23.飛び立つ

 操られるように首を縦に振ろうとしたのを阻んだのは、宮美だった。場にそぐわないゆったりとした口調で、彼女は一枚の紙をひらひらさせていた。


「さあさ、皆さまお立ち会い。こちらの若いお客様が、彩羽を責任持って身請けするとおっしゃるの。ここに彩羽の直筆署名が入れば、この身請け承諾証は最も信用できる公文書になるわ」


 宮美は、わざと酒場にいる全員に書類が見えるよう、各テーブルの間をジグザグに縫って歩いた。書類に目を近づける者、首を伸ばす者、店主の顔色を窺いながらも頷く者。

 その中のひとり、ハカセが、丸眼鏡を指で押し上げた。


「地郷花街法において、流花町の各店に買われた者の身柄を他の町の者が買い受ける場合、契約書類には買う者、店の責任者、買われる者自身の署名が必要であり、そのいずれかが識字において自署が困難な場合、本人の立会いの下での代筆によって正式な署名とみなす」


「ほ、ほれ。私は店の責任者として、署名などしていない」


 虚勢を張る店主を、宮美が流し見た。


「あら。言ってなかったかしら。経営費の出資額の割合によって、去年から書類上、私が責任者になってますの」


 店主があんぐりと口を開けた。彩羽も初耳だった。ただ、沙月だけは、宮美を後押しするよう頷いていた。


 ハカセの隣で、モッさんが縮れた髭を震わせた。


「いやあ。宮美ちゃんは怖いねぇ」


「そこまでするか、普通」


 ぼそりとハヤトが呟いた。にっこりと、宮美がハヤトに微笑む。


「あら、なにか言った?」

「何も」

「じゃあ彩羽。この生意気な若者が身請け人で今後何かと振り回されて苦労する人生であってもいいなら、ここに署名して」


 ハヤトが小さく舌打ちをして視線を反らせた。

 ペンを手に押し付けられ、彩羽は呆然と机の上の書面を見つめた。宮美が指差す空欄に署名をすれば、ハヤトと共に生きていける。

 ペン先が震えた。息を吸い、吐いた。唇へ力を込め、書類に手をつく。

 引かれた線は、ぐねぐねと不恰好だった。しかし、確かに彩羽は、店での名と本来の名を力強い筆致で記した。


 店主が目を見張った。


「いつの間に、字を」


 震える手が、ペンと書類を奪おうと迫った。悲鳴をあげ、彩羽は飛びのいた。


「彩羽、頑張ったもんね。ほかの皆も触発されて、今では誰でも正しい契約書の文書は読めるし、自署できるようになっているんですよ」


 にこやかな宮美の言葉は、店主の強がりを打ち砕くのに十分すぎた。へなへなと崩れ落ちた店主は、白目をむいてゆらゆらと上半身を揺らし続けた。


「おい、どういうことだ。お前、俺の払った金を、どうしてくれるんだ」


 裸体で店主に詰め寄る客に見向きもせず、宮美はハヤトの方を見た。


「これで、めでたく契約成立。ただし、通例に則って、引渡しは一ヵ月後になりますが、よろしくって?」


 彩羽は、思わず彼の袖を握った。


 小者のくせに卑怯な店主は、今後も宮美の目を盗んで復讐をしかけてくるかもしれない。強引に彩羽を身請けしようとした客も、いつ逆恨みしてくるか分からない。宮美が本当に経営責任者となっていたとしても、彼らをこの店や町から締め出すまでの力は無い。

