17.信じたくない
多々良を踏んだ背後で扉が閉まる。
「よ」
淡い光の中で軽く手を上げる姿が、たちまち涙で滲んだ。
「ハヤト」
「来てみたら、店に出られる状態じゃないって」
その場にへたり込んだ彩羽の側にしゃがみ、何日も櫛を通していない黒髪を撫でてくれる。ハヤトの手の温もりに、耐え切れず彩羽はワッと泣き出した。
「蓮華が……あたしを庇って」
ハヤトの胸元へ顔を押し当て、声をあげて泣いた。
先に通り魔の手にかかったのは自分だ。なのに、蓮華は彩羽を助けようと反撃して殺された。路地が狭かったと言っても、逃げることもできたはずだ。なのに、彩羽を守ろうとしてくれた。
それに対して、自分は何もできなかった。
宮美は、仕方がないと言ってくれた。いきなり背後から襲う男相手に勝ち目はないと。しかし、彩羽は素直に彼女の慰めを受け入れることができなかった。
あの時、もっと何かできたのではないか。自分だけ無傷に近い状態で助かったことが、申し訳ない。
優しく髪を撫でる手が、次第に力を無くしていくことに、彩羽は気が付かなかった。
「ちょ、ごめん。彩羽」
ハヤトの体が傾ぐ。ゆっくりと床に倒れこむ姿に、彩羽は慌てた。今になって、触れている彼の体が異様に熱いことに気が付いた。ひどい熱だ。
彼が押さえているシャツの腹部に、どす黒い染みが広がった。怪我もしている。
おろおろする彩羽に、ハヤトは脂汗で濡れる顔で気丈にも笑みを浮かべた。
「ちょっと、開いただけ」
「痛い? 痛いよね。待ってて。宮美さんから薬を」
「いい。持っている」
小さく金属音がした。外されたベルトの金具の内側に、異なる色の細い金属棒が数本あった。そのうちの一本を取り外す。
棒の中ほどに筋が入っていた。両端をつまんで逆方向に捻る。切れ目から分かれた一方が外れ、硝子の管に繋がる短い針が現れた。
ふと、毒を飲んでしまったとき、微かな記憶の中で金属音と刺すような刺激を感じたことを思い出した。
「もしかしてそれ、解毒剤なの?」
辺りを憚るように問うと、ハヤトはわずかに目を見開いた。その目を、今度は細める。
「賢いな、彩羽は。ただこれは、即効性があって、絶大な効き目のある鎮痛剤」
「……麻薬?」
テゥアータ原産の薬草の花弁をすり潰した液を精製した麻薬は、そのまま使用すれば幻覚、浮遊感、快感をもたらす。さらに純度を高めれば、病気に罹った女が執刀手術を受ける際も使われる麻酔にもなると聞いたことがあった。
液中の気泡を抜くために、針から一滴の薬液が押し出された。甘い香りが漂う。ふわりと、彩羽の視界が揺れた。僅かでも揮発した成分を吸い込んでしまったようだ。
(この感じ。香り)
何かを思い出しそうで、思い出せない。そんなことより、止血をしなくては。彩羽は素早く室内を見回した。
彼が痛み止めの注射をしている間に、彩羽は寝具からシーツを剥ぎ取った。後で叱られるのも構わず、ランプの炎で縫い目を炙ると手ごろな幅に引き裂いた。
「傷、縛りなおさなきゃ」
「いい。大丈夫だ」
無理な笑顔が痛々しい。彩羽は制するハヤトの手を払いのけた。簡単に払いのけてしまった。それだけハヤトが弱っていることに焦った。
「なんで、こんな身体で」
口の中で呟きながら、シャツの裾を上げて手早く包帯を解いた。
「いいから」
再度手を押しやられた拍子に、包帯がはだけた。垣間見えた腹部に二本、彩羽の指の太さほどの間隔をあけて並行に走る傷があった。手首を掴む手の甲にも、同じような幅で走る傷跡。
それを見た途端、彩羽の頭の中で様々な光景が浮かび上がり、渦を巻き始めた。
「もしかして、あんたが蓮華を」
二本の傷の幅は、蓮華が持っていた簪の幅に酷似している。
震えながら口に上った問いに、ハヤトは色眼鏡越しにスッと目を細めた。
「賢いな、彩羽は」
先ほどより、どこか優しい響きがあった。ハヤトの口元には、微笑が浮かんですらいる。しかし、目だけは無感情だった。
壁にもたれて座り、ハヤトはポケットを探った。差し出された掌に見覚えのある耳飾りを認め、彩羽は眉をしかめた。
「どういうこと?」
「球の部分。盗聴器だ」
小さく震える指先で示されたのは、硝子玉の部分だった。砕かれた断面に、微細な線がよじれていた。半分硝子に埋もれている金属は、箔かと思っていたものだが、目を凝らすともっと複雑な構造が浮かんでいる。
血の気が下がった。見ているものがくらりと回りそうになるのを、こめかみを押さえることで耐えた。
「どう、して」
まさか、嘘だ。こんなに小さな機械が存在するわけがない。
