凍てつく風

15.甘い香り

 彩羽の売り上げが、目に見えて上昇してきた。


 宮美が目を見張り、店主が訝しがり、沙月が悔しがった。今まで沙月と共に彩羽を蔑んでいた女たちは、どうしたらよいのかと右往左往し始めた。


 彼女たちの動向は、彩羽の眼中になかった。とにかく一日でも早く花街から出る。そのことだけを考え、嫌な接客も積極的にこなした。


 ただし、今までのように、無闇に客の言いなりになることはやめた。

 蓮華を酔客から庇った夜の女守衛の言葉が胸の中に残っていた。


 身体を許すのは最低限にして、それ以外の、話を聞いたり肩を揉んだり、時に子供のようにあやしたりすることで客を受け入れるようにした。


 不思議なもので、身体のみを受け入れていたときには見えなかった客の側面が見えてきた。

 誰もが、橋を渡った先の「外」で疲弊していた。仕事に疲れ、家庭内で疲れ、激化するカゲと狩人の抗争を目の当たりにして怯えていた。彼らの多くは、己の抱える疲弊や恐れを話せる相手を「外」に持っていなかった。


 そのことを、調味料の在庫確認をする宮美を手伝っているときに、ふと漏らした。


 茶色い瞳の目を見張った後、宮美は咲いたばかりの花のように微笑んだ。


「すごいじゃない、彩羽。自分でそのことに気が付くなんて」


 彩羽の、まだ結っていない黒髪を撫でた宮美が、ふと目を細めた。寂しそうな笑みに、どきりとしてしまった。


「青蘭がね、言ってた。ここに来る男は、女の中に何かを置いていくんだって。一夜限りの縁だから話せることもあるんだ、て」


 彩羽の中でその言葉は、母の声で繰り返された。


「お母さんが、そんなことを」

「うん。私はそれを聞いて、花街で働く意味を知ったの。だけど彩羽は、自分で気が付いたんだね」

「いや、そこまではっきりと思ったわけじゃないけど」


 憧れの人に褒められ、彩羽は嬉しくなった。


 全ての在庫を帳簿と照らし合わせ終えた宮美と共に廊下へ出て、宮美が鍵をかける間、帳簿を預かった。


 書かれている文字の半分くらいしか読めない。全て調味料を示しているのだから、知っている言葉のはずだが、学問所に行けなかった彩羽にはただの記号にしか見えなかった。


「すごいな、宮美さんは」


 思わず漏れ出た呟きに、宮美が眉の端を下げた。


「私でよければ教えてあげたいけど、実際は難しいのよね。なにかと忙しいし、同じ日に休めないし」


 店の女たちは、一人ずつ順番に夜の仕事を休む。誰かと共に休みをとることは出来ない。

 宮美に気を遣わせてしまったことが申し訳なくなり、彩羽は慌てて言い繕った。


「そうじゃなくて。荷物が届く度に、早く出勤して丁寧に確認してるじゃない」

「ああ、そっち?」


 柔らかく笑った宮美へ帳簿を返しながら、つく必要もない嘘を言ってしまったことに後味の悪さを感じた。しかし宮美は、頓着せず帳簿の表面を指で撫でた。


「忙しいときに足りなくなったら、お休みしてる人にお願いして買いに走ってもらわないといけないじゃない。そんなの、申し訳ないから」

「あたしだったら、平気です。お店のためだし、お客様のためだし」

「いい子ね」


 また、頭を撫でられた。母の手を思い出す。母はよく、幼い彩羽を褒めてくれた。懐かしさでいっぱいのまま宮美を見送る。


 ふと、視線を感じて振り返った。

 昼でも薄暗い廊下には、誰の姿もなかった。




 個室に呼ばれ、彩羽は自分の白い花輪を目当てに廊下を歩いた。

 他の部屋からもれ出る卑猥な声を耳にしても、もう不快には思わなかった。誰もが、一日でも早く自由になりたくて苦痛に蓋をしてがんばっている。そう考えるようになった。

 中ほどの扉に自分の花輪を見出した。ノックして入室する。


「お呼びいただき、ありがとうございます。彩羽でございます」


 膝を折る。合わせて蓮華からもらった耳飾りが揺れた。その精巧な細工が触れ合う音が大きく聞こえるほどに、室内は静まり返っていた。

 その静寂は、彩羽に期待をもたらした。


 はたして、顔を上げた先でハヤトが椅子に腰掛けていた。珍しく、眼鏡を外している。間接光の淡い影を受け、彼の白い肌がぼんやりと浮かび上がっていた。

