2.迫る炎

 急斜面を何度も折り返すウマ車の振動、嫌悪、不安。胃が裏返りそうだった。

 借りた厠からあてがわれた部屋に戻ると、沙月さつきと他の女三人はすでに宴の舞衣装に着替え、互いに髪を結いあっていた。


 他愛のない客の悪口で盛り上がり、声高く笑う。店に閉じ込められている平常業務と異なり、仕事とはいえ外に出られた興奮も加わっているのだろう。

 楽しそうにはしゃぐ四人を尻目に、彩羽あやははひとり、荷物を入れておくよう言われた豪奢な箪笥の前でノロノロと着替え始めた。


「でもさぁ」


 沙月がわざとらしく声を潜めた。彩羽の耳に入っていることを十分に意識しながら、四人で頭を突きあわせる。


「なんで、あの子まで寄越したのかな。空気悪いったら」


 日頃から沙月に追随している少女が、ここぞとばかりに同意した。


「そうね。ヒデトさまも趣味がお悪い」

「仕方ないわね。なんたって、あの青蘭に生き写しだって言うじゃない」

「諦められないのかしら」


 声を抑えて笑いながら、ちらちらこちらを見ているに違いない。

 泣きたくなるのを堪え、彩羽は手早く露出の多い舞衣装を纏った。薄く織られた布は、光の加減で肌を透かせる。防寒のためではなく、透ける己の身体を隠すため、着てきた上着を羽織った。


 横目で四人の同僚を見やる。誰もが薄布から裸体を透かしたまま、何事もなく振舞っている。身請けが決まり、数日後に店を出る予定の香芽こうめ以外は皆、彩羽より就業年数が浅い。にも関わらず、己の身の上を受け入れていた。


 花街の女。流れ着いたいきさつは十人十色だ。沙月のように売られた女もいれば、地郷内にある数ある仕事の中から、稼ぎ方の一つとして選んで通うものもいる。

 いずれも、自分の身体を商品として欲情にまみれた男の前にさらけ出すことを生業としていた。


(分かってるよ。分かってるけど)


 割り切れないまま、彩羽は櫛を手にした。

 金属を磨いた鏡の前で髪を結いなおす。最も地球人種の祖に近い色と称され、地郷ちさと内の女たちの憧れであり、男たちが好む真っ直ぐな黒髪。白い滑らかな肌。形の良い大きな目。整った唇。

 母から受け継いだものは全て、娼婦の武器となるものだ。黙って座っているだけで、男たちは花に誘われる虫のように寄ってくる。しかし当の花は、それを望んでいない。


(テゥアータの色だったらよかった。そうすれば、誰にも明かさないほど想っていた人の子であろうと、お母さんも諦めただろうに)


 咥えた飾り紐を噛み締めた。下地となる麻紐で、緩まないよう、しっかりと髪を束ねる。


 今宵、この館の主は親しい客人を迎えて宴を催すと言う。その場で酌をしたり舞を舞って場を盛り上げるのが彩羽たちの仕事だ。

 表向きは。

 たとえ契約以上のことを求められても、追加料金を払うことは領主にとって些事に過ぎない。


(あの下衆野郎のことだから)


 最初の時以来、店で何度ものしかかってきた脂肪だらけの肉感が肌に蘇り、彩羽は悪寒に襲われた。

 今夜も、酒のせいにして無理を強いられる恐れがあった。


 不意に、空気が震えた。足の裏が振動を伝える。


「なにかしら」


 不安そうに視線を交し合う女たちを宥め、沙月が様子を見に立ち上がった。気丈にも扉を開けて廊下を窺う。

 さらに大きな衝撃に襲われた。足元から突き上げられるように床が揺れる。悲鳴をかき消す爆発音が響き、ランプが倒れた。衝撃は二度、三度と続いた。


「みんな、こっちに」


 青ざめながら、沙月が皆を戸口へ招いた。

 彩羽も逃げなくてはと立ち上がろうとした。全身に痛みが走るほうが早かった。持ち主同様、無駄に飾り立てて重い箪笥の下敷きになり、這い出そうにも身動き一つできない。


「助け、て」


 振り絞った声も、悲鳴にかき消された。


「こっちだ」


 屋敷の者か、廊下から男の声がした。わらわらと駆け出す女たちの末尾で、沙月がちらりと彩羽へ視線を投げた。強張った表情を残し、身を翻す。

 待って、と叫ぶが、同時に男が叫んだ。


「これで全部か」

「はい」


 はっきりとした沙月の答え。彩羽は、ぐったりと力を抜いた。足音が遠ざかる。


 閨で声を出せと要求される。普段から声を出しておかなければ、いざと言うとき助けも呼べないぞと、揶揄される。

それも、一理あったかもしれない。開いた彩羽の唇から漏れ出るのは、掠れた小声ばかりだった。


 暗澹たる思いで、頬を床につけた。火の手が上がっているのか、夕陽はとうに山に隠れている時分なのに辺りは赤い。


 こんなところで死ぬのか。ぼんやりと考え、それは嫌だと思いなおす。

 川に身を投げるのはいい。彩羽が拒むことで激怒した客に絞め殺されるのも構わない。しかし、母の仇でもある男の屋敷で死ぬなど、真っ平ごめんだ。


 力を振り絞り、どうにか箪笥の下から逃れられないかとがんばってみる。足は、動く。何かが彩羽と共に床と箪笥の間に挟まり、空間を作っているようだ。問題は、腰から肩までを押さえつけられていることだ。少しでも箪笥を浮かせてくれたなら、自力で出られそうなものを。


 最後に見せた沙月の顔を思い出し、悔しさに涙が溢れた。


(そんなにも、あたしのことが憎いんだ)


 入店したときからそうだった。丁度、彩羽がどんなに拒んでも「青蘭の娘」というだけで興味本位な客が押し寄せていたころだった。沙月は、辛い仕事にも涙一つ見せず健気に振舞い、他の女とはすぐに仲良く、頼られるようになった。しかし、彩羽のことだけは冷たく見下していた。


 青蘭の娘。代わってやれるものなら、代わってやりたい。寄って集って彩羽をいいように扱う男たちを、なんなら全部引き取ってもらって構わない。


(好きで、花街に生まれたわけじゃないよ)


 箪笥は、彩羽を逃してくれなかった。

 次第に部屋の中が暑くなる。木の爆ぜる音が近付いてきた。

 諦め、黒髪の上に頬を落とした。これだけ火の手が回れば、消防隊の救助も近づけまい。


 観念して目を閉じた。母の優しい面影を思い起こす。母は、死の世界の縁を流れると言う川のほとりで待ってくれているだろうか。うまく生きれなかった娘でも、優しく迎え入れてくれるだろうか。

 涙が頬を伝った。


 そのとき、声がした。

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