25.二人で見る花火

 町の診療所は、ナズナに嫌な思いしか残さなかった。花街の医者も娼婦たちを見下しがちだったが、町の年老いた医者は、ナズナの手の甲に目を止めるなり、侮蔑の目で診察を始めた。


『で、相手の特定はできるのかね?』


 冷ややかに浴びせられた問いが、ナズナの胸に凍り付いていた。

 店を出て一度は月のものがあった。ナズナは下腹へ手を添えた。この中に宿った命が半分ハヤトのものであることは確かだった。


 自宅の寝具で膝を抱え、医者から受けた仕打ちを忘れようと努めた。

 次は、しんどくても村の診療所へ行こう。帰り道に出会った農夫も、彼らを褒めていた。若い頃に町から移り住んだ夫婦が営んでいるが、腕や知識は確かだし、なにより親身になって話を聞いてくれるそうだ。村が襲われた日に、偶然薬草を仕入れに町へ出て命拾いしてから、身寄りを失ったふたりの子供を引き取り育て上げたと褒める村人もいた。そのような優しい人たちなら、間違いないだろう。


 様々なことを細かく具体的に考え尽くし、ナズナはため息をついた。他に、思いつくことがなくなってしまった。核心となる問題について、考えなくてはならない。


 ハヤトと夫婦になり、いずれ子を授かりたいと願っていたはずなのに、いざとなると二の足を踏んでしまう。

 ハヤトは、母が地球人種で、父親が純粋なテゥアータ人だったという。しかし、彼の隠された本来の姿は、完全なテゥアータ人のものだ。もし、子にテゥアータの形質が色濃く受け継がれていたら。


 この地郷で、守りきることができるだろうか。


 他人の素性を探り出さないのが暗黙の了解になっている町といっても、地球人種に限ったことだ。弓矢を持つ者もいるし、テゥアータへの恨みや憎しみを誇らしげに語る者もいる。

 改めて、彼を約十七年間守り通すことがいかに大変だったかを思った。多くの犠牲もあったと聞く。

 同じことを自分たちは、この子のためにしてやれるだろうか。


(お母さん)


 心の中でそっと呼びかけた。死後の世界に旅立った母がナズナを身篭ったと知ったときには、どのように思ったのだろう。程度の差はあれど、「存在してはいけない命」を身篭った母。それでも彼女は、周囲がいくら堕胎させようとしても頑として聞き入れなかった。ナズナを守り通してくれた。

 しかしこれも、ナズナが男だったら、花店で育てることができただろうか。

 もし、テゥアータの形質を持っていたら? そのときは、確実に「処分」されていただろう。

 どうしたら良いのか。


(宮美さんに相談しようかな)


 彼女がユズという名のカゲの協力者であることは、この町に来る道中にハヤトから教えてもらった。驚くより、妙に腑に落ちた。それよりも、彼女の客だった中年男性がハヤトの養父だったことのほうが盲点だった。


