10-3 義母・怜夫人

 翌日は、公休だった。

 さすがに無理に本殿に行くこともないかと思い、詩音は怜夫人の部屋を訪ねてみることにした。鈴と蘭に用意してもらった胡桃入りの月餅を持って訪ねると、怜夫人はお茶を用意してくれた。見た目も香りも、紅茶のような爽やかで香ばしいお茶だった。


「このお茶ね、甘い物と合うと思うわ」

「遥さまも、お茶が好きですよね。お母様の影響でしょうか?」

「えぇ、昔からお茶の香りがどうとか言っていたわね。お茶の種類や産地まで暗記していたりして、そんなものより六韜(りくとう)の勉強や武芸の稽古でもしなさい、とよく叱ったものよ」


 六韜とは、兵法書の一種だ。竹簡の片付けをしながら、黄大臣に教えて貰った。


「話は変わりますが、お母様の昨日の笛の演奏は、大変素敵でした。それがご縁で皇后になられたと伺いましたが」


 詩音がそう言うと、怜夫人は少し困ったような顔をした。


「私はね、初めは側室だったの。後から正室になったから、それで皇后になったというのは少し違うわね」


──側室から正室に?

 そんな、下剋上のようなことが、この後宮でもあるということか。

 詩音はあまり後宮で過ごすことはないが、大臣や喬、鈴と蘭と話していて、わかったことがある。正室が最も優位な立場にいるのは確かにそうなのだが、他の側室とは絶対的な壁がある。側室は、二番手三番手というよりも、皇后である正室に仕える位置づけ、上司と部下のようなものだということだ。そしてそれは、子供が産まれたりしても基本的には覆ることはないらしい。


「私はね、元々歌妓だったの。だから笛や踊りは得意よ。ただ、歌妓という職は──貴方の故郷でも同じか分からないけど、身分の高い人間がすることではないわ。正室には普通は立派な家の女性が選ばれるから、卑しい出自の私は当然、側室としてここへ来たのよ」


 ここにいる人達は、みんなそれぞれ深い事情を持っている。

 そうした話を聞くたびに、詩音は、自分がいかに悠々自適に生きてきたかということを思い知る。


「ちょっと、昔話をしてもいいかしら。最近、お話する相手もいなくって寂しかったの」

「是非、聞かせてください。あの、お父様、先の皇帝陛下のことや、お兄様とのことなど、色々聞いてみたかったんです」


 詩音が全力で食いつくと、怜夫人は微笑んで、ゆったりと昔のことを語ってくれた。


 怜夫人が嫁いできた時には、既に正室とその子供がいた。その一人息子は文武に優れた人格者で、蒼家の跡継ぎとしての期待を一身に背負っていた。

 怜夫人の第一子として産まれた佑星が、『助ける、補佐する』という意味の「佑」という字が使われているのも、この異母兄、昂星(こうせい)がいたからだった。

 だが、昂星は、ある時奇襲にあった父を助けるために命を落としてしまう。彼が十七歳の時だった。そして父が狙われた時というのが、新しく迎えたばかりの側室と逢瀬に耽っている時だった。

 そのことで、母である正室は大いに嘆き悲しみ、夫を酷く罵った。父も息子の死を悲しみ、自分の行いを反省もしたが、二人の溝は埋められないものとなってしまい、離縁して彼女は実家へ帰ることになった。


「あれ、待ってください。女性は一度結婚したら実家には戻れないと聞きましたが」

「普通は、そうね。ただ、あの方は陛下の幼馴染で、ずっと苦楽を共にしてきたから。陛下も、彼女の気持ちを優先させてあげたいと思ったのではないかしら」


 仲は決裂しても息子の死を悼む気持ちは同じ。先帝から彼女への、最後の愛情だったのだろう、ということだった。

 その後は、まだ幼いが健康で将来を担う可能性のある男の子が二人いた、怜夫人が正室の座に収まることになった。その際に、他の側室たちに少し嫌がらせされたけどね、と軽く笑って呟いた。

 確かに、最初から"上司"として存在している正室がいなくなって、"同僚"だった人間が自分の上になる、と考えたら、不満を抱く人も出てくるかもしれないな、と詩音は思った。皇帝の決定には口は挟めないだろうし、その嫉妬は怜夫人本人へと向かったのだろう。

