7.色気って何
はれて身請け先が決まり、荷物の包みを抱えて
「いつになったら、私はここを出られるのかな」
彩羽よりもずっと前から客をとっている女が、しんみりと呟いた。それを機に、里心が疼いたのだろう。ここかしこで悲しい啜り泣きが上がった。
「自由の身、かぁ」
沙月も空を見上げ、ぽつりと言った。
空気が冷たい。昼過ぎの空はよく晴れていて、凛と透き通っていた。どこまでも高い空を、一羽のオオトリが悠々と舞っているのが小さい点として見えていた。
「次は私の番になるように、がんばろっと。一日でも早くここを出て、『暁の竈』の焼き菓子を買うんだから」
拳を握って笑う沙月に、周囲の女たちが同調する。涙を拭いて、あそこの店もいいとか、解放されたら家族を探すのだとか、夢や目標を語り合う。
その様子を、彩羽は一歩退いて眺めていた。
生まれたときから花街で育った彩羽は、外にどんな店があるのか知らなかった。それに、外で待ってくれている家族もいない。大門を潜り橋を渡った先の世界は、彩羽にとって未知のものであり、懐かしむものではなかった。
一縷の望みがあるとしたら、父親の存在だ。店の者には頑固として心当たりがないと言い張っていた母だったが、幼い娘が尋ねたときは違った。とても優しい顔で微笑み、頭を撫でてくれた。その眼差しは、娘の中に誰かの面影を見ているようだった。
(お父さんが迎えに来てくれたり、しないのかな)
とうに諦めていた気持ちが、ふと彩羽の胸中を掠めた。
「ね、彩羽はここを出たらどこ行きたい?」
不意をつかれて、彩羽は口ごもった。比較的年数の浅い女が、輪から外されている彩羽に気を遣ってくれたのだろう。しかし、その問いは逆に、彩羽を他の女たちから遠ざけるものだった。
出てこない返事の代わりに、沙月の嘲笑が響いた。
「だめだめ。その女はここしか知らないんだから。外でなんか暮らせやしないわ」
「少しは外の世界も見てきたらどう? あ、でも必要ないか。彩羽はここが好きで、出て行く気なんてこれっぽっちもないもんね」
くすくす笑う沙月たちに、彩羽は言い返せなかった。言下に、きちんと「仕事」をしないことを責められると、反論できない。
(早く次の「赤花の日」にならないかな)
女たちの輪に背中を向け、彩羽はそっと息をついた。
月のもののとき、彩羽たちは髪に赤い造花を飾る。その期間は個室での客の相手を免除される。具合が悪いうえに稼ぎが減ると不満を言う沙月と違って、彩羽にとって「赤花の日」は心休まる穏やかな期間だった。
しかしそれも『藤紫』の特例。他店へ売られてしまえば、月のものであろうと病気であろうと客を取らされる。
彩羽の働きぶりに大きな改善がみられないまま、期限は一日、また一日と迫っていた。
暗い気持ちで酒場を横切っていると、調理場の入り口で呼び止められた。
女たちの取りまとめや相談役、店の会計などを切り盛りしている
「また喧嘩?」
視線で戸口の沙月を示す宮美に、彩羽は曖昧に笑った。喧嘩にもならない。沙月が一方的に彩羽を嫌っているだけの話だ。
「まあいいわ。丁度良かった。これ運ぶの手伝ってくれる?」
頷き、彩羽は木箱に手をかけた。
店の料理はそれだけでも評判がよく、調味料も三日おきに仕入れてもすぐなくなる。日持ちがするのだから一度に仕入れる量を増やしたいが、保管のための倉庫が狭いのが悩みどころだった。
彩羽は、窓のない倉庫でランプの灯りを頼りに在庫と帳簿を照らし合わせ、算盤で計算し、帳簿になにやら書き込む宮美を見ていた。そのうち、彩羽の視線に気が付いた宮美が、形の良い栗色の眉を上げた。
「なぁに?」
柔らかく問われるが、彩羽は口ごもって首を横に振ることしかできなかった。その様子に、宮美は表情を曇らせた。
「彩羽、大丈夫? 店主から聞いたけど」
経理も任されている宮美に話がいっていても全くおかしくない。しかし、改めて彼女の口から話が出ると、頼りにしていた人にまで自分の不甲斐なさを把握されていた事実に胸を刺された。思わず涙が転がった。
「まだ、お客様のことが怖い?」
彩羽は頷いた。喉に詰まる声をどうにか引っ張り出す。
「追い出されるのも、嫌。だけど、がんばれない」
「まあね。がんばれ、て言えるような仕事でもないし」
自嘲しながら、宮美は倉庫を出るよう促した。調理場の裏手でお茶を淹れ、彩羽に勧めてくれた。
狭く寒い日陰で、両手で包み込んだ器だけがほのかな温もりを彩羽に伝えた。
「さすがに今回は私も店主に強く言えなくて。彩羽の稼ぎが良くないのは、数字にはっきり表れているから」
