22.逆襲

 店主が隠していた帳簿。


 そこには、青蘭の遺産ばかりか、当時勤めていた女たちの財形に関わるものもたくさんあった。それにより、借金の額が激減した女が何人もいた。

 沙月もそのひとりだった。


「おかしいとは思っていたのよ」


 調理係が振舞ってくれた熱い茶をすすり、沙月は息を吐いた。


「働いたわりに、借金はいつまでも減らない。でも、部屋代や食事代で消えているんだと言われ続けて。私、ここでそんなに食べたかしら、て」

「本当にそうなら、沙月は今、満月になってるわよ」


 宮美が口元へ手を添えて優雅に笑う。その優雅さを、彩羽は密かに恐れた。


 穏やかで柔らかい笑みの下に、彼女はとんでもない執念と厳しさを隠していた。店主を見下ろした目に宿る蔑みを見てしまった後では、素直に彼女の笑顔に見惚れるわけにいかない。


(何者なんだろう)


「彩羽、良かったわね」


 話を振られ、彩羽は慌てて口に含んでいた茶を飲み込んだ。舌を火傷する。


「え、ええ」

「半年頑張って完済できたら、保証人の募集をかけるから。いい人が見つかるといいわね」


 そのことだけど、と言いかけ、彩羽は慌てて口をつぐんだ。


 宮美の計算上、今なら地郷公安部員の三ヶ月分の給与で彩羽を身請けできる。帳簿が見つかる前の計算額の四分の一以下になっていた。


(ハヤト、待っておくようにって、このことだったのかな)


「けど、よかったですね。元役場の会計役の方が現場におられて」


 話をそらすために、彩羽は初老の客のことを話題に出した。


「ほんと」

「さすがは一級店の『藤紫』ね」


 女たちは、口々に客や店を褒め始めた。

 みなの関心が反れ、彩羽は密かに安堵の息をついた。茶の器に口をつけようとした視野の端に宮美の含みのある笑顔を見つけ、彩羽はどきりとした。

 慌てて視線を反らせるより先に、宮美が悪戯っぽく片目を瞑る。


(え)


 彩羽は思いをめぐらせた。

 あの場に居た客はふたりとも、宮美の常連だった。


(もしかして、こうなることを知っていて彼らを呼んでいた?)


 そもそも、雨が降り続いたくらいで、新しい漆喰がああも無残に崩れるだろうか。頭の中を目まぐるしく走り回る推測の数々を笑い飛ばすように、宮美は椅子の背にもたれ、すらりとした足を組んで天井を見上げた。


「これでやっと、青蘭に恩返しができるわぁ」


 満ち足りた横顔はやはり、優雅で恐ろしかった。




 長雨が上がり、川の水もいつもの透明さを取り戻した。客足も戻り、酒場は連日賑わった。


「大変だったねぇ、店主。ありゃ、修理費もバカにならんだろう」


 客の労わりに、店主は災害被害者の顔で礼を言っていた。隠した冷や汗は、今のところ誰にも発見されていない。

 発見された帳簿の内容を店主が適正に女たちの売り上げに反映させることを条件に、あのときの二人の客は事件を口外しないと誓ってくれた。そのため「川の増水と長雨のため増築部分に被害が出た」『藤紫』を、客は何も知らず、慰めてくれた。

 女たちも、どこか浮ついた気分を押し隠しながら、何事もなかったように接客をしていた。


「彩羽、お客様よ」


 ひとりの女が呼びに来た。

 返事をして、立ち上がったと同時に、入り口の鐘が揺れた。ふらりと入ってきた姿に、彩羽は胸を高鳴らせた。

 ハヤトも彩羽を見つけ、軽く手を挙げる。愛想笑いを浮かべた女が近付き、言葉を交わして彼を空いている席へ案内した。

 花店でのいつもの光景だ。奥の間に呼ばれた女が担当する客が来た場合、別の女が代わりに席へ案内する。そこで目当ての女が空くまで待つか、他の女と過ごすか、食事だけにするか。そこは、客の判断に委ねられる。