 彼の名を口にしかけて、彩羽はいつもと違う空気を感じた。


「よ」


 いつも通り、気さくな挨拶。だが、彩羽へ見せたハヤトの顔に、少年のような明るい笑みはなかった。寂しさのような、悲しさのようなものが溢れていた。

 ふらりと立ち上がったハヤトが、そのまま彩羽を抱きしめる。


 どうしたのか問おうとした唇をふさがれた。


「ん」


 娼婦としての彩羽が抵抗した。

 客と唇を重ねてはいけない。他のどの部分に口付けを受けようと、愛情を多分に含む唇への口付けは受けてはならない。

 けれど、ハヤトは離してくれなかった。


 ほのかに甘い香りがした。


(酒? 今日は飲んでるの?)


 仕事中は酒を飲まないと断言していたハヤトから、僅かだが酒のような匂いがした。酔っているのか、動作もどこか気だるい感じがする。


 さらに唇を割って舌を絡めてくる。甘い香りが濃厚になり、口の中に広がった。うっかりそのまま雰囲気に飲み込まれそうになり、彩羽は慌ててハヤトの胸を力いっぱい押した。僅かに出来た隙間で顔を背ける。


「どうしたの?」


 肩で息をしながら、上目遣いで睨んだ。が、金色の瞳が哀しそうに揺れるのを見ると、吊り上げた眉を下げずにはおられなかった。


「どうしたの?」


 今度は、優しく囁いた。


 耳元で、ごめん、と小さく謝る声も弱く、今までにない心細さを感じさせた。首に回された腕は、すがりついているようだ。


「彩羽、こういうの嫌いだよな。ごめん、ほんとに」


 項垂れたハヤトの体が僅かに離れた。彩羽は腕を伸ばし、男性にしては細い彼の背中へ手を回した。そのまま、引き寄せる。


「いいよ。今夜は特別に」


 微笑んで見せると、ハヤトが切なそうに顔を歪めた。長い睫毛の先が、薄く涙で濡れている。


(何か、あったんだ。とても辛い何か)


 寝台に仰向けになった姿勢で見上げるハヤトの首筋や肩へ刻まれた傷跡を、彩羽はそっと指で辿った。


 すべてを受け入れたいと願った。


 ハヤトの抱える哀しみも、切なさも、全てを。





 もう少し。もう少しだけ。


「ん」


 彩羽は顔を歪めた。指先が震える。


(もう、ダメ)


 歯を食いしばる。必死に耐えるが、限界だった。


「あぁっ」


 思わず声が漏れ出た。体中から力が抜けた。開いた口で喘ぐように荒い呼吸を繰り返す。ぼんやり見開いた目で、寝台と床の隙間を恨めしく見つめた。


 あと少しなのに、指が届かない。寝台の下部に肩が食い込むほどめいいっぱい腕を伸ばしているのに。


 重厚な木製の寝台は、守衛が数人がかりでようやく動かせる代物だ。ずらして取ることは叶わない。


 細長い空間の奥に、蓮華からもらった耳飾りがある。ハヤトを「もてなした」二日前の夜に、落としてしまったようだ。部屋を出るときは、放心状態で気が付かなかった。あまりに、ハヤトに酔いしれて。


 思い出し、彩羽はひとり赤面した。


 初めてだった。今まで、一刻も早く終わることを願っていた時間を、少しでも長く味わっていたいと感じた。苦痛だった行為が、心地よく思えた。なにもかも忘れてしまうほどに興奮し、気が付けばひとり、呆然と寝台に横たわっていた。


 そのため、耳飾りが無くなったことに気が付いたのは翌日、身支度をしているときだった。


 蓮華から貰った大切なもの。動くたびに揺れるのが可愛く、気に入って毎日のように着けていた。その日は室内清掃のとき注意して探したのに、見つからなかった。一日中落ち込んで、仕事で小さなミスを連発した。


 ついさっき、もう一度ハヤトと過ごした部屋を隅々まで確認して、ようやく見つけたところだ。


(あとちょっと、腕が長かったらなぁ)


 室内を見回したが、耳飾りを引き寄せるのに使えそうなものはなかった。


 手足のすらりと長い沙月なら届くかもしれないと考えている丁度その時に、開いている扉から、廊下を歩く沙月の姿が見えた。


「あの」


 思わず声をかけた。

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