10-2  婚儀の夜

 皇帝の婚儀は、国中から集まった大勢の前で行われる。謁見の間を抜け、外の広場へ出る。石段の最上段が、儀式の場だ。

 広場に出た時、詩音はその規模の大きさに恐怖を覚えた。石段から石畳まで赤い絨毯が敷き詰められ、両側の壁には青、赤、黄、白、黒の垂れ幕、白と黒の勾玉のようなものがくっついて円状になっている図の旗、そして何より、夥しい数の人、人、人。奥の方は、霞んで見えない程だった。


(こんな光景、映画でしか見たことない……目がチカチカする)


 詩音がくらくらしていると、遥星が五色の幕は五行思想の木火土金水の色、勾玉のような図は陰と陽を表した太極図というのだと小声で教えてくれた。


──陰と陽。

 大臣が言っていた言葉だ。今だってわかるようなわからないような、という状態だけれど、いつか理解できる日はくるのだろうか。


 儀式は、設置された祭壇に向かって、縁を司る女神に誓いの詔(みことのり)を唱え、夫婦それぞれの髪を少量ずつ切り取って赤い紐で束ねる「結髪」を行うことで、幕を閉じる。


 この、二人の髪の毛を合わせるという行為を詩音は初めて見たが、やけに官能的に思えて、胸が苦しくなった。

 そして、これをもって、詩音は正式に皇后となった。


 儀式の後は、室内で宴が催された。

 前回の小規模な宴会とは違い、こちらは形式ばったもので、舞いや雅楽の披露などが行われた。その中で、皇太后の怜夫人が笛を吹くシーンがあった。曲の合間の独奏で、力強く美しい音色を奏でている。


(この音色は……壺が落ちてきた時に聞こえたやつだ)


「素晴らしい音色ですね。皇太后さまも、こういう場で演奏などなさるのですか?」


 通常、偉い人というのは「聴く側」になるのではないかと思い、隣にいる遥星に尋ねてみた。


「ん? あぁ、普通は立場上するものではないな。だが、母上は元々笛の名手でな、それが縁で父上に召し抱えられたこともあり、時々こうして聴かせてくれるのだ」

「そうなんですか。凄いですね」

「母上の音色は、心を静かにしてくれる。幼い頃はたびたび演奏をねだったものだ」


 彼が母にねだるところが、容易に想像できた。

 それ以外は、どんな子供だったのだろう。勉強好きの、大人しい子供だったのだろうか。お父様とは? お兄様とは? 今度、怜夫人に話を聞いてみようと思った。


 その日の夜は、ほぼ強制的に、遥星の部屋で寝ることになった。そこまで含めて、プログラムが組まれていたことを知り、むしろ感心したくらいだ。

 重たい婚礼衣装を脱ぎ、身を清めてから軽い薄絹で部屋に入る。

 いつもは日中であるし正装と言うほどではないが堅めの服だからか、このスースーと風を通す服が、羽織ものをしていても恥ずかしかった。


(まぁ、私が恥ずかしがったところで、きっとこの人は何もしないんだろうけど。あ、でも、義務としてしなければと思ってるかも? そんなのってなぁ)


 そんな詩音の悶々とした気持ちなどお構い無しに、遥星は相変わらずのんびりとお茶の準備をしている。


「お待たせ。疲れただろう、今日の茶は特別なものにしたぞ」


 そう言って茶器を運んできた彼が見せたものは、乾燥させたバラの蕾のようなものだった。


「これは?」

「攻瑰花(メイクイファ)茶というんだ。これを入れて、熱湯を注ぐと」


 蕾を二,三粒摘んで茶碗に入れたあと、上から一気に熱湯を注ぐ。すると、甘い香りが広がり、お湯も赤っぽく色付いてきた。


「わぁ、素敵ですね」

「だろう? 美肌効果が高く、女性に人気なのだそうだ。茶葉ではなく花のみだから覚醒作用もない。今夜はぐっすり眠れると思うぞ」


(ん? ぐっすり寝るんだ)


「ただ、私はちょっと起きてなければならない用事があるから、この茶は詩音が飲むといい」


(んんー?? 一人で寝ろってこと?)


──なんか、一人であれこれ考えて、馬鹿みたい。


 詩音は情けなくなり、半泣きになりながらお茶を口に含んだ。


「……美味しい」


 悔しいが、今日のお茶は味も香り見た目も全て、自分好みだった。


「そうか、詩音に喜んでもらえてよかった」


(だから、なんでそういうこと言うわけ?) 


 詩音はせり上がってくる涙を誤魔化すため、窓の外へ視線を移した。


 ところでこの攻瑰花茶は、美肌効果を謳っているだけあって、肌の血色を高める即効性がある。

 窓から差す月明かりに照らされ、暗闇の中に詩音の横顔が浮かび上がる。上気した透き通った肌に潤んだ瞳を湛え、それはとても美しく、そして儚く、遥星の目に映った。

 あの日突然現れた彼女が、また同じように消えてしまうのではないかと思う程に。

 顔を窓からこちらへ戻した彼女と、視線が交わる。

 その瞳に、吸い込まれそうになる。

 遥星が何も反応ができないでいると、机上に置いた手の上に、そっと彼女の方から手を重ねてきた。その手のひらは、絹のように滑らかでさらさらなのに、しっとりと自分の手に吸い付いた。


 こんな風に、人から触れられたことなどない。

 まるでその手に吸い込まれてしまうのではないかという感覚と、自分が自分でなくなってしまいそうな息苦しさに、途端に恐怖を憶えた。

 息ができなくなりそうになり、遥星は重ねられた手をさっと引っ込めた。


 手を払われた詩音は、しばらくその宙に浮いた手をどうすることもできなかった。

 彼にその気がないことくらい、初めからわかっていたはずだ。

 だけど、ただこちらを向いてくれないことを嘆くだけではなく、少しでも自分の気持ちを知ってほしくて──いや、単に自分が触れたいという欲求だけかもしれないが──、一歩勇気を出して、手を重ねてみた。

 その結果が、これだ。

 想像以上に、ダメージが大きい。自分から働きかけて、それを拒否されるということは、全ての勇気を削がれるものだった。


「もう、休みます。寝台お借りしますね」


 零れそうになっていた涙も乾ききった詩音は、それだけ呟いて、布団に潜りこんだ。


 遥星は、どうしたらいいかわからなかった。

 自分が今、何がどうなっているのかもわからなかった。

 ただ、詩音を傷つけたということだけは、さすがに理解した。

 寝台の上で奥を向いて丸まっている彼女の背中に、一言だけ声をかける。


「ごめん」


 詩音は、ただその言葉を背に聞いていた。


(また、それ。そんな言葉、かけられればかけられるほど、惨めになる)


 もう何を考えるのも嫌になり、ただひたすら無になろうと意識しながら、いつのまにか眠りに堕ちていった。

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