 抱え込んだ足の先が痺れてきた。気がつけば辺りは薄暗く、夏の長い陽も暮れようとしていた。風に乗って、広場の喧騒が聞こえてくる。


 遠い物音に混じり、独特のリズムをつけて扉が叩かれた。ハヤトだ。

 夕闇に紛れる黒ずくめの格好で、ハヤトは息を切らせていた。

 仕事用の服で来ることは珍しい。それも、相当に急いでいる様子に、緊迫感はないもののナズナは首を傾げた。その頬を、汗ばんだ手で包まれた。


「店覗いたら、具合悪くして帰ったって聞いて」


 ナズナの胸の奥が、軽く抓られたようにキュッとなった。懐妊したと言わなくては、と思いながら、心の準備が出来ていない。


「疲れが出ただけ」


 微笑むナズナに、ハヤトが安心したように眉尻を下げた。癖の付かない黒髪を、くしゃりと撫でる。

 嘘をついてしまった。罪悪感が、ナズナの腹の底に小さく疼いた。


「起きていて大丈夫か? 顔色、良くないよ」


 労わってくれる声の優しさが、ナズナには痛かった。苦痛を隠すよう、微笑む。大丈夫だと伝えると、ハヤトは安堵したように左腕にナズナを引き寄せた。


「一緒に見ようと思って。花火」


 タイミングよく、ヒュル、と空気が鳴った。腹に響く音と共に、夜空に光の花が咲く。年越しに店から見たのよりも、ずっと近かった。視界いっぱいに色が広がる。


「わあ」


 思わず声が出た。続けて二発、三発と打ち上がるのを、ナズナは口を開けたまま見上げた。

 ふと、花火ではなく自分を見つめているハヤトに気がついた。照れたように視線を逸らせる彼の横顔に、ナズナは心を決めた。


 彼と共に。彼の子と共に、生きたい。どんなに苦しくても、辛くても、いつか幸せになれると信じたい。

 背後から抱きしめてくる彼の右手を、そっと握った。


「ハヤト、あたし」


 言いかけたとき、彼の指先がビクリと跳ねた。軽く呻き、手を押さえる。突然のことに、ナズナは怯えた。


「ムシ? それとも狩人?」


 声を潜めて尋ねると、ハヤトは額に汗を浮かべて否定した。


「いや、もっと、なにかあり得ないような」


 右手の開閉を繰り返しながら、ハヤト自身説明しにくい様子だった。やがて荒い息を整ええるように長く吐く吐き、耳をすませるように尾根の彼方へ顔を上げた。丁度、彼が現在養父と共に拠点にしている小屋がある方向だった。


「何か、呼ばれた気がした」


 次の花火が上がった。ナズナも耳をすませたが、谷から上がってくる人々の歓声とざわめき、小さな虫の羽音が聞こえるだけだ。カゲが合図に使う指笛は聞こえない。


「ごめん。なにか、言いかけてたよね」


 気をとり直すようにハヤトが問うてきたが、ナズナはそっと彼の胸を押した。


「呼ばれた気がしたんなら、確かめなきゃ。今の仕事が終わったら、少し落ち着くんでしょ。それからでもいいよ」


 大事な仕事を抱えているらしい今、子が宿ったことや、産んで育てたいことを伝えて彼の心を乱したくなかった。

 ぎこちなく頷くと、彼は目を伏せた。ちらりと尾根をみやり、毅然と顔を上げた。


「確認したら、すぐ戻る」

「待ってる」


 頷くナズナを、彼は抱きしめた。頬に唇が触れ、耳朶が囁きを拾う。

 愛情のこもった言葉が、鼓膜から胸の内へと滲みていく。花火が時折深くする闇へ走りこむ後ろ姿が愛しくて堪らない。

 不安を遥かにしのぐ幸福に満たされ、ナズナはしばらく一人で夜空に咲く大輪の花を見上げていた。




 夜更けに、目が覚めた。体が変に強張っている。花火の後、ハヤトを待ちながら椅子で転寝をしてしまったようだ。

 耳をすませた。

 広場ではまだ宴の名残を楽しんでいる人がいるのだろう。風に乗って声がするが、それは枝葉のざわめき程度に気にならないものだった。

 物音で目が覚めた気がしたが、そうではなかったか。無理な体勢が辛くなって目覚めたのかもしれない。ハヤトが訪れていないことの残念さを、別のことを考えて誤魔化すナズナの耳に、今度は確かなノックの音がした。


「ハヤト」


 期待に、思わず扉へ駆け寄った。彼が扉に細工してくれた穴から窺うと、暗がりに立つ人影が確認できた。

 が、扉を開けたそこに居たのは、心待ちにしていた者ではなかった。少ない髪をひっつめにした、細身の男が立っていた。白くはない肌に刃先で刻んだような細い目が冷たくナズナを見下ろす。


(しまった)


