第1話
二〇五〇年二月十五日
リュウはまた遅刻しそうだった。
ズボンをはきながら、身体をぶつけてドアを押し開け、勢いよく廊下を駆け出した。ブーツの音がキュッキュッとフロアに響いた。
「また寝坊するなんて、情けねえな、本当に」苦しそうに呼吸しながら、リュウは全力で走った。朝礼には何とか滑り込まないといけない。リュウは額に汗を光らせながら、大きなガスボンベを避け、ガードレールを飛び越し、狭い隙間をすり抜けるように走った。遅刻するわけにはいかない。朝礼に遅れたら大変なことになる。
十七歳のリュウはGWOアカデミーの一年生。毎朝、アカデミーまで全力でダッシュすることがもはや悪い習慣となっていた。リュウはもともと八時間以上寝ないと活動できないタイプだったが、変則的な部屋の間取りのせいで、過眠症はますます悪化した。リュウの部屋には、南側の壁に三十センチ×三十センチの小さな窓がついているだけで、入ってくる僅かな光だけが、太陽がまだ地上のどこかにあることの証だった。
アカデミー寮の部屋はどれも簡素だった。なにせ、最終戦争のあとの士官学校だ。ベッドといっても、寝る場所を確保するために床の上に置いた台にすぎず、所持品は政府地方局から支給されたダッフルバッグ一つにすべて収まった。アカデミーではまったく同じ日課が寸分たがわず、毎日繰り返される。夜明けとともに起床し、メインホールで出席を確認したら、朝礼に出る。朝礼では、賛歌を一字一句たがわずに暗唱しなければならない。それから、朝食は(そう呼んでいいのかわからないが)、毎日同じ材料——葉野菜、ビタミン、お茶のような飲み物——をミックスしたものだった。朝食の目的は、厳しい訓練に必要な要素を身体に補給することにあった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。来る日も来る日も、生命の危険を感じながら全力で走っている。今朝起きてから俺は何をした? 目覚まし時計を止めて、すぐにシャワーを浴びた。冷たい水が背中を伝う。シャワーを止めて、頭を振り、髪を乾かした。次は着替えだ。軍服に着替えるということは、まず羊毛を刈り、それを巻き上げ、糸を紡ぎ、そして軍服を縫うのと同じくらい手間がかかる。
ようやく着替えを終え、時計を見ると、一刻の猶予もなくなっている。寮を早く出るにはどうすればよいのだろう? シャワーをパスするのは無理だしな。
そんなことを考えながら走っているとアカデミーが近づいてきた。中央エレベーターのマークが見える。反対側からも誰かが走ってくる。リュウのクラスメイトで、親友のドミトリーだ。通称「ターボ」。本人はこのニックネームで呼ばれるのを気に入っている。
「リュウ!」 ターボが叫んだ。「急げよ。もうこれ以上、お前のこと、かばってやれないぞ」ターボが自分の身を犠牲にしてリュウの遅刻を取り繕わなければならないほど、リュウは遅刻を繰り返していた。二人は暗黙の協定を結んでいたので、理由は何であれ、互いをかばうことになっている。
「今さら、何だよ」リュウはニヤリとした。「友だちだったら、かばい合うのは当たり前だろう。それに、お前がズボンの前と後ろを逆に履いちまったとき、お前をかばってやったのは俺だよな」 リュウはターボをからかいながら、廊下中に響きわたるように声を張り上げた。ターボは顔を真っ赤にしてスピードを上げた。
「今ここで言うなよ!」 ターボはリュウに追いつくと、締め技をかけて身体を揺さぶった。
軽口をたたき合っているせいか、二人は、互いをガキの頃からの遊び仲間のように感じている。二人は正反対だった。リュウが、口が達者なら、細身で背の高いターボは動きが達者といったところだ。ターボというニックネームは、アカデミーで一番の俊足ということからきているが、実際には何をやっても早かった。あるいは「あわてんぼう」と言った方がしっくりくるかもしれない。あまりにもそそっかしいので失敗することも多く、おかげでリュウの「からかい」のネタは尽きない。反対に、リュウは気の利いたことを言うのは得意だが、何をやっても遅い。時間通りに着くのも苦手だ。そんな正反対の二人は、気がつけば大親友になっていた。
