16.揺れる耳飾り

 迷惑そうな顔で、沙月は足を止めた。


「寝台の下に、落としてしまった耳飾りに、手が届かないの。沙月、届く?」


 彩羽はおずおずと寝台の隙間を指差した。


「忙しいときに、まったく」


 ぶつぶつ言いながら、沙月は床へ腹ばいになって腕を伸ばした。彩羽がいくら頑張っても救い出せなかった耳飾りを、難なく光の下に取り戻す。雑に彩羽へ放ると、もう一度床に耳を付けて隙間を覗き込んだ。


「片方しかないわよ」

「うん。もうひとつは、まだ見つかってないんだ」


 彩羽は礼を言い、項垂れて耳飾りに付いた埃を指でつまみ取った。沙月の顔に、意地悪さが浮かぶ。


「へぇ。大切な親友の印なのに。蓮華が知ったら、なんて言うかしら」


 彩羽は唇に力を込めて引き結んだ。泣きそうになる。昨日から幾度となく考え、暗澹たる気持ちになっていたことだ。


(蓮華に、なんと言って謝ればいいんだろう)


 運悪く、その場を蓮華が通りがかった。何をしているのかと、部屋を覗き込んでくる。我が意を得たりと、沙月が蓮華を呼んだ。


「彩羽が、例の耳飾りを無くしたんだって」


 蓮華の眉間に皺が刻まれた。怪訝な顔で彩羽に問いかけるような視線を送ってきた。


「ごめんなさい」


 震えながら頭を下げると、蓮華は狼狽えた。慌てて駆け寄り、彩羽の背を撫でた。


「いいのよ。形あるものはなんだって、壊れたり無くなったりするものだし」


 蓮華が彩羽を責めなかったことが癪に障ったのか。沙月が鼻を鳴らし、腕を組んだ。


「だけど、折角の親友の印が、ね。もったいない」

「いいのよ、沙月。彩羽がこれを大切にしてくれてたのは知ってるし、それに、こんなことで責めるのは本当の親友と言わないでしょ」


 やんわりと、しかし毅然と言う蓮華に、さすがの沙月も勝ち目がなかった。不満そうな態度で服を叩く。


「ま、そんなチャラチャラした意匠だもの。どこに引っかかって外れても不思議じゃないよね」


 嫌味を残して立ち去った。


 沙月の後ろ姿に、蓮華がため息をついた。


「昨晩、なにかあったのかな」


 聞き返すと、蓮華は顔を近づけ、声を潜めた。


「彩羽のお客様ほどじゃないけど、若い方のお相手をしてから、様子がおかしいの。宮美さんも心配してる」

「そう、なんだ」


(あたしには、いつもあんな感じだけど)


 後半は口にせず、心の中で呟く。取ってもらったことにきちんと礼も言った。彩羽の何が沙月の気に障るのか。分からない。


「気にしないで。さ、行きましょ」


 蓮華が微笑み、彩羽の服についた埃を払ってくれた。飾りを手で包み込むようにして、彩羽はもう一度謝った。


 いつか、お詫びに蓮華のために何かをしてあげよう。そう心に決めた。




 お詫びの機会は、思ったより早く訪れた。


「彩羽、居る?」


 入り口の厚い布が揺れ、蓮華が顔を覗かせた。休日の番だった彩羽は、小さな明かり取りの窓から、川面に映る月を眺めているところだった。ランプの灯油も値上げする一方で、店主から節約令が出ているため、狭い自室を浮かび上がらせるのは月明かりだけだった。


 その青い光の中で、蓮華が申し訳なさそうに手を合わせている。


「うっかり、調味料庫の酒を一本、割っちゃったの。『空蝉』ってお店に借りてくるよう宮美さんに言われたんだけど、どこなのか分からなくて」


 『空蝉』は、流花町のある中州を流れる川の対岸にある男娼店だ。店主同士が知り合いだと聞いている。調味料や物資が急に不足したとき、なにかと融通を効かせやすい相手のようだ。

