4.『藤紫』の仕事
彩羽は首を伸ばした。白い制服を認め、腰を低くして移動した。
(地郷公安部だ)
行方不明の自分が探されているのか、それとも、この青年を探しているのか。
地郷公安部員に見つからないよう用心して斜面を回り、尾根のようになったところを越えた。青年から十分に離れたと思ったところでゆっくり立ち上がる。
素足を風が撫でた。ひりひりする痛みに見下ろすと、丈の短い衣装の裾から露わになった太腿に、筋状の傷が幾本も走っていた。崖を滑り落ちたときのものだろう。さっきまで青年に気をとられて気が付かなかった。
舞の衣装を身に着けた己の姿を思い出し、恥ずかしさがこみ上げた。この姿を地郷公安部員に見られるのかと思うと迷ったが、意を決して大きく手を振った。
「いたぞ」「おーい、無事か」
礫に足を取られながら駆け寄る彼らへと、彩羽も歩み寄った。
「ひとりか」
問われ、頷く。
先頭の男が、彩羽の左手を掴んだ。手の甲に押された焼印を確認する。頭の上から足まで鋭く確認し、部下と思しき男を振り返った。
「目標、確保。店に連絡してやれ」
複数の地郷公安部員に囲まれ、彩羽は緊張した。その中からひとりの女性部員が駆け寄り、自らの上着を脱いで露出の多い脚を隠すよう腰に巻いてくれた。
「あの、血が」
真っ白な制服を汚してしまう、と戸惑う彩羽に、彼女は静かに微笑んで首を横に振った。小さな心遣いに感謝し、彩羽は頭を下げた。ついでに、そっと背後を窺う。
彼が横たわっていたはずの岩陰は、黒々とした影に塗り込められていた。
翌日、店には領主邸宅爆破事件の話を聞いた客が押し寄せた。
「カゲか」
「いや、領主が地下室に武器や火薬をしこたま溜め込んでいたってよ」
「あそこの税の取立てが厳しかったのは、そういうわけか」
「だけど、領主は撃たれていたんだろ。額に一発、ドンと」
「主人の死体を見た侍従がトチ狂って放火したって聞いたぞ」
酒を囲み、脇に女を座らせ、男たちは声高に自分が仕入れた情報を交換しあった。
「沙月ちゃん、怖かっただろ」
盃に酒を注がせながら、一人の客が沙月を労わった。たちまち沙月は目を潤ませ、しおらしく頷く。
「火の回りが早くて。もう、お客様ともお会いできないかと思った」
そっと、出てもない涙を指で掬う仕草に、周囲の客は口々に慰めの言葉をかける。
離れた席でその様子を見る彩羽の胸に、冷めた気持ちが溢れた。
昨夜店に戻った彩羽を、沙月は亡霊を見る目で迎えた。なんだ生きてたのと、擦れ違い様に吐き出された言葉が彩羽の胸に重くもたれている。
別の客へ酒を勧めながら、彩羽はそっと脚を引き寄せた。服の裾から昨夜の傷が見えていないか確かめた。
手持ちの仕事服の中から、最も裾が長く脚が隠れるものを選んだ。太腿から脛にかけてついた無数の擦り傷が、布に触れてチリチリ痛む。傷を見れば、客は彩羽に根掘り葉掘り話を聞こうとするだろう。
(あの人のことは、秘密にしておこう)
助けてくれたテゥアータの男の存在を、今のところ誰にも話していない。話せば地郷公安部と狩人の捜索がかかり、彼は逮捕、処刑される。それは避けたかった。
しかし、あの炎の中、自力で脱出したことに疑問を抱かない人は少ないだろう。様々な嘘を考えてはいるが、この店の客は知識人が多い。彼らから質問攻めにあっても隠し通すことが出来るか不安だ。
今夜はもう、誰もが沙月に注目してくれますように。誰にも個室へ呼ばれませんように。心で願いながら、男を案内して部屋の奥へ行く女をチラリと見た。
何もないかのように見える壁の一部へ、ふたりの姿は吸い込まれる。そこは、壁に似た色の薄布が何重にも下がっている。奥の間への入り口だ。
彩羽たちがいるこの部屋は、食事を提供するだけの酒場だ。酒を注いだり料理を運んだり、呼ばれたら同席して客と話をしたり。それだけの場所だ。