否定する一方で、別の心の声がする。
中央研究所で働いている客が自慢していた。地球人種の技術はここ数年でめまぐるしく進歩している。微細なのに正確に機能する機械や遺伝子操作など、『方舟』に搭載された知識を存分に使えるようになっている、と。
「落ち着いて、聞いて欲しい。信じるも信じないも、彩羽次第だ」
聞きたくない。咄嗟に耳を塞いだ。なのに、彩羽の薄い掌を貫き、ハヤトの抑えた声は鼓膜へ届いた。
「蓮華というあの女、狩人と組んでいた。目的は、俺と、彩羽の殺害」
出会ってからあの夜までの蓮華の顔が浮かんだ。優しく気さくで、なにより彩羽にとって大切な女性。
「おそらく、水甕に毒を入れたのも、ナナを殺したのも、彼女だ」
「う、そ」
通いの彼女なら、いつでも毒を持ち込める。
「弟が、病気だと言っていただろう。俺のことを知った狩人に、目をつけられたんだ。弟の手術費用を、全額払うという条件で」
弟の病が治れば、蓮華は辛い花街の仕事をしなくても良くなる。簡単な計算や読み書きはできていたし、客への気遣いもあった。外でも、彼女一人の簡素な生活を支える稼ぎを得ることができたに違いなかった。
弟の健康、花街からの解放。
どちらも彼女が強く願っていたことだ。
「そのために、耳飾りを?」
一拍置いて、ハヤトが小さく頷いた。まだ顔色は悪い。寒いのに額へ浮かぶ汗は減っていなかった。
「情報を流したのは、俺の仲間だ。そいつがいなくなってからも、こっちの動きが察知されていた。盗聴器の使用が疑われ、探知機で耳飾りだと、特定された」
脳裏に浮かぶものがあった。甘い香り。信じたくない。だが、そうとしか考えられない。
「これを奪うためにあんたは、あたしを。麻薬を使ってまで」
ハヤトは胸元を大きく上下させ、息を吐いた。自嘲気味に天井を仰ぐ。
「そうでなきゃ、彩羽を酔わせること、できないよ」
痛みを堪えるようなハヤトの顔を、まともに見られなかった。彩羽は、膝の上で握り締めた拳を見つめた。筋の浮いた甲は、すでに涙で濡れている。
目的を遂げるための手段だった。愛情の欠片もない。仮初の睦ごとで辛いことを忘れたいという甘えもない。
ただ、仕事を遂行するためだけの行為。
そんなものに浮かれていた自分が馬鹿みたいだ。
ハヤトの声は、淡々と続いた。
「蓮華がおびき出して、男が実行する予定だった。先回りして、男を眠らせて。成り代わった。蓮華が、気が付いて」
「やめて」
ハヤトの言葉を遮り、彩羽は両手で頭を抱えた。
初めての友。初めての恋。
嬉しいことは全て、嘘だった。
一度に襲い掛かる衝撃的な言葉に思考がついてこない。
ただ、信じたくなかった。友達だと思った人にも、好きになった人にも、騙されていた。利用されていた。そのように、考えたくなかった。
きつく目を閉じた。
暗闇に浮かぶ簪。蓮華の笑顔。ナナの涙。月明かりに揺れる金色の髪。これまでの光景が脳内を遡り、混乱の始まった時に行き着く。
屋敷の爆発。
(あたしがあそこで死んでいれば)
声を抑えていられたのが不思議だった。彩羽は混乱の中で口走った。
「あんたになんか、会わなければ良かった」
会わなければ、助けてもらわなければ、こんなに苦しむこともなかった。
「だったら、通報したらいい」
低く、凄みのある声に、彩羽はハッと我に返った。
明らかに、ハヤトの眼つきが鋭くなっていた。奥歯を噛み締めているのか、真一文字に引かれた唇の端が引きつっていた。
「十二年間、地郷公安部と狩人が血眼になって追っている懸賞首だ。問い詰められたら、脅されていたと言えばいい」
そのようなことを言わせたかったのではない。違う、と謝りたいのに、喉が塞がって言葉が出なかった。
ハヤトはふらりと立ち上がった。よろめき、壁に手をつく。それでも、言葉を止めなかった。
「狩人から、追われることもなくなる。むしろ、英雄扱いだ。店を出て、どこへでも行ける」
「ハヤト、ちが……」
すがった手を、払われた。たいした力はなかったにも関わらず、痛かった。
「俺は、ハヤトじゃない」
床の一点を睨みながら、彼は吐き出すように言った。聞き返す彩羽に、違うんだ、とうわごとのように繰り返す。
彼は呼吸を整えるように大きく息をした。額の汗を袖で拭い、その手で色眼鏡を外した。ランプの炎が揺れる。光の揺らぎに合わせ、瞳の金色が揺れた。
「ハジメ=セオ=グラント。これが、俺の名だ」
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