 蓮華は通ってくる女なので、流花町の地理に詳しくないのだろう。店に買われている女は非番の夜に町内を出歩くこともあるから、一度や二度、男娼店を冷やかしに行った者もいる。しかし、通いの店員が休日にわざわざ橋を渡って花街に来ることはない。


 それじゃ、と彩羽は立ち上がった。上着を羽織り、蓮華を安心させるために笑いかけた。


「あたしが行ってくる。いつものを一本でいいのかな。蓮華は戻ってていいよ」

「ありがとう。だけど、私も行くよ。知っていないと、次に何かあるとき行けないから。服着替えるから、先に出てて」


 彩羽は頷き、部屋を後にした。正面の戸口から出ようとしたが、酒場の忙しさが廊下からでも伺えたので裏から出た。

 裏に立つ守衛に用向きを伝えると、ひどく驚かれた。


「あんたが外出なんてね」


 気をつけていっておいでと送り出され、彩羽は何かほっこりとした気持ちになった。


 冷たい夜気に負けないよう、上着の襟を合わせる。月は、煌々と通りを照らしていた。川縁で蓮華を待った。見上げた桜の枝先ではもう、花芽が丸みを帯びていた。


 足音が近付く。

 蓮華が側に来ていた。簪の飾りを揺らし、彩羽の顔を覗き込んでくる。


「じゃ、お願いします」


 わざと丁寧に頭を下げる蓮華は、装飾の多い接客用の服から、通ってくる時の簡素な服に着替えていた。


 誰かと共に、夜の花街を歩くのは初めてだ。彩羽は幼い子供に戻った気分で物珍しく辺りを見回した。ガス灯と月に照らされた大通りを、上等な服を身に纏った男たちが歩く。ある者は胸を張り堂々と。ある者は帽子を深く被り、人目を気にして。


 しばらく歩いて、彩羽は『藤紫』を振り返った。


 鮮やかに店の紋を浮かび上がらせている光は、電灯によるものだ。流花町で最も格式高い店と政府からも認められ、地郷南部の海岸で作られる電気を特別に分けてもらっている。ガス灯を使っている他のどの店より明るく、鮮やかに夜空へ向かって建つ店構えを、ほんの少し誇らしく思えた。


 数ヶ月前のことが、今となっては遠い昔に思える。暗い闇の中で怯え続けた日々。彩羽は口元に微笑を浮かべた。


(あのまま売られなくてよかった)


 一歩、また一歩。確実に彩羽の売り上げは伸びて、自由の身になれる日が近付いている。


「なぁに、彩羽。嬉しそうだけど」

「べ、別に」

「あ、分かった。あの若いお客様のこと、考えてたんでしょ」


 ハヤトを「もてなした」時感じたことを、蓮華には打ち明けていた。恥ずかしさもあったが、なにより、誰かに話さなくては興奮で心が弾けそうだった。


「そんなんじゃないよ」

「えー。いいじゃない。素敵なお客様に出会えて」


 脇を突く蓮華の指を避け、身をよじる。

 笑いあううちに、板を渡しただけの小さな橋が見えてきた。ここを渡れば、男娼街になる。


 建物同士の間の狭い路地を通り過ぎたとき、突然蓮華が身を翻した。


「ナオっ」


 路地へ駆け込んでいく背中を、彩羽も慌てて追った。ごみごみとした狭い隙間を、蓮華はネズミのように駆けていく。


「待って、蓮華。どうしたの?」


 行き止まりまで来て、ようやく蓮華は足を止めた。荒い呼吸に肩を上下させ、辺りを透かし見る。


「弟が……弟がいたの。あの子、今夜は具合が悪くて寝ていたはずなのに」


 蓮華が花街に通うきっかけとなった病気の弟。

 彩羽も辺りを見回した。月の光が、建物の明かり取り用の小窓から細く落ちている。その筋状の光がある故に、周りの闇が際立った。振り返った路地には、暗がりがねっとりと詰まっていた。


