虹を追って
24.幸せな日々
すぐ側で、驚愕と憔悴の入り混じった叫び声があがった。同時に、ナズナの肩から寝具の上掛けが奪われる。
狩人の襲撃か。
つられて飛び起きたが、辺りは穏やかな夏の朝だった。
まだ夜が明けきらないとみえ、開けた窓へ虫除けのため張られた布を通し、ひんやりとした淡い光が部屋を満たしていた。
ただ、いつもの、と言うにはふさわしくない。身じろぎすれば触れられる距離、同じ寝具の上に座る、ハヤトの姿があった。
「やば。完っ全に寝入ってた」
自分自身に舌打ちし、うろうろと視線を彷徨わせながら、本来の髪色を隠す鬘の固い髪をかき上げる。そうしながら、片方の手は寝具の脇に置かれた銃を確認していた。周辺に差し迫る脅威がないと判断したのだろう。警戒を解くと、今度は大きく息をつき、がっくりと細い肩を落とす。
「不覚」
悄然と呟く姿があまりに情けなく、ナズナは後ろから背中を軽く叩いて慰めた。
「疲れてたんだよ。ずっと、忙しかったんでしょ? それに、あたしも夜中に気付いていながら無理に起こさなかった。ごめんね」
「ナズナは悪くない」
きっぱり言い切り、ハヤトがナズナの髪を撫でた。この町の乾燥と昼の強い日差しに、花街にいたときより艶が失われ、しなやかさにも欠ける黒髪を、それでも愛しそうに撫で、絡まりを手櫛で解していく。
「こんなんじゃ、俺、夜襲をかけられたとき、ナズナを守りきれない」
自信なさげに伏せる金の瞳に、淡い影が落ちた。彼の養父のほか、ナズナにしか見せないという本来の彼の顔。
落ち込んでいるハヤトには悪いが、ナズナは喜びと幸福で胸がいっぱいになっていた。
「そのときは、そのときだよ。別に責めたりするつもりはないし」
だって、とハヤトの肩へ顔を埋めた。滑らかな皮膚の下に、しなやかな筋肉を感じる。昨夜、共に疲れ果てるまで触れ合ったはずの肌を再度欲している己に赤らむ頬を隠した。
「こうして、ハヤトと朝を迎えられるほうが嬉しい。毎朝、こうだったらいいのに」
彼がカゲであり、地郷社会がテゥアータを受け入れない以上、無理な話とナズナも承知している。
だからこそ、一般の地球人種カップルなら当たり前に迎える朝を体験できた今朝は、何にも変えられない貴重なものだ。
戸惑うように振り返ったハヤトも、はにかむナズナを見て頬を緩めた。
「そう、だな」
そのまま絡み合いそうになる腕を、ハヤトが止めた。未練をこめてナズナの額に口付けると手早く身支度を整える。
外では、ヤギ追いの溌剌とした掛け声が響き始めていた。じきに、鉱山が鉱夫を呼ぶ鐘を鳴らすだろう。地郷北部に新しく作られた町が活動し始める。
「じゃ、またね」
別れ際に抱き合う腕を解くまでの時間が辛い。
今度はいつ会えるか。約束は出来ない。もしかしたらこれが最後かもしれないと、毎回不吉な思いを払拭するのに苦労する。
それでもナズナは、彼を送り出すときは笑顔だった。彼もまた、ふわりと笑う。色眼鏡に隠されているが、穏やかな金色の目は優しさに溢れていた。
「生きてたら」
朝靄が流れる谷道へ向けられた瞬間に、彼の表情はひきしまり、カゲの射撃手ハヤトへ変わる。その後ろ姿が薄布のような乳白色の風景に隠されるとようやく、ナズナは扉を閉めた。
花街から移り住んで三ヶ月が経とうとしていた。その間、彼と会えたのはほんの数回。身請け前に聞かされていた通り、店を出たからといってずっと一緒にいられるわけではない。
それでも、ナズナは以前より幸せだった。
彼を待つ間、他の男の相手をしなくても良い。ただ、待っていればそれでよかった。
小さな食堂は、土埃と汗にまみれた鉱山労働者で溢れんばかりだった。奥の厨房では、店の大将が盛んに湯気をたてる大釜で調理をしていた。
「ナズナ、これお願い」
女将に渡された皿を両手に載せ、客へ運ぶ。女将の足元にまとわりついている幼子も、調味料の器を抱えてよちよちついてきた。机の間をぬって客のもとへ行けば、褐色に陽に焼けた労働者が、待ってましたと満面の笑みで受け取るや否や、短い休憩時間を有効に使おうと掻きこむ。
ナズナがこの町で見つけた新しい仕事場は、最も忙しい時間をむかえていた。
新たに数名の客が入ってきた。
その姿に、ナズナは小さく首を傾げた。この町では見かけない、上等な服を着た客たちだった。
「ありゃ、中央の人間じゃないか」
同様に気がついた客が、隣の相棒に小声で話しかけるのが耳に入った。
「祭りに顔を出すんじゃね? あの新しい鉱脈、えらくお役人さんのお気に召したらしいから」