「ごめんなさい」
「ううん。あなたをそんな風にしてしまったのは、先の店主たちなんだから。青蘭があれほど一生懸命、あなたを守ろうとしていたのに」
母は、花店で育つ娘に仕事のことを教えなかった。かわりに教えたのは、文字の読み書きと計算だった。激務の合間をぬってのことなので、宮美に言わせると学問所の初等科程度しか習得できていない。それでも、識字率の低い地郷において、自分ひとりの食い扶持を真っ当な仕事で稼げるだけは身に付けることができた。
母の身請けを申し出たのが一般地郷民や研究者だったら、母は喜んで応じただろう。領主ヒデトは、身請けをした後の母と彩羽を、己の性欲を満たすために使おうとしていた。そのことを見抜いたからこそ、母は身請けを拒んだと宮美からは聞いている。
一番人気の娼婦ともてはやされていても、母はこの仕事を忌み嫌っていた。そうでなければ、自分に似た姿の娘を仕事から遠ざけはしなかっただろう。
そんな仕事でも、自ら望んで身を投じる人もいる。彩羽は、優雅に茶を淹れる宮美を見つめた。
宮美は通いの女だ。店への借金はない。教養もある。数年前まで、青蘭と並ぶ人気女娼だったが、年齢を理由に引退した。その後も尚、昔からの馴染みの客を相手にしながら、店主を助けて経営の仕事を請け負っている。
「宮美さんは、何故、この店で働いているんですか」
ぽそぽそと問うと、彼女は口元へ運んだ器を机に戻し、少し首を傾げた。
「給料がいいし、ある程度の時間の自由もあるし」
不意に、宮美は茶色の瞳をくるりと回した。近くに何人もいないことを確認し、そっと彩羽へと身を乗り出す。
彼女が前のめりになったことで、彩羽は彼女の大きく開いた襟元を覗きこむ形になった。
薄暗い中、深い胸の谷間が近付く。触れば吸い付きそうな弾力をうかがわせる肌が迫った。彩羽は思わず生唾を飲み込んだ。白くほっそりとした首筋が目前にある。
ぞくりと項が粟立った。恐怖からではない。胸の奥底にくすぶる魔性が疼くのを感じた。顔が熱い。
宮美の形の良い唇が、彩羽の耳朶に囁きを吹きかけた。
「実は、探し物をしているの。これは、誰にも内緒よ」
どきまぎしながら、彩羽は頷いた。その実、彼女が何を喋ったか、まったく頭に入っていなかった。ただ、宮美が身体を離して尚、垣間見えた柔らかな胸の谷間の残像が目の前にちらついて消えなかった。
宮美が悪戯っぽく片目を瞑る。その仕草もまた、彩羽の鼓動を早めた。
「あらやだ。なに真っ赤になってるの?」
ころころ笑う宮美に返事ができず、彩羽は茶をすすった。
(宮美さんが色っぽすぎるのがいけないんです)
言葉に出来ない不満を吐く。火傷をした舌先がひりひり痛かった。
「どうやったら、色気が出るのかな」
黒髪に挿した赤い造花の飾りを揺らし呟く彩羽に、ハヤトが盛大に顔をしかめた。
「それ、俺に聞くか」
「だって」
沙月たちに話したところで笑われるだけだ。当の宮美に話すわけにもいかない。他の店の客だと勘違いされそうで怖かった。
半月ぶりにふらりと店を訪れたハヤトは、前と同じように、酒ではなく水をちびちび飲みながら目で続きを促した。
相変わらず、彩羽の業績は思わしくない。半月で二人の客しか相手にしていなかった。それ故に、話すだけでいいから個室で相手をしたいという稀有な客がいるから、「赤花の日」であろうと行って来いと店主に命じられ、嫌々押し込められた部屋にハヤトの姿を見たときは、心底ほっとした。
前回と異なり、古くからある壁の薄い部屋だ。静かにしていると、周囲からの如何わしい遣り取りが、変にこもって聞こえてくる。とにかくなんでもいいから自分たちの声を発しなくてはと考えた末の問いでもあった。
「あたしだって、他の店よりここが条件がいいのは知ってるし。それなりに、ここに留まれるように、成績のいい人の真似をしてみたりしてるんだけど」
「へぇ。えらいじゃん」
「けど、うまくいかないし。お客様の反応もいまいちだし」
ねぇ、と、思い切ってハヤトの方へいざった。手を伸ばせば届く距離で、彼は背もたれを抱えて座っている。
寝台に突いた、ハヤトに近い方の手に体重を載せた。服の襟元は広くないが、こうすれば彼から胸の谷間が見えるはずだ。
「あたしにも、少しくらい、色気ある?」
上目遣いとやらが上手く出来ているものかどうか。酒場で客に媚びる沙月のしなを思い出しながら、形だけでも近づけようとハヤトの顎先辺りを見つめた。
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