8.トラウマ

 淡いランプの光が、色レンズの後ろから射し込む。明るくなったレンズが透かせて見せる彼の目からは、感情が伺えなかった。ただ、無言で彩羽を見下ろしている。


 実際にはほんのわずかな間だっただろう。彩羽には、とても長い沈黙に思えた。痺れが切れる直前、おもむろに、彼の唇が動いた。


「無い」


 がっくりと項垂れ、彩羽は恨めしさを込めて彼を見上げた。


「そこは、お世辞でも「ある」って言ってくれるところじゃないの?」

「俺にお世辞を求めるあんたが間違っている」


 煮え切らず頬を膨らませていると、ハヤトの指先がつついてくる。面白がられている。苛立ちが募り、彩羽は抵抗の意志を示す程度に手を振り上げた。


 その手の甲に確かな手ごたえを感じた。


 はっとして顔を上げると、短く呻くハヤトの口の端に一筋、赤い線が走っていた。彩羽は恐る恐る、振り上げたままの自分の手を見た。凶器となった母の形見である指輪が、ランプの光を反射させ輝いていた。


 たちまち彩羽の顔から血の気が引いた。目の前にチカチカと白い光が瞬く。耳の奥で音が変にこだまし、頭の中が真っ白になった。

 手首に縄で縛られた痛みが、脚をこじ開けた指の食い込みが、下腹部に男の一部が押し込まれた痛みが蘇り、恐怖の渦となって彩羽を取り巻いた。


「申し訳ありません」


 喚くと咄嗟に平伏した。床へ額づく。今から襲い掛かってくるだろう苦痛への恐怖で呼吸が乱れた。


 かつて、迫る客の恐ろしさに耐えかね、逃れようとして突き飛ばしてしまった後の「お仕置き」の記憶が、ひたすらに彩羽の精神をかき乱す。寝台から落ちてかすり傷を負った客に膨大な慰謝料を請求されたうえ、拷問のごとき扱いを受けたその苦痛が、彩羽の中で繰り返される。


 ふと苦しみの合間に母の声を聞いた。

怖かったね、もう大丈夫。

幼い日に何度も慰めてくれた声が、細く遠く聞こえてきた。背を何度も撫でる優しい手の感触が、次第に恐怖を薄めていく。

 暗闇に差し込んだ淡い光をたどるように、彩羽の意識は現実へ引き戻されていった。


 混沌とした視界が徐々に輪郭を持ち、像を結んでいく。自分を覗き込んでいる心配そうな瞳に、彩羽は水面に顔を出したかのように息をついた。


「どうした、急に」


 背を撫でてくれていたのは、ハヤトの骨ばった手だった。母と同じ薄い手。依然力の入らない体を支えてくれている。彩羽はそのまま、懐かしさに引き寄せられるように彼の腕へもたれた。


「ごめん。取り乱して。前に怪我をさせたお客、様にされたこと、思い出して」


 そんな相手でも「お客様」と言わねばならない無念に顔が歪んだ。


「俺を、そんな奴と一緒にするな」

「けど、怪我。血が出てるし。ほら」


 彼の襟元を指差した。肩口に赤褐色の染みが出来ている。シャツを引っ張って確認する彼の手元を目で追って、彩羽は息を飲んだ。

 開いた襟元から見えたのは、首元から肩にかけて抉られた傷だった。治りかけていたが、ところどころ瘡蓋が割れ、血が滲んでいた。

 硬直する彩羽の表情に、ハヤトが罰の悪そうな顔をした。


「ま、いつもこんなだから。かすり傷の一つや二つ余分についたところで、なんとも思っちゃいないよ」


 にかっと笑うハヤトに、掛けるべき言葉が浮かばなかった。


「そっちも、大変なんだね」


 辛うじて呟くと、屈託なく肩をすくめられた。その動きが傷に障ったのだろう、今度は大袈裟に顔を顰めて見せる。


 差し出された水を飲み干すと、呼吸や鼓動もようやく正常に戻った。


「そういえば。あんた、俺に触られるのは平気なんだな」


 言われて、彼の手に背を支えられたままなのに気がついた。慌てて飛びのく様を、ハヤトは可笑しそうに見ている。

 申し訳なさと恥ずかしさに、彩羽ははにかんだ。


「そうだね。何でかな」


 領主の邸宅では、生きるか死ぬかの瀬戸際で、相手が男だとか意識をする暇がなかったと言える。崖の下では、完全に彼が動かないという安心と、流血の多さに気をとられたから男性恐怖症も成りを潜めていたのかもしれない。


 ひとつひとつ辿って考えながら、彩羽は唸った。


「なんだろ。男かどうかより、その、て……」

「了解」


 テゥアータ人であること、カゲであること。それを言おうとしたが、唇の前に立てられた人差し指に封じられた。壁から隣室の会話が、内容を聞き取れない程度にしても聞こえてくる。

