14.自覚

 狭い自室の寝具で、彩羽は目を醒ました。とうに上った陽は、流花の隅の、ごみ溜めかと思うような娼婦の部屋にも明るさを届けていた。


 彩羽は、ほぅ、と息を吐いた。


(よかった。夢だった)


 心臓はまだドクドクと必要以上に早く動いている。吐いた息がほんのり白く見えるのに、彩羽の脇にはじっとりと気持ちの悪い汗が滲んでいた。


 悪夢の光景が、はっきり脳に焼き付いている。


 大勢の男たちに囲まれた、血まみれのハヤト。全身に突き立てられた矢の羽根の白さ、苦しむハヤトの口から溢れる大量の血の赤さ。叫ぶ彩羽に気が付き、ゆっくりと回された顔は、ハヤトのようであり、ナナのようでもあった。その顔が、彩羽を睨んで言った。


 あんたのせいだ、と。


 毒、狩人。『藤紫』で起きた不穏な動きと不安が見せた夢だったのだろう。

 ハヤトに逢いたかった。逢えば、疑問をぶつけることができる。もちろん、真実を語ってくれる保証はない。厄介者認定をされて殺されるかもしれない。それでも、ただわけの分からない不安に絡めとらているよりよかった。


(探しに行くこともできない)


 生まれて初めて、流花の外へ出たいと切望した。手足に見えない鎖が繋がれているのを感じた。品良く飾った娼館という牢獄に、自分は繋がれている。鎖を伸ばせば、流花町の中は辛うじて動き回れる。しかし、町を囲む川を渡ることはできない。


 生きている者の世界と死後の世界を隔てる川のように、水の流れはハヤトと彩羽の間を明確に区切っていた。


 店のここそこから、深夜まで接客した疲れを押し込めた女たちが起き上がり、身支度をする気配がしていた。彩羽も、頭を振ると側の服を引き寄せた。


 彩羽の心中を他所に、流花町の日常は淡々とたゆたっていた。町内にある湯屋へ行き、病院に寄って受診、店主から備品の調達を命じられていたら付けで買ってきて、店の清掃。接客をしなくても良い休日でも、これらの日課はこなさなければならない。

 通いの宮美や蓮華たちを迎え入れて清掃の仕上げをし、その間に調理係が作った賄いを食べるともう、開店準備だ。


 個室をひとつひとつ点検し、寝具の乱れやランプの油切れがないか見て回る。最も奥の部屋、増設された新しい部屋に踏み込んだ瞬間、彩羽は背後から口をふさがれた。


「声を出すな」


 耳の後ろからの囁きは、紛れもなくハヤトのものだった。彩羽は身体を固くしたまま、そっと首を回した。


「よ」


 おどけたように、ハヤトがゴーグルを上げる。来店時の薄い色の上着ではなく、初めて領主ヒデトの屋敷で出会ったときの全身黒ずくめの服にゴーグルといういでたちだった。


「具合は、もう大丈夫なのか」


 辺りを憚りながら、心配そうな目で彩羽を覗き込んでくる。その日向を思わせる温かな色の瞳をみた途端に、彩羽の中に冷たくはびこっていた彼への疑念は、たちまち消えていった。彼が生きていたことが、ただただ嬉しかった。

 今までに彩羽の心に積もり積もった様々な言葉がてんでバラバラに動き、喉でつかえてしまった。ただ無言で頷くと、彼は金色の瞳に安堵を浮かべ頷き返した。その表情が、すっと翳った。