彩羽も、この部屋での仕事はそう嫌いではない。『藤紫』は流花町でも一級店と言われる。地郷の科学技術の最高峰である中央研究所の職員や官僚、教員といった上流階級の客の話は、聞いていると面白い。学問所に行っていない彩羽には分からない内容も多いが、時に分かりやすく説明してくれる客もいて勉強になる。言葉数の少ない彩羽は、いい聞き役になれた。
しかし、薄布を潜って入る奥の個室は。
そこは、性を売る場所だ。案内役の女に呼ばれたなら、暗い廊下に並ぶ部屋の一つで、客の求めるまま身体を提供しなければならない。
(どうかこのまま、何事もおきませんように)
肉の塊をじっくり時間をかけて香草とともに煮込んだ料理と、地郷南部で採れるという貴重な米を使って仕込んだ酒を運びながら、彩羽は出来るだけ目立たないよう身体を小さくした。
「そういえば、彩羽ちゃん、危ないところ助かったんだって?」
ふいに遠くの席からどら声が聞こえた。彩羽は危うく、盃に注いだ酒をこぼしそうになった。
震えながら顔を上げると、室内の半分以上の目に見つめられていた。
「すごいな。あんな炎の中から」
期待を込めた幾つもの視線が、腕に、腰に絡みつく。息が苦しくなった。品の良さそうな初老の客がにこやかに、彩羽の最も恐れていた問いを口にした。
「私も麓から見ていましたけど、凄い火の勢いでしたからね。誰が助けてくれたのですか?」
周囲の客たちも口々に、誰が、どんな人が、名乗りを上げたものはいなかったのか、地郷公安部の見解はどうだと言い始めた。
彩羽はひたすら、空になった盆を抱えて首を振る。
「ひとりで」
精一杯答えるが、たちまち、それはないだろうと否定された。
「沙月ちゃんから聞いたよ。箪笥に挟まれちゃったんだって?」
そうなのよと、すかさず沙月が割って入った。
「ふたりがかりで持ち上げようとしたけど無理で、泣く泣く逃げたの」
違う、あんたは助けようという素振りすらしなかった。
喉元まで上がる言葉を飲み込み、盆を抱える手に力を込めた。
「まあまあ。そんな大勢で質問攻めにしたら可哀想だろう。ここは俺が」
男の一人が立ち上がった。彩羽の常連客で、抵抗する女をものにする瞬間がたまらないとおおっぴらに言う男だ。嫌らしい目を細め、上質な上着の前を軽くはだけさせる。回りの者が、やんや、やんやとはやし立てた。
「あら、残念でした。先客がいるの。ごめんなさいね」
ふわりと声が降ってきた。この店の女たちを取りまとめる
「お客様よ。行きましょう」
「は、い」
そっと唇を噛む。呼ばれてしまった。あの地獄のような奥の部屋へ。全身が粟立つ。胃の辺りが気持ち悪くなる。
それでも、拒むことは許されない。大勢の不満を背に、彩羽は宮美に従った。手の上に、満たされた水差し、伏せた盃が載せられた新しい盆を置かれた。
「お客様は、先にお通ししてあるから」
襞を通り抜けると、宮美に背を押された。言下に「しっかりね」と言われているようで足が竦む。
彩羽は冷たい汗をかきながら進み、並んだ扉の一つで足を止めた。廊下の最も奥、今の店主に代替わりした昨年に増設したばかりの区画だ。暗がりでもまだ新しさを感じる扉の取っ手に、羽飾りの付いた白い花輪が掛かっている。これが、彩羽の印だ。
『藤紫』の女たちは、それぞれ印となる花輪を持っている。これがかけられた部屋が、今夜の仕事場になる。客が先に案内されて待っていることもあれば、女が部屋で客を待つこともある。
そっと、左手の甲に触れた。三年前押された焼印は、『藤紫』の紋とそれを囲む四角を茶色く刻んでいる。宮美たちのように、自ら金稼ぎの場所として花街を選んだ女の印ではない。金と引き換えに店の所有物となった女の印。
逃げる場所は、死んだ後の世界しかない。
(せめて、乱暴な客ではありませんように)
強く願いながら、地獄へと足を踏み入れた。
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