10.水死体と花火

『藤紫』の面々は、泣き腫らした目で死体が寝かされた莚を囲んでいた。


香芽こうめ、あんなに嬉しそうに出て行ったのに」


 一人が呟くと、皆の止まりかけていた涙が再び湧きあがって来る。


 遺体の状況や目撃情報から、地郷公安部は、香芽が自ら上流の橋で身を投げたとの見解を示した。流れ流れて花街まできて、海まで行かず丁度『藤紫』近くの川辺に打ち上げられたのは、長く生活した花店への最期の挨拶なのか。


 香芽を知らないまでも周囲の悲しみにもらい泣きをするナナが、第一発見者となった女の袖を引いた。


「それにしても、よく彼女だと分かったね」

「そりゃそうよ」


 涙を拭きながら、女は不思議そうにナナを見下ろした。


「出て行ったときのままだもの」

「水死体は、顔も身体も膨れてしまうと、聞いたことがあるけど」


 首を傾げるナナに、彩羽はもう一度、動かぬ香芽の姿を見た。

 ふっくらとした頬、なだらかな体の線。水気を含んでいることを除けば、身請けされたときの彼女の面影がそのまま残っている。ということは。


「香芽、すっかりやつれていたのかしら」


 彩羽が思いついた先を、沙月が言葉にした。


「辛かったんだね」


 泣き崩れる女を、沙月が優しく受け止めた。


 門の方角から、太った男が息を切らせて走ってきた。頭髪は薄く、丸眼鏡は常に所定の場所からずり落ちている。

 香芽の本当の名を呼び、男は死体にすがっておいおいと泣いた。


「ごめんよ。俺がもっとしっかりしていれば」


 店主が男へ頭を下げ、型通りのお悔やみを伝える。その間も、男はしゃくりあげ、怒涛の涙を流していた。


「あんなに大切にされてて、どうして」


 ぽつりと呟いた彩羽を、沙月が怒ったような目で振り返った。しかし、やがて茶色の目に浮かんだのは哀れみだった。


「あんたは、外の世界を知らないから」


 また嫌味が始まるのかと身構える彩羽は、沙月の声が川風のように湿っていることに気がついた。


「花街に居たっていうだけで、世間は私たちを汚物のように見る。自分たちが、僅かな間生活するはした金を得るために差し出した女だ、ってことを忘れて。私たちを買う男だってそう。個室じゃ、良かった君は最高だなんて言いながら、一歩橋を渡って外の世界に行けばもう、自分の地位を危うくする醜聞の種としか見ない」


 自嘲めいた発言に、周りの女たちは身を固くした。あるいは、落ち着きなく視線を宙に彷徨わせた。


 彩羽はただ、言葉を失った。客の口から聞かされる外の世界は、自由で楽しいものばかりだった。早く借金を返済して店を出たいと切望する女たちの話から、門を抜け橋を渡った先に輝かしい日常が待っていると想像していた。


(ああ、でも)


 ハヤトの肩に刻まれた傷を思い出す。店に突如現れたテゥアータの男女を思い出す。


(同じなんだ。あたしも、彼も)