 どこの世界でも、人の感情というものは普遍的なものかもしれない。


 それから、怜夫人が話してくれた佑星と遥星の二人の兄弟の幼い頃は、ほぼほぼ今と変わらないようだった。

 明るく武芸が好きで、積極的に周囲を巻き込んでいく兄。大人しく勉強好きで漢詩を趣味とし、一人でのんびりしていることの多い弟。もちろん、皇帝の息子であるということから、どちらも兵法の勉強や武芸の稽古はしっかりこなした上での話であるので、片方の能力が著しく欠けているというわけではない、とのことだったが。


「ちなみに、遥さまが皇帝になるということはいつ頃から決まっていたんですか?」


 以前、佑星と遥星の会話を聞いて先帝が遥星を後継とした理由は大まかには理解したが、いつ譲ってもいいと言っていたし、遥星には自分が皇帝だ、という意識が薄いような気がしていた。


「最終的に決まったのは、病で先が長くないと分かってからね。元々、二人で助け合って国政にあたって欲しいと考えていたのよ」

「二人で、ですか?」

「そう。それはね、さっき話した長男、昂さんの存在が大きかったの」


 昂星亡きあと、先帝は跡継ぎに対する考え方も少し変わっていったらしい。

 この時代、武人であればなおさら、いつも死と隣り合わせに生きている。誰か絶対的な"一人"を作るのではなく、トップの者が、支え合い助け合いながら国を造っていけないかと考えた。最悪、どちらかが命を落としても、すぐに片方が補えるという状態を作っておきたかったそうだ。

 周辺諸国も含めて、"皇帝"という存在は"絶対的"であることが当たり前だったから、この考え方は斬新なものだった。

 ちょうど二人の兄弟は対照的だが仲も良く、最適だと判断したらしい。

 周辺が騒がしく不安定な「乱世」であれば、佑星を皇帝として立てて威嚇を強め、遥星は参謀として動く。外敵の憂いがそこまで強くなく、国内の充実に力を注げる「治世」であれば、遥星が皇帝となり国力の底上げを図り、佑星は内外の治安維持に務める、という方針を打ち出した。

 先帝が亡くなる頃には、後者の状態であったため、遥星を皇帝としたということだった。


「そうだったんですね。あの、跡継ぎ争いとかはなかったんですね」

「ふふ、そうね。二人とも、"自分がやりたいことをやれてればいい"みたいなところがあるから、権力そのものにはあまり興味がなかったみたい。とはいえ、根は真面目だから、投げ出さずにちゃんと陛下の遺言を受け入れてやっているみたいね」


 兄、佑星は自分が皇帝ではないことに特に不満はなさそうだった。だが、臣下の者達はどうなのだろう。お披露目会での臣下の態度について、詩音は聞いてみた。


「遥は、お世辞とかすぐ見抜いて、そういうの不快そうにするからかしら。佑は、それで便宜を図ったりはしないけど、まぁ調子よくいい返事するし、言う方も楽なんじゃないかと思うわ」


 そんなもの、か。

 あくまで怜夫人の予想でしかないとはいえ、無駄に卑屈になって怒っていた自分が恥ずかしくなった。


「詩音さん」


 改めて名前を呼ばれ、無意識に背筋を伸ばす。


「遥は、あまり自分のことを話さないから、不安に思うこともあるでしょうけど、よろしくお願いしますね。あれでも、結構色々なことを考えているみたいだから、どうか、長い目で見てやってね」


 自分の気持ちを、怜夫人に見透かされてしまったのかと思ってドキッとした。


「い、いえこちらこそ! 皇后としてどう振る舞えばいいのか、日々勉強中の身ですが、が、頑張りますので、どうかよろしくお願いします」


 詩音は、深々と頭を下げた。


「詩音さん。皇后を経験した者として、老婆心から一言助言させてもらうわ。無理に、頑張らなくていいわよ」

「えっ?」

「~すべき、という考えから解放された方が、自分も周りも楽になるわ。というか、べき論の押し付けは、誰の耳にも届きにくいから」


 耳が痛かった。この人は、詩音と遥星のやり取りを見ているはずはないが、何故わかるのだろう。


「それよりも、人を愛し国を愛し、そして自分を愛すること。その為に自分が今できること、したいことをするといいわ。その方が、自分も周りも幸せになる。皇后は、高みから皆を見守り、淡い光で闇を照らす月のような存在であれ、と正室になった時に、陛下から言われたの」


 そう言えば、黄大臣も「皇后は月」だと言っていたっけ。

 あの時、大臣の言うことは難しくてよく理解できなかったが、今の怜夫人の言葉はすっと心に入ってきた。それは彼女が、理論としてではなく自身の経験として語っているからかもしれない、と思った。

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