 その中で、月が一巡りする間過ごせるか。彩羽には自信がなかった。だが、その思いも乾いた喉に張り付いて口から出てこなかった。


 今すぐ、ここから連れ出して欲しい。


 彩羽は心で叫んだ。


「そういう決まりなら」


 言いかけたハヤトが、ふと言葉を切った。なにか問い返すような眼差しで、彩羽を振り返る。ひとつ頷くと、宮美へ問うた。


「特例があるのか?」


 宮美が、含みのある笑みを浮かべた。


「この先一ヶ月の彩羽の収入見込み額を、先ほどいただいたお代金に上乗せしていただければ」

「よ、やり手姐さん」


 おどけたタケさんが、口の両側に掌を当て叫んだ。興に乗った客が、ここかしこで同様の掛け声を上げる。


「どうするよ、若いの」

「彩羽ちゃんは高いぞぉ。身請けしたはいいが、貧しい暮らしをさせるようなら止めておけ」


 指笛を吹きならす者まででてきた。大勢に煽られ、ハヤトが苦笑する。


「その前に、よぉ」


 ゆらりと、裸の男が立ちはだかった。


「慰謝料ってもんを、払ってもらおうか。え? そりゃ、この役立たずのぼんくらからは花代を倍にして返してもらうが」


 ぎろりと睨まれた店主の顔が、雪のように白くなった。


「今夜この女との時間を台無しにした分、払ってくれるって言うなら手を引いてやっていいぞ。通常料金の五倍だ」


 随分な言いがかりだ。花代の返金で済む話であり、しかもハヤトに直接支払いを迫るのはお門違いだ。店へ求めればいい。


 そのことを、宮美が言ってくれるものと期待した。が、ハヤトの肩口から窺い見た彼女は、面白い見世物の成り行きを楽しんでいる顔をしていた。


 一同が注目する中、ハヤトは大袈裟に肩をすくめた。誰もに聞こえるようにため息をついてみせる。


「ったく。どいつもこいつも」


 ニヤリと口の端を引き上げると、彩羽の身を包んでいる上着の中ポケットへ手を入れた。


「ほら」


 引き出した指先から、地郷紙幣が飛ぶ。はらはらと舞い落ちるのを、男は無様に追った。

 おお、とどよめきが酒場に広がる。


「こっちは、さすがに後日残りを渡す。今はこれで」


 宮美の手元へ、かなりの厚さの札束を落とした。


「ありがとうございます。今後とも、ご贔屓を」


 勝ち誇った笑みの宮美に、ハヤトは拗ねたように口を尖らせた。


「二度と来ねぇよ」

「あーら。残金は?」

「マサに託す。いいだろ、それで」


 興奮に包まれた酒場の喧騒で、ふたりのやりとりは側に居る彩羽にようやく届く小声だった。

 親密な会話を不思議に思い、彼を見上げた。視線に気が付いたハヤトが苦笑した。


「こんな派手にやる予定じゃなかったんだけど」


 さらに何か言いかけたハヤトが、軽くよろめいた。


「よう、若いの。なかなかやるじゃないか」

「俺たちの彩羽ちゃんの身を請けるとは、いい度胸だな」


 すでに首まで真っ赤になった酔客が、勢いよくハヤトの背中を叩いた。首に腕をかけ、絡む。待ってましたと、ここそこから集まった客が彼を取り囲んだ。手に盃を渡され、零れるまで酒が注がれた。飲めとはやし立てられ、ハヤトは困惑しながらも、その場の空気を汲んで盃を煽る。


「いい飲みっぷりだな。こっちも飲め」

「勘弁してよ、もぉ」


 やんわり断って聞く相手ではない。何度も干される盃に、酒場は沸いた。


「ちょっと、皆さん」


 おろおろと止めようとした彩羽を、宮美が柔らかく制した。いいじゃないの、と彩羽の乱れた髪を解き、手櫛を通す。整えた黒髪は結い上げることなく、下の方で緩く束ねられた。


 誰かが服を持ってきてくれた。

  

 ハヤトの上着で肌を隠しながら服に足を通した。その間に、背後に回った宮美が項で肩紐を結ぶ。そっと近付いた彼女の唇が囁いた。


「ナズナ。幸せになるのよ、ハヤトと」

「え」


 宮美が客を敬称無しで呼ぶなど、あり得ない。振り返ったが、彼女はその色気を湛えた顔を沙月へ向けていた。


「守衛に、彼女の部屋を守るよう言って。それから、皆に伝えて。急で申し訳ないけど、明朝、お見送りするわよ」


 沙月は悔しそうに睨みつけてきた。が、すぐに力を抜き、彩羽の肩を軽く叩いた。


「私の負け。おめでとう」


 毒気が抜けた優しい微笑みに、嫌味は一切含まれていなかった。

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