10-1 婚儀
詩音がこの世界に来てから約一ヶ月が経ち、ようやく、皇帝と新皇后の婚礼の儀が催されることとなった。それは、中央の文武百官から地方要人などかなりの人間を集めて、盛大な儀式を行う必要があるらしい。
周りはその準備のため慌ただしくしているものの、当の詩音は逆にやることはないようで、普段通りに過ごしていた。
そして、婚儀の当日がやってきた。
鈴と蘭だけでなく、衣装の着付師や化粧師、介添え役の人まで来て、詩音に婚礼衣装を着せていく。婚礼衣装は、とにかく派手だった。真っ赤な地の着物に、蒼や緑に金の糸で鳳凰の刺繍が施されている。そこにまた金でできた鳳凰の簪(かんざし)と冠を身につける。
「.....いたっ」
詩音が着物に袖を通した時、何かが腕に掠(かす)った。
一旦脱いでみると、剃刀(かみそり)の刃が仕込まれていて、詩音の腕に僅かに血が滲んだ。
「そんな、どうして? 衣装が届いた時に確認した時には、針の一本も取り忘れはなかったのに」
蘭が驚きの声を上げる。
「消毒をしましょう。詩音さま、こちらへ」
小さな傷であったが、蘭は丁寧に丁寧に手当を施した。
そうしてもらいながら、詩音はだんだん腹が立ってきていた。以前までなら、メソメソ泣きそうになっていたかもしれない。
この間の夢のことがあってから、ずっと色々考えてきた。そのことについて、明確な答えは、まだわからない。だが、考え過ぎて逆にどうでもよくなってきた、というのが最近の気持ちに一番近い。
──なんで私が、こんな目に遭わなきゃいけないの。命を狙われたり、嫌がらせをされたりしなきゃいけないくらい、酷いことした?
大体、流されて生きて何が悪いのか。
誰かを傷つけてきたわけでもない、迷惑かけたわけでもない。
自分に否がないのなら、好きに生きればいいじゃないか。
「詩音さま、傷が痛みますか? 毒などはなさそうですが」
鈴が覗き込む。どうやら眉間に皺が寄っていたらしく、その部分の化粧を直された。
「あ、いえ、大丈夫よ。ちょっと緊張しちゃって」
腕には血が滲んでこないように包帯をキツめに巻いてから、着物に袖を通した。そこから改めて豪勢な衣装を仕上げていかれ、詩音はなすがまま身を任せた。
着付が終わると、鈴と蘭、他の人達まで、感嘆の溜息をもらした。
「わぁ……詩音さま、いえ、皇后陛下。大変お美しうございます」
一同が袖を合わせ、深々と頭を垂れる。
「え、ちょっと……そんな、衣装と、皆さんの着付とお化粧の技術のおかげです」
「皇后陛下は、大変慎み深いお方ですね。どうかそのまま皇帝陛下と共に、影に日向にこの国を支えっていてくださいませ」
(ひぇぇ、なんか大層なことを言われてしまってる)
皆の慇懃な態度に恐れおののく。
そして、皇帝の待つ本殿へ向かうことになった。
介添の人と共に後宮を歩いていると、婚儀へ参列する支度を終えた蜃夫人が、部屋から出てくるところだった。
「皇后陛下、本日は誠におめでとうございます」と向こうから挨拶をしてくれたものの、その表情はとても暗く、詩音を睨みつけるようなものだった。
(なんか、めちゃくちゃ嫌われてる?)
後味の悪さを抱えたまま、謁見の間へと向かった。
そこへは既に、同じく婚礼衣装に身を包んだ遥星や正装をした各大臣たちが揃っていた。
皇帝の衣装は、黒地に赤、白、金の糸で龍の刺繍が大きく施してあり、龍の冠をかぶる。皇后と対になる形で、同じくらい派手で見栄えのするものだった。
いつもは学生のように見える遥星だが、さすがにこうした衣装を着ると、立派な大人の男性に見えた。
「あぁ、詩音。素晴らしく美しい」
「……遥さまも、素敵です」
(相変わらず、適当な歯の浮くような台詞は出てくるのにね)
差し出された手に、詩音は自分の手をそっと重ねた。
あの日、彼に対する気持ちを自覚してからも、二人の関係は表面上特に何も変わっていない。
好きだからといって、そして気持ちに応えてもらえないからといって、目が合わせられなかったり避けてしまったりする程子供ではないということを、実感した。
遥星の方もまた、あの時の詩音の寝言のことなど聞かなかったかのように、ごくごく普通だった。
それにしても、なぜこんなことになったのだろう。
あまりに子供っぽい彼に、苛立ちすら覚えていたくらいなのに。
いや、苛立ちを感じ始めた時点で、ある程度気持ちは傾いていたのかもしれない。
ここへ来て、流れで妻になることになって、詩音は散々な目に遭っている。単に心が弱っているから一番身近な人間に惚れたと錯覚しているのだろうか? よく聞くような話だ。だが彼は、慰めてはくれるものの、積極的に何か対処をしてくれるわけではない。詩音が要望を伝えれば、日中後宮を留守にすることだって、仕事を手伝わせてもらうことだって快諾してくれた。しかし、彼本人に対する要望については受け入れる気は全くなさそうであったし、何より彼の方から詩音に対しては、何かをしたい、して欲しいという要求は一切なかった。
始めの、「形式上の妻になってくれ」というお願いを除いては。
このことについて、詩音は彼との距離を強く感じていた。
その距離がひどく寂しいと、自分に関心を持って欲しいと、どうしようもなく思ってしまった。それが、夢を通じて「彼の大事な人になりたい」との発言となって、現れたのだろうと思う。
だが、ここからどうしたら良いのかわからなかった。
詩音の常識の中にある、恋愛関係の一つの到達点は、「結婚」だ。それは、今まさに手に入ろうとしている。
合コンの後に、会社の同僚が言っていたことを思い出す。
『こっからさ、好きになって、付き合って、相性確かめてって考えると、結婚までの道のりって遠いなーって思う。つかめんどくさい』
それらを全てすっ飛ばして結婚という形に今まさになるわけだが、今にして思えばそのめんどくさい道のりの、なんと健全なことか。それを経ずにゴールに到達してしまっても、積み上げてきたものは何も無い。まずその積み上げから始めなければならない上に、相手にも必ず愛されるという保証はないのだから、先にゴールすることで楽になることなど、何一つないのではないかと思った。
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