 目が痛くなる程の、黒々とした闇。彩羽は理由もなく恐ろしくなった。


「とりあえず、行こう」


 促すと、蓮華は洟をすすった。


「ごめんね、彩羽」


 その時、背後から何者かの腕が伸びてきた。羽交い絞めにされ、身動きを封じら

 れた。恐怖に心臓を鷲掴みにされながらも、彩羽は勇気を振り絞って叫んだ。


「逃げて。早く!」


 足が竦んでいるのか、蓮華が動く気配はない。もう一度、早く、と促す彩羽の後頭部に、衝撃が走った。


「れん、げ」

(早く、逃げて)


 声にならなかった。

 遠のく意識の中、僅かに蓮華の声を聞いた。背後の者に対して誰何している。

 うっすらと残った視力で、刺し込んだ月の光が何かに反射するのを見た。細く先が尖った二本の金属棒。その根元を掴む白い手。揺れる飾り石。


 そこまでだった。




 流花町通り魔殺人事件。


 後にそのように伝えられるようになったこの夜の出来事は、地郷公安部の懸命の捜査にも関わらず、犯人が確定されなかった。


 蓮華は、至近距離から腹を撃たれていた。見開かれた目が最後に見たものは何だったのか。涙の痕があったという。

 身元不明推定年齢四十代の男は、腹部と首から血を流して倒れていた。腹部は比較的軽傷だが、首は頚動脈を切断されていた。遺骸の傍らには、市販の拳銃と、蓮華が普段使っていた簪が血にまみれていた。傷跡から、凶器は簪と断定された。

 二体の遺体の状態から、争ううちに相打ちとなって果てたものという結論が出された。


 現場で意識を失い、倒れていた彩羽は、幸いにも軽傷で済んだ。頬や腕の怪我は、ほんのかすり傷だった。医者の診断で、後頭部への打撃も今のところ異常はみられない。仕事にも差し支えないと診断された。


 しかし、見えない心には、鋭利な刃物で斬られたかのような大きな傷口がぱっくりと開いていた。


「まるで亡霊ね。ったく、なんでまたあんたは次から次へと」


 沙月がぶつぶつ言いながら、床を整えてくれた。


「あぁもう。ナナといい蓮華といい。立て続けに死なれちゃ、店の評判もおかしくなっちゃうじゃない」


 口ばかりは悪いが、沙月の声は湿っており、目尻は濡れていた。


 抜け殻になった彩羽は、仕事にも出ず、自室で昼も夜もまんじりと座っていた。

 手に載せた、片割れを失った耳飾りをぼんやりと見下ろす。


(蓮華は、あたしを助けようとして)


 考えれば考えるほど、哀しくなった。初めて「友」と呼べる仲間を失い、流れる涙も枯れ果ててしまった。


 酒場から控えめな喧騒が聞こえてくる。奥の個室からは、このような事態があった後も変わらず、仮初の睦事が繰り返されている。


(このままじゃダメだ。みんな、悲しみを堪えて働いているのに)


 頭で分かっていても、心と身体は動かなかった。食事も喉に通らず、必要最低限の排泄に立つ以外は、生きた屍となって座り込んでいた。その様子に、最初の数日は口やかましく叱咤していた店主も、次第に何も言わなくなった。


 彩羽を指名する客はいた。何度か呼びに来られたが、客の人相を聞いて全て断った。今は、ハヤトにしか会いたくない。しかし、「色眼鏡をかけた若い客」は来なかった。


 どれくらいの日数を、その状態で過ごしただろうか。


 月の細い夜。暗がりで座り込む彩羽の背後で、扉替わりの厚布が揺れた。


「ちょっと来なさい」


 沙月に腕を掴まれた。

 急激に引き上げられ、彩羽は眩暈に呻いた。しかし、沙月は構わず、仕事用のフリルをたっぷりとったスカートの裾をつまみあげながら大股で彩羽を引きずっていく。


 折檻でもされるのかと考えながら連れて行かれたのは、沙月の黄色い花輪が掛けられた個室だった。


「私は自室に隠れてるから。終わったら呼びに来なさい」


 鋭い早口で耳打ちされ、ぐいと背中を押された。

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