「すまない。あんたを巻き込んで」


 彩羽は慌てて首を横に振った。それより、と、声を絞り出したとたんに、涙も盛り上がってしまった。


「無事で、良かった。全然来ないから、どうしたかと」

「俺のことは心配すんなって。生憎、あれくらいの毒ではから」

「弓矢を持った客が、すぐそこで殺されて。狙われているのかと、心配で」


 頭と胸がいっぱいで、言葉が上手く繋がらない。言わなくてはと思えば思うほど、混乱した。


 廊下で足音がした。ハヤトの表情が強張った。鋭く様子を窺う。足音はこの部屋を通り過ぎ、あちらに消えていった。

 つられて呼吸を止めていた彩羽も、ほぅっと息を吐いた。ハヤトがもう一度笑いかけてきた。一点の曇りもない、少年のような屈託のない笑顔だった。


「今日は、あんたが元気なのを確認したかっただけ」

「また来てくれるよね」


 袖を握る彩羽に、ハヤトは微笑んだ。


「生きてたら、そのうち」


 その言葉もあいまって、今にも彼が泡のように消えてなくなってしまいそうな不安が押し寄せた。

 彩羽は彼の袖を引いた。振り返ったハヤトには明らかな焦りがみえる。それでも、まだ言えていない言葉がたくさんある。ハヤトに逢ったら伝えるのだと決めていた言葉がたくさん。


 頭の中が白熱し、わけがわからなくなった末に唇から零れ落ちたのは、自分でも思いがけない言葉だった。


「キスして」

「はぁ?」


 呆れ果てた返事に、彩羽は我に返った。とんでもないことを言ってしまった。炎に包まれたように顔が熱くなった。


「ふ、深い意味はないの。娼婦と客は唇を重ねちゃいけないって不文律があることくらい、知ってるし。そうじゃなくて。外じゃ、恋人たちが別れ際とかにおでことかほっぺとかに「ちゅ」てするって聞いて。だからってハヤトとそうってことじゃなくて、お客様がお帰りのときにしたらお金をはずんでもらえるかなとかその練習というか」


(あーもう、あたしってバカ!)


 自分でも何を言っているのか分からない。ハヤトも、ぽかんとして彩羽を見つめている。


「ごめん。忘れて。急いでるんだよね」


 それでも、袖を掴んだ手を解くことができなかった。このまま離してしまえば二度と逢えないような、根拠のない不安が彩羽を縛り付けていた。


 俯いた彩羽の頭上に、ため息が降ってきた。冷たい革の手袋をはめた指が彩羽の額の髪を耳へ流し、耳飾りを揺らして頬を掬い上げた。

 見上げると、金の瞳が思ったより間近にあった。彩羽の心臓は大きく跳ねた。


「時間がない。ゆっくり五つ数える間、目を瞑って」


 躊躇っていると、早く、と急かされた。どうにでもなれと、彩羽は目を閉じた。


 ゆっくり、五つ数える。ひとつ。

 ハヤトの体温が近付くにつれ、鼓動が速まった。ふたつ。


 額にくるだろうか、それとも頬だろうか。みっつ。


 唇の端ギリギリのところに柔らかく触れる湿ったものがあった。


 次の数を忘れた。


 乾燥した彩羽の唇のささくれの先を掠めるように移動する温もり。


 寒さを感じ目を開けたころにはもう、ハヤトの姿はなかった。唇の端に、まだ彼の名残がある。指でなぞって、彩羽はへなへなとその場に座り込んでしまった。


(ひどい)


 当分落ち着きそうにない心臓を押さえる。外気は刺すように冷たいのに、顔は火で炙られているように火照りを冷まさない。

 この気持ちのまま、次にいつ逢えるか分からない人を待てというのか。


 彩羽は娼婦だ。借金を返済するまで、娼館『藤紫』の所有財産である。

 そして、ハヤトは反逆者だ。おまけにテゥアータ人の容貌をしている。地郷での存在を許されない人物だ。


 決して、祝福されない恋。


 それでも、ハヤトが好きだ。どうしようもなく。


(店を、出たい)


 気になったときいつでも彼を探しにいけるように。彼に危険が迫れば知らせに走れるように。そして。


 片思いでもいい。店の規律に縛られず、思いのままただ一人の人を愛せるように。


 彩羽は、母の指輪を握った。身体の奥から湧き上がる熱を石の青さで冷まそうとするかのように、胸に押し当てた。この街の規律に反してまで自分を生んだ母の気持ちが、少しだけ分かった。


 誰かを好きになること。愛した人と暮らすこと。他の地球人種にとって自然で当たり前のことが、娼婦には許されない。


 ならば。


 借金を全て綺麗に返済し、堂々と店を出るしかない。

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