10-4 義兄嫁・蜃夫人

(たくさん、話が聞けたな。皇后のことも勉強になったし、話せて良かった)


 詩音が怜夫人の部屋を出た時、何気なく庭園に目をやると、誰かがしゃがみこんでいるのが見えた。

 階段を降り、その人のそばに駆け寄る。


「どうしました? 大丈夫ですか?」


 蜃夫人だった。

 蒼白い顔をして、口元を押さえている。


「立てますか? ちょっと、そこの日陰まで行きましょう」


 蜃夫人の背中に手を回し、少しでも涼しい場所へ誘導する。


「うぅ」

「どこか、痛みますか? 怪我は?」

「いや、ない」


 ちょうど昼食の時間に差し掛かり、部屋子たちはそれぞれ準備に忙しく、付き添えなかったようだ。炊事場から、米を蒸すような匂いが漂い、肉を焼く音が聞こえてくる。


「っ、悪い」


 蜃夫人が咄嗟に横を向き、茂みに向かって戻してしまった。


(? これって)


 詩音はゆっくりと背中をさすった。


「気持ち悪いですか? お部屋に戻って休みましょう」

「あ、あぁ、だが、」


 立てないのかもしれない。

 蜃夫人は、詩音よりもかなり小さい。詩音の身長は百六十センチ以上あり、彼女を見下ろせる程だから、恐らく百五十もないだろう。細身だし、このくらいだったらいけるだろうと思った。


「私の背中に乗ってください。二階まで、上がれないでしょう?」


 詩音は強引に蜃夫人をおんぶして、彼女の部屋に向かった。羽のように軽い。一体普段何を食べているのだろうか。

 おぶっている時、詩音の抱えている彼女の足が、ものすごく小さいことに気がついた。小柄なことを差し引いても、さらにもっと小さい子供みたいな足だ。靴を履いているから、はっきりとはわからないが。

 誰かいるか、と詩音が蜃夫人の部屋の前で問いかけると、中で食事の支度をしていた部屋子が扉を開けた。


「蜃夫人が、具合が悪いそうなの。今すぐ寝かせさせてもらうわ。着替えと飲み水を多めに用意して貰える? それから、お医者様を呼んで」


 詩音は早口でそれだけ言うと、つかつかと部屋の中へ入っていって、夫人を寝台へ寝かせた。部屋子は状況についていけていない様子だったが、その背におぶわれている蜃夫人を見て、詩音に従った。


「すまない」

「いえ、お気になさらず。ちょっと失礼しますね」


 半ば強引に、彼女の服を緩める。かなりきつく帯が締められており、驚いた。


「あの、こんなにきつくしちゃダメですよ。妊婦は緩い服を着ないと」

「え?」


 蜃夫人の反応に、早とちりしてしまったか、と詩音は焦った。


「あ、申し訳ありません、さっきの症状から、てっきりそうなのかと」

「いや、わらわは子供はできない身体じゃからの」

 やってしまった。なんて失礼なことを言ってしまったのだろう。

「そ、それは失礼しました。体調を崩されたのは、今だけですか?」

「いや、ここ一週間くらい続いておる。どうも眠くてだるくて、食事の匂いが辛いのじゃ。さっきも少し調子が良かったから外の空気を吸おうと出たのだが。悪かったな」


(いやでもやっぱり、妊娠した友達が言ってたような感じだなぁ)


 生理は予定通り来ているかと尋ねると、そういえば数週間くらい遅れているとの返事が返ってきた。ますます詩音が不思議に思っていると、部屋子が宮殿付の医者を連れてきた。

 夫人に代わって詩音が今聞いたことを医者に説明すると、少し離れているようにと言われた。医者は薄いカーテンのようなものを引いて周囲から見えにくいようにし、力を抜くように夫人に言ってごそごそとした後、優しい声で告げた。


「おめでとうございます。ご懐妊です」

「! そんなはずは。私は、不妊なのだぞ」

「何を根拠にそうおっしゃるのです?」


 狼狽える夫人に医者が問うと、彼女は気まずそうに答えた。


「前の夫との間には、二年子供ができなかった。それで周りからも責められていたし」

「同じ夫君の他の妻は、懐妊されていたのですか?」

「いや、他に妻はまだいなかった。これから側室を迎えようとしていたところだったが」


 その先は、蜃夫人は言葉を濁した。

 以前に遥星から聞いた話によれば、彼女の元夫は佑星によって侵略され殺されたということだろう。


「それは、貴方のせいではなかったということでしょう」


 医者がそういうと、蜃夫人は心底驚いた顔をしていた。

 この世界の常識というか社会通念として「不妊は女側に原因がある」と考えられているのか、あるいは蜃夫人が極端に世間知らずなのかはわからないが、それで驚くことに詩音は驚いていた。


「とにかく、しばらく安静に。動き回ったり重い物を持ったりしてはなりません。食事は、食べられるものだけ食べれば、今は良いでしょう」


 蜃夫人が涙ぐんでいるのを見て、詩音はある考えがふと頭をよぎった。


(昨日、睨んでいるように見えたのも、単に気分が悪かったからなのかな? それに、あの足。あれって、素早く歩けるものなのかな)


 それからしばらく着替えを手伝ったり水を飲ませたりしていると、佑星が部屋へ飛び込んできた。


「蜃! 倒れたって聞いて……大丈夫か!?」


 医者が彼女の懐妊の事実を告げると、彼は夫人の手を取って飛び跳ねんばかりに喜んだ。夫人が、詩音がここまで運んでくれて助けてくれた、ということを話すと、そこで振り返ってようやく詩音の存在に気付いたようだった。

 彼と目が合い、以前のことを思い出して複雑な気持ちになる。


「あぁ、詩音ちゃんが助けてくれたの? ありがとう!」


 詩音に近づき、手を取って礼を述べる。その直後、小声で「この前は悪かった」と他の人に聞こえないように呟いた。

 あのことがあってから、佑星と直接顔を合わせる機会は今までなかった。だが、何か心境の変化でもあったのだろうか。あるいは、自分の妻を助けたからか。この人には理不尽な目に遭わされたし、そのこと自体を許す気は毛頭ないが、もうこれで今後はこの件については何も言えないな、と思った。


 涙を流し喜びを共有する二人を眺め、詩音はそっと部屋を出た。


 単純に、羨ましかった。

 体調を崩したら飛んできてくれて、妊娠がわかったら一緒に涙を流して喜びあって。

 妻として愛されるっていうのは、ああいうことを言うのだろう。

 それを妬ましいと思ってしまったことと、また自分も同じように愛されたいと望んでしまったことに気づく。


 比べたって、仕方ないのに。

 相手の行動の変化を望んだって、届かないのに。


 最近の詩音は、遥星に何かを「して欲しい」ばかり考えてしまっている。

 そんな自分が情けなくなり、ぎゅっと服の裾を握りしめた。



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