第4話

「いったい何だ?」教官の声は不気味なほど優しかった。それはしわがれた大声よりも、ずっと恐ろしかった。「いい策略でも思いついたか?」

 リュウは顔から血の気が引き、すっかり委縮してしまった。クラスメイトの視線から伝わる緊張も耐え難いものがある。驚く者、怖がる者もいれば、リュウに何が起きても自分には関係ないという冷たい視線を送る者もいた。俺はいったい何を考えているんだ? この子のためになぜここまでする? オーケー、俺はいつでも、可愛い女の子とその微笑みには弱いんだ。

 リュウはちらりとアンジェラを見た。

 「このような騒ぎとなってしまったことをお許しください」 リュウは声が震えないように、そして礼儀正しく、従順な口調で話し始めた。「自分はただ、パートナーが起こした誤解を解きたいだけなのです」

 もちろん、これはただの時間稼ぎだ。もう少しまともな言い訳を考えなければならない。自分とアンジェラを助ける、まともな言い訳を。でも、どういう言い訳だったら、教官は信用してくれるのか。

 そのとき名案が浮かんだ。リュウは思い出したのだ。リュウがまだ幼かった頃、風邪で高熱が出て、友達と外で遊べなかったことがあった。母親には、遊ぶのは治ってからねと言われたが、リュウはじっとしているのが耐え難かった。その日、リュウは母親の言うことを聞かず、自分でもどうしてそんなことを言ってしまったのかわからないような、ひどいことを言ってしまった。高熱のため意識がもうろうとし、心にもないことを言ってしまったのだ。

 「教官」とリュウは早口で説明した。「自分のパートナーは、今日はずっと体調が悪いと言っていました。もっと早く報告しなかったことをお詫びします。自分は日課ができなくなるのがいやだったので、一七六番が体調不良を押してトレーニングに参加するのを黙認してしまいました。ですが、今、それが間違いだったとわかりましたので、自分も同じ処罰を受けます」

 リュウはそう言うと、口を真一文字に閉じた。これで万事解決してくれと祈りながら。

 教官は、その表情からは何を考えているのか読めなかった。軍人の心を読み取るのは難しい。リュウはできるだけ姿勢を崩さずに教官の返答を待った。

「なるほどな」教官がゆっくりと話し始めた。「処罰を軽くするため、自分も罰を受けるという作戦か」 教官はしばらく沈黙すると、やがて鼻をならし、こう言った。「よかろう。ムチ打ち十回は、一○一番、お前が受けろ。自分のパートナーに打たれるがいい」

「何よそれ! できるわけないでしょう」

「黙れ!」教官は踵を返し、ツバを飛ばしながら怒鳴った。アンジェラは震えあがり、何も言えなくなってしまった。

「教官、承知しました。自分たちは教官のご指示を理解しました」リュウが代わって答えた。リュウは覚悟を決めた。

これまでムチ打ちで死んだ者はいないが、それでも軽い処罰ではない。GWOが不服従者に対してムチ打ちをするのは、それが効果的な方法だとわかっているからだ。

二人は衛兵にきつく腕を押さえつけられたまま、廊下に連れ出された。廊下の突きあたりに、「軍関係者専用」と書かれたドアがある。リュウはそれを見て青ざめてしまった。教室から追い出された生徒が連れていかれたのは、ここだ。

だとしても、いまさらできることは何もない。最悪の事態も考えながら、リュウはアンジェラを見た。ここは、しっかりと任務を遂行してもらう必要がある。

「手加減しようなんて考えるな。そんなことは許されないし、状況が悪化するだけだ。気をしっかり持って、やり遂げろ」リュウは上官が部下に命令するような口調で、アンジェラにささやいた。「わかったな?」

アンジェラの瞳には恐怖の色が浮かんでいるが、それでもしっかりと頷いた。

ドアを開けると、また別の部屋のドアがあった。その部屋に入った途端、ものすごい悪臭が鼻を刺激した。

「何て臭いなの?」 アンジェラも咳き込んだ。

それは、吐いたばかりの吐しゃ物だった。ここに連れてこられた生徒たちが吐いたのだろう。壁の色は、もともとはオフホワイトだったようだが、数えきれないほどの血痕がシミとなってこびりつき、いまでは茶色っぽく見える。リュウは何とか吐き気を抑えていた。