 後ろ髪を引かれる思いで奥の間へ向かう途中、沙月と擦れ違った。酒場の様子を確認した彼女が、ニヤリと笑う。


「私がお相手しているから、ご心配なく」


 通りすがりに囁かれ、彩羽はかろうじて笑みを返した。

 彼が、沙月を本気で相手にするはずがない。自信があった。彼を信じている。それでも、言いようのない嫌な気持ちが一筋、彩羽の胸に落ちた。


 白い花輪は、入り口から比較的近い扉にかかっていた。


 待っていたのは、古くからの客だった。先代の店主の知り合いだからと、態度が横柄で、女を痛めつける。何度か守衛の注意を受けた前科も持っていた。

 そのこともまた、彩羽の気持ちを下向きにさせた。


 案の定、挨拶が終わらないうちに彩羽は寝台に押し倒された。

 この日に限って、ハヤトからもらった布で仕立てた服を着たことを悔やんだ。男の乱暴な手が服を引き剥がす。彩羽はただ、大切な服を引き裂かれないように気を配って動いた。


 少しの間の我慢だ。痛みにも屈辱にも目を瞑り、ただ嵐に靡く草のようにやり過ごそうと努めた。


 だが、上手くいかなかった。

 僅か数十歩離れた同じ屋根の下にハヤトが待っていると考えると、ここで他の男に蹂躙されていることが堪らなく苦痛だった。


(仕方ない。まだあたしは『藤紫』の女なんだから)


 何度も自分に言い聞かせ、男が満足するのを待った。


 だが、男は途中でぴたりと動きを止めた。


「どうした。まるで上の空だな。客に失礼じゃないか?」


 ぎくりとして、彩羽は首を横に振った。


「そんなことは、ありません」

「出て行く見込みが出来たからって、手を抜くようじゃ困るな」


 卑下た笑いが彩羽の心臓を凍りつかせた。


「そのお話、どこから」


 声が震えた。店内で緘口令が敷かれている情報がこの男に漏れるとしたら、出処は一つしか考えられない。男は嫌らしく笑うと、耳元へ口を寄せた。酒と煙草の入り混じった息が頬にまでかかった。


「先代からの縁でね。彼は、俺がずっとお前を狙っているのを知っている。書類が整い次第、お前は俺のものだ」


 身体のみならず、心をも痛みが貫いた。


「書類には、あたしの署名が必要なはず」

「そんなもの、代筆で済むだろう。お前は字を知らないのだから」


 店主の復讐だ。


 宮美によって罪を暴かれ、みなの前で恥を掻かされた店主が黙っていられず、この客を利用して宮美の、青蘭の願いが達成するのを阻もうとしている。


 あまりの卑怯さに、吐き気がした。歯を食いしばって耐えた。かといって、大人しく店主やこの客の思い通りになるわけにいかない。ハヤトと引き裂かれ、この男に囚われるなど、嫌だ。


「署名くらい、自分で出来ます」


 呻くと、再び男の動きが止まった。


「何だって?」

「署名くらい自分で書けます。お客様の書類は、ただの紙切れです」


 乾いた音がして、右頬に痺れを伴う痛みが走った。怒りをたぎらせた男の目が、鼻先でらんらんと光っていた。


「断るというのか? 俺の元へ来れば、死ぬまで生活に困らないぞ。身の回りのことは侍女どもがやってくれる。お前は他の妾と同様、俺の相手をしていればいい」


 それが嫌なのだと、怒鳴りつけたいのを辛うじて飲み込んだ。


「あたしは、そのような生活を望んでおりません」

「はっ。じゃあ、どのような生活を望んでいる。花街から出た女が、どんな暮らしをしていけるというんだ」


 男の手が、焼印の刻まれた手を掴んだ。


「この印がある限り、普通の民に紛れることなんかできやしない。道端で野たれ死ぬのが関の山だ」


 香芽の水死体の記憶が閃いた。彼女を大切にすると誓ったサトシに身請けされてすら、周囲の冷たい棘に耐えられず川へ身を投げた香芽。


(彼は、違う)