 ハヤトがおどけて短く口笛を吹いた。


「つまりは、男っぽくないって言いたいんだろ。酷いな」

「そんなつもりは」

「いいじゃん。色気のないあんたとあいこだ」


 にやりと笑うハヤトにつられ、彩羽も思わず破顔した。しばらく笑うことを忘れた頬の筋肉の動きはぎこちなかった。一度緩むと、容易に引き締まらなくなった。


「そうだね。そういうことにする」


 ぐぐぐと、およそ楽しさからかけ離れたような笑い声をあげる彩羽に呆れたのだろう。ハヤトは難しい顔で立ち上がった。寝台の足元に掛けていた上着を羽織る。


「じゃ、帰る」

「気を悪くさせた?」


 慌てる彩羽に、ハヤトが短く否定した。一度戸口へ向けた視線を、ためらいがちに彩羽へ戻す。


 ぽふりと、頭の上に手が載った。


「今日は無理につき合わせて悪かったな」


 位置がずれていた赤い造花の飾りを直す気配がした。小さな子供のような扱いに、彩羽は懐かしいようなくすぐったいような、悔しいような気持ちになり、またそのような気持ちになったことが落ち着かなく、もじもじとハヤトの腕が作る影から彼を見上げた。


 ハヤトは、じっと宙を睨んでいる。彩羽は不安にかられながらも首を傾げた。頭にもう一度ぱふりと掌が載った。ちらりと彩羽を見たハヤトが、ぶっきらぼうに言い放った。


「下手に媚びるより、素直に笑ってるほうがずっといい」


 軽く彩羽の額を弾いた指が、ドアノブを回した。


 じわりと広がる額の痛みを撫でるころには、ハヤトの気配は霧散していた。前と同じように、ただ呆然と立ち尽くす彩羽だけが部屋に残された。


 耳の奥に残ったハヤトの声の欠片をかき集める。ようやく正しく並べて意味を辿り、彩羽は火を噴いたように熱い顔に手を当てた。


(な、なによ!)


 ひとこと言い返してやらなければ気が収まらない。


 慌てて廊下へ出たが、左右どちらを見ても彼の姿はなかった。

 普通なら出口まで客に付き添い、見送るのが店の女の仕事である。客が一人で個室のある奥の間から出てくるなど、他の店員が気がつかないはずがない。しかし、前回もそうだったが、彼は騒ぎを起こすことなく忽然と店から姿を消していた。


(どこから出て行くんだろう)


 不思議に思って一度薄布が重なる入り口まで歩いてみたが、どこにもそれらしき出口はない。当然だ。ここは一本の真っ直ぐな廊下なのだから。


 首をかしげながら、先ほどのひとつ手前の扉まで来たところで運悪く沙月と鉢合わせた。


「なにぼやぼやしてるの。お客様が帰られたんなら、仕事に戻りなさいよ」


 盆に空の器をいくつか載せた沙月が、冷たい目で彩羽を睨んでいた。客を見送った後、部屋を片付け終わったところだろう。

 細い声で謝る彩羽に、沙月はフンと鼻を鳴らした。


「みっともない喚き声が聞こえてたけど、また何かやらかしたんじゃないでしょうね」

「べつに、なにも」

「お店の評判にも関わるんだからね。おもてなしをする気がないなら、あの上客、譲ってもらうわよ」


 どきりとした。沙月が意地悪く笑っていた。


「若いのに羽振りがいいし。教養もある。眼鏡で顔がちょっと分からないし細すぎるけど、悪くはなさそうだし。あんたには勿体無い。私がたっぷりともてなしてあげる」


 一瞬脳裏に、淫らな沙月を抱くハヤトの姿が浮かんだ。同時に、笑っているほうがいいと言い残した、照れを隠しきれていない仏頂面も蘇った。


 思いもよらない激しい怒りが、彩羽の胸のうちに点った。振り上げかけた手を辛うじて留め、握り締めた拳を震わせた。


「あたしだって、その気になれば」


 どうだと言うのだろう。言葉が続かず、ただ、唇をわななかせた。


 沙月は、汚いものを見る目で彩羽を見下した。


「そうね。あんたはあの青蘭の娘。男をたぶらかして堕落させる素質は十分にありそうだもの。ただ、その気になる前にお払い箱なんじゃない?」


 クスクス笑い、余裕のある身のこなしで酒場へ戻る後ろ姿を睨みつけた。

 悔しい。

 亡き母を侮辱された。ちょっと業績がいいからと、見下してくる。それでも、彩羽は反論できない。沙月を言い負かせるものを、何一つ持っていないのだから。


(絶対、この店に残って、見返してやる)


 唇をきつく噛み、あふれる涙を堪えた。

  

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