゃあ、どんな名前なら納得する?」


 さらに問われ、彩羽は唸った。


「知らない。知り合いにあっちの人はいないもん」

「まあ、そんなもんだよな。俺だって、知らないし」 


 さて、とハヤトは立ち上がった。色眼鏡をかけると、椅子を元の位置に戻す。


「用事が済んだから、俺は帰る」

「あ、じゃあ、お見送りを」


 慌てて立ち上がる彩羽に、ハヤトは手を振った。


「誰にも見つからないように店を抜け出すなんざ、朝飯前だよ。今夜半までのあんたの時間は俺が買っている。俺の稼ぎから出ている金だ。遠慮せず、ゆっくり休みな」

「え、でも」


 戸惑っていると、肩を押された。寝台に押し倒される。覆いかぶさるハヤトの体温に、反射的に身を強張らせた。目を瞑る。


(いやだ)


 腕を突っぱねる。固く冷たい小さなものが顎に当たった。緊張と恐怖で鼓動が激しくなった。近付く息遣いに顔を背けた。耳朶に、低く柔らかな囁きが吹きかけられた。


「嫌なんだろ、客の相手」


 声の優しさに、彩羽はおずおずと目を開いた。近すぎてぼやける視界の端で、金の細い鎖が揺れている。


「今、正式に俺を見送れば、店閉める時間までに次の客を取んなきゃいけないだろ。脚の傷だって、まだ乾いていない。あんたは時間までこの部屋にいて、俺がひと仕事している間、俺とここで過ごしていることにしておいてくれたらいい。これ幸いと休めよ」


 言い返せなかった。そろりと目線をあげていくと、濃い色を透かして笑う彼の目があった。


「用事ができたら、また来る」


 くしゃりと、黒髪を撫でられた。呆然と起き上がれないまま、扉が開き、廊下に漏れ出た卑猥な声が流れ込む。それが途絶えたと思うと、部屋からハヤトの痕跡は一切立ち消えた。


 そっと身を起こす。テーブルも椅子も、個室をセットする際の所定の位置にある。内側が濡れた盃があるが、それも彼が飲んだ後なのか、はっきりしない。


(また来る、て)


 彼が手をかけた首筋に、見えない鎖が繋がれているような重みが残っていた。

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