3.助けてくれたのは

 最初は空耳かと疑った。


「どこだっ」


 耳をすませ、それが本物で、近付いていることを確信した。しかも、探している。

 彩羽は思い切って息を吸った。


「ここ!」


 幻かと思った。煙に霞む部屋を、確かに近付く足音が床を伝う。


 迫る炎に姿を浮かび上がらせたのは、小柄な人物だった。声の感じから、若い男と思われた。着ているものは靴から上着まで黒ずくめで、色の濃いレンズのゴーグルを着用している。

 彼は炎の熱から庇うように腕で顔を覆いながら、部屋を見回した。彩羽は必死に顔を上げた。


「箪笥に挟まれてるの」


 男の顔が彩羽へ向いた。まっすぐ駆けつける。

 屋敷の使用人ではなさそうだが、この際、誰でもいい。同僚にも見捨てられた彩羽を、助けに来てくれたことが重要だった。


「持ち上げてみる。動けるか」


 彩羽の肩を跨ぐ形で、男は箪笥に手をかけた。


「やってみる」

「よし」


 男が呻く。僅かに背が軽くなった。無我夢中で腕を動かした。腰が箪笥から解放される。目の前にあったソファの足にかじりつき、下半身を力いっぱい胸へ引き付けた。


「下ろすぞ」


 男が箪笥から飛びのく。箪笥は地響きをたてて埃を舞い上げた。


「自力で走れそうか」


 男に問われ、彩羽は立ち上がった。長い間圧迫され痺れが残るが、骨や筋は幸いにして無事のようだ。

 トントンと何度か足踏みをして頷いて見せると、男は躊躇いなく彩羽の腕を掴み走り始めた。


 男に腕を掴まれている。まるでそこから蛆虫がわき出るように感じて振り解こうとした。直後、そうも言っていられない状況なのを思い知らされた。いまさっき半ば引きずられて駆け抜けた場所へ、燃え盛る天井が崩れ落ちた。

 生きてこの屋敷から出たければ、彼の言いなりになるしかなさそうだ。


 男の走りに迷いはなかった。屋敷の構造を把握しているようだ。彩羽は慄きもつれそうになる足を叱咤しながら、目の前に続く長い廊下へ意識を集中させた。


「そのまま走れ」


 言うなり、男は手を離した。たちまち背中が遠ざかる。


 走りながら男は上着の裾を跳ね上げた。腰の後ろから拳銃を抜く。わずかな間足を止め、突き当たりの扉に銃口を向けた。直後、閂を固定した鎖が弾けとんだ。彼が体重をかけ、扉を開いていく。

 蝶番に軋みに重なって、恐ろしい咆哮が近付いてきた。声のする右手を見れば、炎の中を狂ったように喚きながらこちらへ歩み寄ってくる骨ばった男がいた。彩羽も見たことがある。この屋敷の主に仕える侍従長だ。彼の顔には狂気しかなく、手にはナイフを持っている。


 男が舌打ちをした。彩羽が扉に駆けつけるまでにどうにか一人すり抜けられる隙間を作ると、自分は身を引いた。


「先に行け。直進だ」


 無我夢中で隙間から出る彩羽の背後で、争う音が聞こえた。侍従長の唸りがぱたりと止まった。


 後ろを気にしながらも指示通り屋敷から遠ざかった彩羽は、慌てて足を止めた。

 満ちた月明かりに照らされた地面が数歩前で切れている。その先は炭のように黒かった。夜闇で下が見えない断崖絶壁が足元に広がっていた。


「ちょっと、これ」


 騙されたのか。どうするの、と振り返る間もなく、体が浮いた。速度を緩めることなく走りこんだ男が、彩羽の体を横抱きに抱える。そのまま、崖に踏み込んだ。


 辺りが一瞬赤く照らされる。


 屋敷が爆発する轟音が夜空にこだました。吹き飛ばされた屋敷の壁材や破片が、火の粉を靡かせて降り注いだ。


 声にならない悲鳴をあげながら、彩羽の体は急降下していた。抱えられたまま、垂直に近い斜面を滑り落ちる。衣装から露出した太腿や脛を、瓦礫が掠めた。


「っ」


 男が短く呻いた。途端に体が大きく傾く。


「ひぃ」


 夢中で腕に力を入れた。ぐるりと世界が回った感覚の後、砂利の擦れる凄まじい音が耳の近くで鳴った。そのまま、緩やかに角度を変えながら滑り落ちていく。石や土が跳ね、肌にぶつかった。むき出しの脚が地面で擦れた。


 最後に短い衝撃に襲われ、ようやく体が止まった。

 恐る恐る目を開けると、藍色の夜空にほっかりと浮かんだ晩秋の月が冴えた光を放っていた。細かい燃えカスがまばらに降ってくるが、脅威にはならなかった。崖の上で、ごうごうと風が鳴っている。燃え盛る屋敷が夜空を赤く染めていた。

 首を仰け反らせると、近くに背丈ほどの岩があった。どうやら、これにぶつかって止まったようだ。


(助か……た?)