「だったらいいけど」
「心配するな。今更俺たちを追っかける公安なんざ、来やしないよ」
頷きあったものの、二人は食べる速度を速めた。空になった器を机の隅に揃えると、慌ただしく席を立つ。入り口で空き席を待つ身なりの良い客の視線を避けるようにして、十二になる大将夫婦の息子に代金を渡して出て行った。
近年発見された鉱山は、多くの働き手を求めた。
しかし、地郷の中心から二つの山を越えた、しかも六年前にテゥアータ人数名によって壊滅状態になった村の近くへ、今携わっている仕事を手放してまで移り住もうという人は少なかった。
結果、この町には、脛に傷を持つ者が集まった。
災害で畑を失った農民や、各種事情があって町に住み続けられなくなった町民が鉱山を支えている。
それ故に、ナズナの手の甲に刻まれた紋を見ても、とやかく言う人は少ない。かく言う食堂の大将も、陽焼けして目立たないが、ナズナと同様の焼印痕を持っていた。
「あ、こら」
女将の声に、ナズナは振り返った。幼子が調理場へ入ろうとしている。両手一杯に皿を持った女将の代わりに、幼子の脇を抱え上げた。
「いやぁ」
「ほーらヒナちゃん。ここから見えるかな」
胸の高さに抱き、大将の姿が見えるようにしてやる。大将も、釜を混ぜる手を止めて幼子に笑みを見せた。満足した子供は、きゃっきゃとはしゃいでナズナの腕の中で身体を揺する。
柔らかな感触に、ナズナは頬を緩めた。
「ほんと、ナズナが来てくれて助かるわ」
女将の言葉と笑顔が、ナズナの中に温かく滲みていった。
鉱山の休憩時間が終わると、店は嘘のように静まり返った。身なりの良い客のみが残った。食後の茶を飲みながら額を突き合わせ、難しい顔でぼそぼそと話し合っている。
「ナズナ、先に食べといて」
賄いの食事から立ち上る湯気が、ナズナの鼻をくすぐった。
今日は特別にヤギ肉が手に入ったので、たっぷりの野菜と肉の煮込みが主菜だ。臭みを抜いた肉は、大将の腕にかかって柔らかく調理され、客が舌鼓を打っていた。
が、ナズナは腹から上る不快感に、思わず顔を背けた。
「具合が悪いの?」
異変に気がついた女将が、皿を片付ける手を止めた。ナズナの額や首元に温かい手を当て、口元を覆う顔色を覗きこむ。
「暑さにやられたかね。それとも」
にやりとした女将が、会計を確認している息子に聞こえないように囁いた。
「彼氏が寝させてくれないとか」
「そそそそそそんなこと、ないです」
慌てて首を振ると、血の気が下がった頬の赤みが僅かに復活した。
「今日は一段落ついたから、もう帰りな。遠いけど町外れの診療所がいいよ」
笑いながらも心配そうに眉を潜め、女将が山の頂上の方を指差した。テゥアータ人に襲われた村がある方向だった。
「うちの人も、町から出てすぐは昼の生活に慣れなくてよく身体を壊したって言うし」
「でも、今夜は」
ナズナは申し訳なさに口ごもった。
先ほどの客が話していたが、夕方から祭りが執り行われる。新しい鉱脈の採掘が軌道に乗ったことを祝い、鉱夫を労う祭りだ。町の中心にある広場で宴が繰り広げられる予定と聞く。花火まで打ち上げるというから、新しい鉱脈は相当期待されているようだ。鉱山を取り締まる親方と大将が親しい縁で、この店は酒と料理の用意を頼まれていた。昼の忙しさが終わっても、今宵だけはナズナも残って手伝う算段になっていた。
「大丈夫よ。なんとかなるって。無理は禁物。良くなったらまた手伝ってちょうだい」
温かな言葉を感謝し、ナズナは早々に帰宅させてもらった。乾いた山道に、短く濃い影が落ちる。確かに、山の夏の陽射しは強かった。今まで主に夜の屋内で生活をしていたナズナには厳しい。
(診療所、遠いなぁ)
頭上に輝く陽に手をかざし、ナズナは迷った。
評判は良くないが、町にも診療所があると鉱夫が言っていたのを思い出し、そちらへ足を向ける。日陰を選んで歩きながら、ため息をついた。
(早く昼の生活に慣れなきゃ)
初めての外の世界、初めての昼の生活。
新しい環境に慣れ始め、最初の緊張が薄れて気が抜けたのかもしれない。
女将に言われた言葉を思い出し、ナズナはひとり、小さく笑った。もし、ハヤトと一緒に生活していたなら、彼女が言ったように毎晩寝不足になっていたかもしれない。
数日前、彼と迎えた幸せな朝の記憶を反芻したナズナは、ぎくりと足を止めた。
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