 外の世界で平穏に過ごせるのは、限られた人々。それでも、ここより少しはマシなのだろうか。

 考えているうちに、沙月は踵を返して店へ戻ってしまった。数人の女が、香芽と男を気遣うよう振り返りながら沙月の後に続く。


 地郷公安部員に促され遺体と共に門へ足を向けた男が、彩羽たちの存在に気が付いた。途端に、彼は禿げた頭頂部をさらけ出すのも構わず、深々と頭を下げた。


「ごめんなさい。彼女を幸せにできなくて、ごめんなさい」


 その姿は、しばらく彩羽の瞼に焼き付いて離れなかった。




 夜が明ければ新年になるとあって、店は閑散としていた。地球人種は大抵、家族で年越しをするのが慣わしだ。こんな夜に花街を訪れるのは、独り者ばかり。


「暇ねぇ」


 さすがの宮美も苦笑している。客より女の数のほうが多い酒場には、数日前の香芽の「里帰り」で受けた衝撃が色濃く残っていた。

 沙月も、何を考えているのかふさぎ込みがちだった。そうなると、取り巻きの女たちもこそこそと縮こまっている。どんよりとした空気が、雪雲のように『藤紫』を覆っていた。


 入り口の鐘が鳴った。


 暖簾を掻き分け現れた丸い姿に、彩羽は宮美を振り返った。


「あら、サトシ様」

「先日はお騒がせいたしました」


 香芽の身を請けた、あの男だった。宮美が形の良い眉を顰めた。


「いいんですの? まだ彼女の喪は明けていないのに」

「家に居たところで、彼女を追い詰めた者に囲まれるだけです。死を悼むなら、ここのほうがいい」


 サトシは、酒場の中で最も造花の多い一角に座った。そこは彼のお気に入りの席であり、香芽と過ごした席だった。

 上着も脱がず、ぼんやりと在りし日の香芽の姿を思い浮かべている様を見ていると、彩羽の胸も切なく痛んだ。

 そっと注文を聞くが、サトシは答えず、入れ替え間近の埃を被った造花へ指先で触れた。


「ここにいた方が、彼女は輝いていた。花は、外へ持ち出すものじゃなかったんですね」


 違う、と言いたかったが、正解かもしれないとも思った。花街しか知らない彩羽には、分からない。


「香芽さんは、店を出たがっていましたよ」


 それだけしか言えなかった。


 不意に、宮美は女たちに指示をして机を動かし始めた。何をするのかと訝しんでいる間に、酒場の一角にちょっとした舞台が作り上げられた。


「沙月。あなた、舞で香芽と対だったわね」


 宮美の声掛けに、意表を突かれた沙月が頷いた。


「ああ、あとそこのお客様。『初春の花』ってご存知? 謳ってくださるかしら」


 指名された初老の男が、静かに微笑み頷いた。


 広く開いた床面にふたり、背中合わせに立つ。宮美の合図で、初老の男が白髪交じりの髭を震わせながら朗々と謳い始めた。


 薄暗いランプの灯りに、白い宮美の指が、腕が優雅に舞う。導かれるように沙月の長い手足もたおやかに動いた。


 香芽が好きだった曲と舞。サトシが彼女を見初めたのも、ミカド聖誕祭に乗じて店で行われた舞の披露のときだった。まだ香芽は店に入って数年の時で、宮美は現役だった。舞台の中央で舞う宮美と母の姿を、彩羽も酒場の隅で見つめていた。


 当時を思い出し、いつの間にか彩羽の頬を涙が伝っていた。

 母の仕事が、たくさんの客を笑顔にすることだと信じて疑わなかった日々。


(あたしたちって、なんなんだろ)


 店で男に踏みにじられ、外に出れば蔑まされる。幸せを、どこに求めたらいいのだろう。


 舞が終わった。束の間、余韻が静かに漂う。


 まばらな、しかし賞賛に溢れた拍手が起きた。アンコールを求められ、宮美は沙月と目配せをした。宮美の手拍子が始まり、合わせて今度は軽快な踊りが始まる。興が乗った客も舞台へ躍り出て、同じランプの薄明かりと思えない明るさが酒場に広がった。


「注文を、いいかな」


 声をかけられ、彩羽は振り返った。宮美が担当している常連の中年男が、酒を二杯注文する。彼が言う「風葉」という二級酒の名に、またしても彩羽は涙ぐみそうになった。


 中年男は静かにサトシの席へ行くと、同席を願い出た。舞の余韻に放心していたサトシは、驚きながらも承諾する。その二人の前に、彩羽は器を二つ置いた。器から漂う馥郁たる香りに、サトシが目を潤ませた。


「この香りは」

「香芽さんと、よく召し上がっていたそうですね」


 中年男が穏やかな笑みを浮かべた。濃い茶色の目に促されるように、サトシは丸みを帯びた指で盃を持った。液面が細かく震える。ふくよかな顔に刻まれたサトシの小さな目から涙が流れ落ちた。


「彼女は、大らかで、いつも笑ってたんです。親戚や、近所の人に嫌がらせを受けても、僕の前では笑ってて。僕がもっと彼女を守ってあげなくちゃいけなかった。なのに、どんどん細くなっていく彼女を、ただおろおろと撫でるしか僕には」


 サトシから細く紡がれる言葉が途切れる度に、中年の男は優しく頷いた。


 鼓膜を震わせ、厚い硝子窓を通して光が射しこんだ。


「花火が始まったわ」

「新年ね」


 手隙の女が一斉に戸口や窓に駆け寄った。仕事に戻れという店主も、夜空を彩る新年の花火に見入っている。


「彩羽も、行っておいで」


 宮美に言われ、彩羽は一番端の窓へ近付いた。


 次の花火が上がり、歓声も上がる。

 地聖町に建つ『方舟』と呼ばれるミカドの居城が、金属と硝子で覆われた外壁に花火を映して煌びやかに浮かび上がるのが小さく見えた。


 いま、同じ花火を、たくさんの地球人種が見上げている。テゥアータ星の一角、地郷と名付けられた自治区のあちらこちらで。


 夜空から店内に視線を転じた。


 沙月たちは、花火が上がる度に歓声をあげ、楽しそうにはしゃいでいる。しかし、ふと沙月の表情が翳った。


『沙月はね、婚約者が待っているそうよ。金物問屋の御曹司だって』


 蓮華がこっそり耳打ちしてくれたことを思い出す。

 店主はいつもより穏やかな顔を光に照らされている。

 彩羽が運んだ「風葉」を手に、男ふたり無言で窓からの光を眺めている。サトシの丸い頬には、空に大輪が開くたびに涙が筋となって光る。

 中年男の隣に腰掛けた宮美が、密かに彼と手を重ねている。


 ふと、サトシの隣に微笑む香芽の幻が浮かんだ。瞬きをすれば消えてしまう儚いものだったが、彼女は確かに、幸せそうに笑って花火を見ていた。


 川辺でサトシが叫んだ言葉が蘇った。


『幸せに出来なくてごめんなさい』


 彩羽は、静かに首を振った。


 短い間だったかもしれない。それでも彼は香芽を幸せにしてくれた。彼と同席しているときの彼女が、他のどの客をもてなすときより輝いていたのを彩羽も知っている。


 身請けされなかったら彼女は、辛い思いもしなかっただろう。そのかわり、彼と共に生きる幸せも知ることなく花街で果てたに違いない。


 ある意味保護された環境で緩やかな不幸に身を浸すのと、自由を求めて針の莚へ飛び込むのと。自分はどちらを望んでいるのだろうか。俯く彩羽の胸元が、暗がりに赤く浮かび上がった。


 ひときわ大きな花火が窓いっぱいに開いた。そして、まるで香芽の得た幸せのように、残像を残して闇へ帰っていった。


 新しい年が始まる。それはまた、彩羽が『藤紫』に残れるかどうかを決める期間の終了でもあった。

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