 扉を引くより先に、その者の手が扉を掴んでいた。ランプが掲げられる。


「なるほど」


 低い呟きが、満足そうに端を引き上げた薄い唇から漏れ出た。切れ込んだ鋭く細い目が、ランプの灯りに浮かび上がったナズナの手の甲を見つめている。


「あんた、『藤紫』の彩羽だった女だな。さっき口にした名を持つ男はどこだ」


 男が近付いた。まるで彼が冷気を発しているかのように、ナズナは寒気を感じた。目の前の男に気をとられている間に、闇の中からは次々と人影が現れ、ナズナを中心に集まっている。中の数名が手にする細いもの。

 弓だ。

 細く息を吐きながら、ナズナは目の鋭い男へ向き直った。


「花店の女が、馴染み客以外の者には口が堅いのはご存知?」


 店で浮かべていた妖艶な営業スマイルに、男の頬が小さく痙攣した。その後ろから、大柄な、見るからに野暮な男がナズナの顔を覗き込んできた。


「花店の女か。なら、抱かせてもらおうか。誰とだってやるんだろ」


 汚れた太い指が近付く。

 その指の動きをナズナの黒い目は捉えていた。練習時のハヤトの動きに比べれば、ずっと遅い。触れるか触れないかの所でナズナはほんの少し身体を引いた。男の指が見事に宙を掻く。


「もちろん」


 ナズナは、にっこりと微笑んだ。


「どなたでも、おもてなしいたします。但し、相当なお金を払った方に限ります」

「この女」


 ぎり、と歯を合わせた男が、拳を振り上げた。流石にさっきより速い。寸でのところで避けたが、靡いた黒髪が弾かれた。すかさず男は手首を返し、髪を掴む。頭皮の痛みに呻きながらも、ナズナは腕を振った。

 男の目が、驚愕に見開かれた。開いた指の間から零れる黒髪と、ナズナの手の先で光る小さな刃を見比べる。


「おもしろい」


 目の細い男が、ニヤリと笑った。


「くそ」


 大勢の前で恥をかかされ、どうにかナズナをものにしてやろうと襲い掛かった野暮な男が、突如呻いた。どうと足元へ倒れるのを、ナズナは慌てて避けた。

 泡を食って白目をむいた男の肩には、矢が突き立っていた。

 ナズナは驚き、自分を囲む者たちを見回した。そのうちの一人が、冷淡な表情で弦がまだ細かく震える弓を下ろしたところだった。


「仲間を」


 言葉が接げないでいると、鋭い目の男が肩をすくめた。


「使えない者に興味は無い。俺が手に入れたいのはただひとつ。ハジメ=セオ=グラントという男を切り刻む、その瞬間だけだ」


 男の口の端が次第に引き伸ばされ、頬を引き裂き、吊り上っていくのを、ナズナは呆然と見つめた。その視野の端で、数本の弓が上がる。鏃はいずれも、ナズナを狙っている。

 鋭い殺意が、ピリピリと頬を撫でた。


(この人たち、普通の狩人とは違う)


 無意識にナズナは片足を引き、腹部を庇うようやや前屈みになっていた。弓弦が引き絞られていく音が、キリキリと神経を逆撫でる。

 ナズナの中で、二つの声が拮抗した。


(ハヤト、来て。助けに来て)

(来ちゃダメ。この人たち、確実にハヤトを「狩る」つもりだ)


 鋭い目で見下ろし、男は声だけはのんびりと腕を組んだ。


「さあ、教えてくれないか。奴は、どこにいる。ああ、悩んでもいい。待ってやるさ。かれこれ十二年待ったんだ。夜明けまででも付き合ってやるよ」


 男の言葉を聞くと、不思議に心で吹き荒れていた嵐が止んだ。

 ナズナの黒い目に強さが宿り、唇の端が上がる。男が怪訝そうに眉を潜めた。

 ナズナは、自ら斬りおとして長さがバラバラになった黒髪を掻きあげた。


「いつまでも待っていなさい。そう、『方舟』がもう一度宇宙へ旅立つその日まで」


 見る間に男の顔が引きつった。


 弦が、鳴った。

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