 真剣なハヤトの眼差しを思い浮かべ、勇気を搾り出そうとした。

 しかし、不安がそれを邪魔する。

 問題なのは彼ではない。彼の周囲がどのように花街出身の彩羽を見るのか。それによって彼は、今まで以上に肩身の狭い思いをするのではないか。


(そんなこと、やってみないと分からない)


 己を鼓舞しようと、彩羽は指輪の手を握った。毅然と男を睨みつけた。黒曜石の輝きを持つ、漆黒の瞳で。


 男がひるんだ。手の力を緩めた隙を、彩羽は逃さなかった。


 ありったけの力で男の身体を突き飛ばす。柔らかすぎる寝具の上でよろめく手足をかいくぐり、裸のまま部屋を飛び出した。


 暴力を振るわれたことを訴えようとしたが、生憎、廊下に守衛はいなかった。躊躇した後ろから、男の怒声が近付く。

 彩羽は覚悟を決めると、そのまま薄布を掻き分けて酒場へ走りこんだ。


 どよめきと好奇の視線をなぎ倒し、宮美を探す。


(こんなときに)


 艶やかな笑顔の定位置である会計台脇の机は無人だった。

 その代わり、彩羽は見た。

 宮美がいつも座る席の隣で立ち上がった、小柄な人影を。


 迷わず彩羽は、酒場を横切った。細い胸元へ、一直線に飛び込む。


「どうした」


 素早くハヤトは上着を脱ぐと、彩羽の肩にかけた。


 安心すると同時に、震えがきた。押し込めていた恐怖が雪崩れ込み、彩羽は歯の根も合わず、ただハヤトにしがみついた。


「このクソ女が。まともな接客も出来ず、よくもこの店の看板娼婦を名乗れるな」


 目も背けたくなるあられもない姿で、男ががなりたてた。眉を潜めた店主が、手揉みをしながら近付いてくる。


「困りますよ、お客様。彩羽はあちらのお客様のお相手の途中でして」

「見りゃ分かる」


 言い返すハヤトも、困惑を声に含ませていた。


 暖かなハヤトの掌に頬を包まれた。そっと上を向かされる。抵抗する力もなく、彩羽は震えながら彼を見上げた。


「何があった」


 優しい問いに、彩羽は乾いた唇を開けた。喉が張り付いて声が上手く出ない。何度か掠れた喘ぎを出すのが精一杯だった。

 堪忍袋の緒が切れかけた様子で、店主が接客用の猫なで声に苛立ちを含ませた。


「お客様。彩羽をお返しください。彼女はすでにあちらのお客様との間に身請けの仮契約も済ませており」

「は?」


 途端に、ハヤトの声が低くなった。店主が青ざめ、片足を引いた。


「で、ですから、その、もう、身請け先が決まっておりまして、その」

「そんなはずはない。俺は今、宮美を通して彼女の身請け手続きをしているところだ」

「そんなものは、嘘っぱちだ」


 仁王立ちで、客が喚いた。一糸纏わぬ姿であるために、なんとも様にならなかったが。

 酒場にいる大半の者が視線を反らせる怒りの形相を、ハヤトは冷たく睨みつけた。


「いや、彩羽の身を請けるのは、俺だ」

「で、ですが、彼女の了承もとって。そうだな、彩羽」


 刹那、店主の目が脅迫してきた。


 身請けが決まっても、即日で店を出られることはまずない。手続きその他で、一ヶ月は働かなければならない。その間、裏でどのような折檻をされるか。


 過去に受けた痛みが、彩羽の心を弱くした。

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