 それとも、すでにここは死んだ後の世界なのかと、彩羽はゆっくり体を起こした。地面は変に弾力があり凸凹していてバランスが取りにくい。と思い、上体を起こした彩羽は、自分が先ほどの男の腹の上に腰掛けていることに気が付いた。


「ご、ごめんなさい」


 慌ててずり下りるが、男は地面に仰向けになったまま動かない。


(死んじゃった?)


 そっと、男の首筋へ手を伸ばした。襟を掻き分けると、細い鎖が指先に触れた。それを押しのけ、温かな肌に指を押し付ける。トクトクと血の流れが感じられ、ほっと息を吐いた。

 しかし、指にぬるりと生暖かい液体がまとわり付く。彩羽はギクリと手を引いた。急いで傷を縛れるような手ごろな布を探した。領主が用意した舞の衣装には、適した部分がない。あちらこちらを探り、ようやく、羽織っていた上着のポケットにハンカチを見つけた。


 足りるだろうか。傷を確認しようと、彩羽は男の頭部へいざった。固い毛のようなものが膝に触れ、訝しく視線を落として彩羽は飛びのいた。


(あ、頭取れてるとか?!)


 しかしよく見るとそれは、帽子状のものだった。風に吹かれてふわふわ動いている。割れたゴーグルが重石になっていなければ、斜面を転がっていたかもしれない。


(鬘?)


 筋となった血糊を辿った先で、チラリと煌くものが目に入った。

 別の恐怖が彩羽の胸を早鐘に変えた。


(このひと、テゥアータだ)


 彩羽たち地球人種の祖先が難を逃れるため宇宙へ旅立った間に、星を占領した異能者たち。


 近年では地球人種がミカドを中心に生活を営む地郷の地へ呪いをかけ、産まれる子の髪や瞳の色を自分たちの色に変えているという蛮人。五年前の冬には、地郷北部に突如現れ、村を一つ壊滅状態に追い込んだ。

 地郷に隠れ住むテゥアータ人を見つけたら、すぐさま地郷公安部に通報しなければならない。下手に同情し匿ったなら、極刑に処せられる。彼らは、地球人種の安寧を奪う。故に、完全に撲滅させなくてはならない脅威の種なのだ。


 昼前の騒動を思い出し、彩羽はハンカチを握り締めた。彼らは、どこからともなく現れる。昼前の店内に振って湧いたように。それもまた、彼らの持つ忌まわしい力の仕業だといわれていた。


(でも、この人はあたしを助けてくれた)


 迫り来る炎の中。娼婦仲間にも見捨てられた彩羽を、命がけで救ってくれた。


 煌く髪の間から、じわりとどす黒い染みが広がる。

 彩羽は腰を浮かせた。腕を伸ばして鬘を引き寄せた。男の頭を静かに持ち上げ、傷口と思われるところへハンカチを押し当てると鬘で固定する。ゴーグルも引き寄せると、皮のベルト部分を締めてさらに傷を押さえるようにあてがった。


 月の光が、青白く男の顔を照らす。目を閉じた彼の顔はやはり若く、彩羽とそう変わらない年のようだ。ゴーグルの割れたところから見える目元で、淡い色の長い睫毛が揺れる。


 それにしても、と彩羽は彼の動きを思い返して感嘆の息を漏らした。射撃の腕前、急斜面を女ひとり抱えて滑り降りる身体能力。どれをとっても、店に集る男たちには到底できなさそうだ。話に聞く武勇伝のどれよりも優れている。


 テゥアータ人は、地球人種の高度な科学力をもってしても解明できない不可思議な力を持つといわれている。彼の動きは、テゥアータの力によるものなのだろうか。


 それとも、と彩羽は客の噂を思い出した。


 ミカドや地郷政府の方針に背く親テゥアータ派の反逆集団・カゲは、地郷公安部に対抗するべく訓練を積んでいるという。テゥアータを憎みミカドを崇拝する過激派・狩人が政府や領主、豪商からどんなに支援を受けて武装しようと、カゲは対等に勝負する力を持っている、と。


 この男は、カゲの一員なのか。地郷に紛れ込み、運良くカゲに匿われたテゥアータ人なのか。

 いくつもの疑問が、静かに彩羽の胸中で渦巻いた。


 風が声を運んできた。いくつかの人影が、何かを探すように近付いてくる。

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