「一〇一番、シャツを脱いで前に出ろ」衛兵の一人はそう怒鳴ると、壁に埋め込まれている手錠を引き出した。

いよいよ始まる。リュウは長引かせたくなかった。こんなことは早く終わりにして、まともな日常に戻りたかった。ここでの生活をまともと呼べるのであればの話だが。シャツを脱ぎ、一歩前に出たところで、衛兵に手錠につながれた。

もう一人の衛兵はアンジェラにムチを渡した。まるで、中世から迷い込んできたようなムチで、柄の部分はボロボロになっていた。ムチは長年にわたり、衛兵たちの忠実な下僕として仕えてきたのだろう。そして今もその役目を果たそうとしている。

「ムチ打ち、十回、始め」衛兵が怒鳴った。

アンジェラはうなずき、最後にもう一度リュウを見た。ムチを握るアンジェラの手が震えていた。リュウは恐怖を拭い去るようにしっかりまばたきすると、アンジェラに厳しい表情を向けた。

「もたもたするな。早く打て!」

アンジェラはリュウをにらみ、ムチを振り上げた。そして歯を食いしばり、最初のムチをリュウに振り下ろした。

ビシッ

一、二、三・・・リュウは必死に歯を食いしばり、声を出さずに数えた。耐え難いほどの痛みだ。いや、耐え難いなんてものじゃない。冷たく、鋭い、焼けるような衝撃が、打たれるたびに背中に広がった。振り下ろされるムチの音がリュウの耳にこびりつく。リュウは叫び声を上げたい衝動を必死になって抑えた。

ビシッ

ビシッ

ビシッ

アンジェラの頬に涙が流れた。首を横に振り、ムチを振り上げられずにいる。

「何をしてるんだ、アンジェラ。本気で俺を打て!」 リュウは叫んだ。衛兵に疑いの念を抱かせてはいけない。「お前の怒りをぶつけろ!」

九・・・

十・・・

終わった。アンジェラはよろよろと後ずさりして、ムチを落とした。そして床にひざまずくように崩れ、がっくりと頭を落とした。アンジェラが余計なことを言わず黙っていたので、リュウはホッとした。二人ともなんとか耐え抜いた。あまりの痛みと過剰に分泌されたアドレナリンのせいで、リュウの膝はがくがくと震えていた。背中は汗と血でびしょびしょだった。

「行け」衛兵が手錠を外し、表情一つ変えずに言った。

 「終わった」リュウは息も絶え絶えにそう言うと、壁に手を伸ばし、倒れ込まないように手で身体を支えた。「さあ行こう。よく頑張ったよ、アンジェラ」 リュウはアンジェラの罪悪感を和らげようとした。シャツに手にとり、残っているエネルギーを振り絞ってやっとの思いで腕を通した。

 アンジェラは立ち上がり、リュウに近づいた。そしてリュウをかばいながらドアに向かった。これで部屋に戻ることができる。歩きながらアンジェラの様子をうかがうと、彼女はまだ自分を責めているようだ。女子寮に続くエレベーターまでやって来たところで、

 「アンジェラ、待てよ」とリュウが言った。

 アンジェラは立ち止まり、少しうつむいた。見るからに罪の意識に苦しんでいる。

 「何? 私は、あなたをあんな目にあわせたのよ」 アンジェラは穏やな声でそう言ったが、顔を上げようとはしない。

 リュウはアンジェラの腕をギュッとつかみ、力強く引き寄せた。

 「おい、こっちを見ろよ。俺たちは勝ったんだ。めそめそするなよ」

 アンジェラが顔を上げた。「どうしてかばってくれるの?」アンジェラは感情を抑えられず、涙が頬を伝った。

 リュウは手の力を弱めた。そして、アンジェラとの距離を詰め、彼女の顎を優しく上げ、視線を合わせた。

 「お前はやるべきことをやったんだ。俺は誇りに思うぞ」 リュウは穏やかに言った。「お前は正しい選択をしたのさ。生きるという選択をな」

 アンジェラの目から、また涙がこぼれてきた。今度はしっかり拭いて、気の強さを取り戻そうとした。

 「変なヤツ。会ったばっかりの子にそんなこと言うなんて」

 「うん、それでいい」リュウは笑顔で言った。

 アンジェラはエレベーターに乗り、リュウに手を振った。リュウはそれを笑顔で見送った。本当は、背中の焼けるような痛みと必死で戦っていた。

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