「あいつ、俺の場所に立ってやがる」施設中央のホールに入ったところで、ターボが言った。将軍が毎朝、この場所で朝礼を行うので、生徒は全員時間通りに集まることになっている。
「リュウ。おい、どこにいる」 ターボはあたりを見渡してリュウの姿を探した。ホールに入るとき、うっかり自分の場所を間違えたことに気づいていない。
一方、リュウはいつもの列に向かっていた。ターボがいないことに気づき、あたりを見渡した。ターボは暗い目をした男子生徒の前に立っていた。日焼けした肌、ダークブラウンの髪。何やら危険な雰囲気を漂わせている。リュウにはすぐに誰だかわかった。体がこわばった。
リュウはすぐにターボを止めに入った。「お前、そこは俺の場所だ」とターボがつっかかる。
「お前、新入りか? それとも、どうしようもないアホなのか?」その生徒は不快感をあらわにした。「お前の場所なんか取るかよ」と吐き捨てるように言った。
ターボは感情の高ぶるままに、その生徒をにらみ続けている。
「おい、一九〇番、規則に従え。まあ、違う方法で、かたをつけてやってもいいけどな」その生徒は、手でピストルを構えるようなポーズを取り、ターボに照準を合わせた。
列に並んでいた他の生徒たちも二人の言い争いに気づき、ひそひそ話を始める者もいれば、ターボを指さして笑う者もいた。
「お前なんか」ターボがそう言い返したところで、リュウはターボの腕をつかんだ。
「落ち着けよ」リュウが割り込んで、ターボをなだめた。「俺たちの場所はあっちだぞ」リュウは顎をしゃくった。
「えっ」ターボは眉をひそめた。「本当だ」
リュウは、ターボと言い争った生徒に笑顔を向けた。「悪いな。こいつの勘違いだ」
その生徒はリュウをちらっと見たが、何も答えなかった。
「お前、気をつけろよ。ヒロなんかにちょっかい出すなよ」とリュウはターボにささやいた。クラスメイトのなかで、ターボの次に足が速いのがヒロだ。
ターボは唇をすぼめながら、自分の列に戻っていった。「わかってる。奴は将軍にいろいろとチクるから、注意しないといけない奴だってな。チクりたきゃチクればいいさ。俺はビビったりしないからな」ターボは、恐怖のかけらも感じていないようだった。
リュウには、ターボの視線がまだヒロを追っているのがわかった。ターボは不敵な笑みを浮かべていた。この前のレースでヒロに勝ったときのことを思い出しているのだろう。勝ったといっても、〇・六秒の僅差だ。勝利体験にとらわれすぎるのもよくない、とリュウは思った。そのせいで注意散漫になって、何かやらかすのではないかと心配だった。 今も、ターボは列からはみ出している。リュウが注意しようとしたとき——
「生徒全員集合しました、将軍」二等軍曹の大声がホールに轟いた。朝礼が始まる。この時間にこのセリフが響くのは、今日でもう四十六回目だ。このアカデミーがいかに時間に正確かがよくわかる。誰もこの厳粛な雰囲気を壊すことは許されない。雰囲気を壊した者には、将軍の容赦ない攻撃の矛先が向けられることになる。
朝礼を取り仕切るのは、GWOのレス・ゴーハン将軍だ。がっしりした体格で、戦場経験が豊富。顔に残るいくつもの傷がその激しさを物語っていた。将軍は誰もが理解できるように、情報を隠すこともなく、何事も正確にはっきりと話した。将軍の言葉は毅然としていて、野心にあふれていた。また、ここに並んでいる何百人の中から、列からはみ出た者を瞬時に見つけられるとも言われていた。リュウは日々少しずつこの朝礼に慣れてきたが、将軍がこの場にいるために、朝礼が一日の中で最も重要な時間に思えてきた。皆が最高レベルの戦闘態勢「デフコン・ファイブ」のような真剣さで朝礼に臨んでいた。
「一九〇番、列からはみ出すな」将軍の声が響き渡る。
一瞬にして場が凍った。リュウは恐怖のあまり、自分の番号を度忘れした。俺の番号はいくつだ? 一九〇番じゃありませんように。
「将軍。申し訳ありません」ターボが甲高い声を上げ、すぐに列に戻った。リュウはびくつく必要がなかったとはいえ、将軍の怒鳴り声を聞くと、銃殺隊に銃口を向けられている気分になる。将軍は列を乱した者をまず見逃さない。
リュウも自分の立ち位置を微調整した。ターボのような目にあうのはまっぴらだ。リュウはあらためて背筋をピンと伸ばした。マニュアルの四十三ページ第十段落にある模範姿勢のように、「まっすぐに立ち、胸を張り、両腕を脇につけ、視線は前方に」向いていなければならない。
将軍は目を細めてターボをにらみ続けていた。ホールは水を打ったように静まりかえっていた。非常口の枠の亀裂を抜けていく風さえ聞こえてきそうだ。ターボの近くにいる者はみな戦々恐々としている。リュウも例外ではない。
「おい、何をしてるんだ? 隔離されたいのか?」と、リュウはターボにささやいた。リュウはターボが下を向いていることに気づいた。マニュアルの規定によれば、下を向くことは明らかな不服従を表す。「ターボ、頼むから前を向いてくれ」リュウは小声でせかした。
ターボは固まったまま動かない。額から汗が吹き出し、眉から首の付け根まで流れていった。ターボが唾をのみ込むと同時に、その喉仏が動いた。
ようやく、将軍がターボから視線を外し、朝礼が進み始めた。ターボは固まったままで、それはリュウも同じだった。
朝礼では、〈レジスタンス〉と戦闘を行っているGWO軍の現状が報告された。〈レジスタンス〉は、GWOの秩序を乱す小さな集団で、GWOのすべてに反対することを唯一の存在理由としている。少なくとも、将軍はそのように説明していた。将軍が話すことがすべてで、それ以外は信じる必要はない。それに、GWOでは、権力者に疑問を持つことは反逆と見なされる。そのため、誰も〈レジスタンス〉のことは話題にしなかった。とくに、将軍の前では。朝礼が終わったら、速やかに次の日課にかかることになっているため、生徒たちは直ちに、メインホールから退場する。二等軍曹が、生徒たちにホールから出るよう指示した。「お前ら、今日の日課はわかっているな。すぐに取り掛かれ」と、二等軍曹は怒鳴った。
日課を具体的に言われないということは、今日はよい日になりそうだ。つまり、いろいろなことが滞りなく進む日ということだ。
「おい、ターボ。しっかりしろよ。誰にでも失敗ぐらいあるさ」リュウは、まだショックを引きずっているターボを慰めようとした。しかし、ターボの表情はこわばったままだ。そのときリュウの視界の隅に二等軍曹の姿が映った。こっちを見ている。二人が明らかに他の生徒よりもノロノロと歩いていたからだ。リュウはゴクリと唾を飲み込んだ。
このままだと、本当に隔離部屋行きだぞ。
隔離部屋というのは、一・二メートル×一・二メートルの狭い部屋で、灯りもなく、真っ暗でジメジメしている。リュウのように身長が一メートル八十八センチもある生徒には、かなりきつい。一度、隔離部屋に入れられてしまうと、いかなる飲食物も栄養も与えられない。GWO曰く、それでも隔離部屋送りは軽い処罰——正確には、グレード1の処罰——で、グレード4以上の処罰では死刑に処される。処罰のことが頭に浮かび、リュウは焦った。
勘弁してくれよ、ターボ。注目を浴びるのはもうたくさんだ。作戦を変えよう。この手を使えば、たぶん、ターボも正気を取り戻すはず。
リュウは大きく息を吸って、ターボに近づいた。「ターボ、そういえばヒロから聞いたんだけど、この前のレース、引き分けだったって?」
ピシャリ
「何すんだよ」 リュウは頬を押さえながら言った。
「俺様が一番速いってことは、お前もわかってるはずだろ。忘れるな」ターボが言った。どうやら元に戻ったらしい。
「だからって平手打ちすることはないだろ。ああ、痛え」
リュウのなかで怒りがフツフツと湧いてきた。しかしまぁ、何とかいつものターボに戻ってくれたので、よしとするか。頬の痛みと引き換えだと思えば安いものだ。二等軍曹は異常なしと判断したらしく、その場を離れた。差し迫った危険は何とか回避できたようだ。こうしてまた一日が始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます