12-4 紫苑
「……シオン」
詩音はそう言った遥星の顔を見た。
「まぁここにいる詩音とは漢字は違うし、その名を知ったのも最近だがな」
「そうです、皇后陛下と同じ。いや、皇后陛下が紫苑(しおん)様と同じ。あの日、突如として現れ紫苑様を殺し、矢に討たれて姿を消した。その後しばらくして何食わぬ顔で現れ、皇后に成り代わった││その妖怪女に憑りつかれて、皇帝として恥ずかしくないんですか」
(妖怪って、私のこと? ってそれより、あの日のことは、誰も知らないはず)
「あの時、矢を放ったのは、喬、なの?」
詩音がようやく口を開いた。
「ふふ、そうです。矢が刺さったと思ったら姿が消えたので、びっくりしました。あなた人間じゃないんだって。その後もう一度現れた時は、もっと驚きましたけど」
「宦官、喬。お前は、あの女の輿入れよりもだいぶ前に宮廷(ここ)に出仕しているな。出仕前は、日雇いの仕事をしていた、と。採用時の調査ではここまでだった。それより以前は││名は今とは違ったようだが、ずっと男娼として生きてきたそうだな。だがある日、その界隈から突然姿を消した。日雇いの仕事で姿を見せるようになるまで、約一年の空白期間がある」
「へぇ、よく調べましたね」
「その目立つ容姿が仇となったな。世間に出なかった間は、あの女に飼われてでもいたか?」
「紫苑様は、純粋で高潔なお方だ。そんな下世話な言葉で表すな! そこの妖怪淫乱女と一緒にするなよ」
(なんで私がディスられなきゃいけないの。さっきより酷くなってるし)
遥星のわざと煽るような物言いに、喬の口調が荒くなる。日はすっかり沈み、蔵の中は松明の明かりだけが頼りだった。
「ただなぁ、随分と巧みに関係を隠して潜り込んだ割には、暗殺を遂行しようという意思が感じられない。お前の目的は結局なんなんだ?」
「紫苑様は、家のために皇帝暗殺の役目を受け入れた。彼女の親は、蒼家に恨みを抱いていたからな。俺は別に国家も皇帝もどうでもよかった。ただ、彼女の援護のためだけにここに来た」
「だったら、暗殺失敗した後は逃げればよかっただろう」
「はぁ、これだから坊ちゃんは。逃げたって、生きていく方法なんて俺にはない。もうこんな身体じゃ力仕事もできないし、ましてや男娼の仕事なんてもってのほかだ。やりたくもないがな。外に出たら、せいぜい見世物小屋か、野垂れ死ぬしか道はないんだ」
詩音は、揺れる炎に照らされる喬の顔を見つめていた。
他に生きる術を断ってまで、その女(ひと)に全てを捧げた喬の気持ちを思うと、やりきれなかった。
「それなら黙って宦官として働いておけば、こうなることもなかったのではないか?」
遥星が問うと、喬の表情が一層険しくなった。
「そのつもりだった。ようやく彼女の死を受け入れられるようになってきたところだったのに。その妖怪女が現れるまではな。お前のその顔を見る度に、名を呼ばれるのを聞く度に、腸(はらわた)が煮えくり返る思いだったよ」
睨みつけられた詩音は、霊廟での出来事を思い出した。あの日、「詩音と呼んで」と言ったこと、それを喬が拒否したこと││
「後宮での壺とか置石とか、喬がやったってこと? 私の送り迎えをしていたあなただったら、他にもいくらでも隙はあったでしょ。だったらどうして、もっと確実な方法でやらなかったの?」
「殺したって死なない女が何を言ってる? それに、あっさり消したらお前は何も理解しないままだったろう。それよりも、悪意を持たれていると、お前が恨まれてるということを知らしめたかった」
「でも、霊廟で見た羽衣っていうのは?」
詩音の呈する疑問に、遥星が被せて問う。
「狂言ではないのか? あそこは滅多なことでは人は来ないし、予め石を用意しておくことも可能だったろう。ただ、羽衣というのは夫人の称号を持つ者しか身に付けない。その者達がお前が追えない程早く逃げるというのは、ちょっと無理がないか。あれがなければ、あの時点では私はお前を疑うことはなかっただろう」
「あぁ、そうだな。迂闊だった。あの時はそいつに『名前で呼べ』と言われて、頭に血が昇っていたみたいだ」
「だが、こないだの荷捌場の件はなんだ? あそこでは、後宮の女に罪をなすりつけることもできまい」
「もう、耐えられなかった。お前ら二人、紫苑様のことなどすっかりなかったかのように浮かれやがって。今までは殺す気も起きなかったが、それを見せつけられながら一生ここから出られないと思ったら、やってられないと思ったんだ。」
ひたすら尋問のような形になっているが、喬は隠す気などないのかどんどん饒舌になっていく。
「あんなに心の美しいお方があっさり死んで、弔いもされず〝なかったこと〟にされて、忘れ去られていくなんて」
「‥‥‥あの女は、お前にとっては価値のある人間かもしれんが、私にとっては顔もよく知らぬうちに自分を殺そうとした罪人でしかない。私がその女を覚えている義理はない」
「わかってる、わかってるよ。だが、そこの妖怪女が現れなければと、考えずにはいられなかった。あの時、無事にあんたを殺したら、彼女と二人、誰も知らない遠くへ逃げて││」
(さっきから、人のこと妖怪妖怪って)
詩音は遥星の側を離れ、喬のいる方へ歩いて行った。
喬は慌てて側にあった松明を掴み、前に向けた。
「く、来るな!」
「詩音」
松明の火が煌々と詩音の顔を照らす。遥星が呼び止めたのを、詩音は手で制止した。
「話したいことってのは済んだかしら。それで? 喬、あなたは結局どうしたいの? 私が苦しんで死ねば満足?」
「もう、どうでもいい。ここまできたら、どうせ俺は生きてはいられないだろう。でもまぁ、最期に紫苑様を殺した妖怪退治でも出来りゃ、冥土の土産にちょうどいいかな」
喬が松明を握り直す。
詩音はもう一歩、ゆっくりと前へ足を出した。炎の熱さは感じるものの、身体はびっくりするほど冷えきっている。
「あのさぁ。その人が忘れ去られるのが嫌なんでしょ。あなたが死んだら、本当に誰も覚えてる人がいなくなるんじゃないの? あなたが、喬が生きて忘れないでいることが、何より彼女の弔いになるんじゃないの」
「来るなって言ってるだろ!」
喬の手にさらに力が入ったのがわかった。
詩音は彼から目を離さないようにしながら、周囲の様子を探っていた。
「皇帝と皇后の暗殺を試みて、生きていられると思うのか? 仮にお前が何か言ったって、周囲が納得するはずないだろう。いいんだ、もう。一緒に逝こうぜ、妖怪さんも、無能皇帝さんも」
喬が手にした松明を山積みの竹簡の棚に向かって投げようとしたのを、詩音は見逃さなかった。松明が手から離れた瞬間には地面を蹴って飛び出し、それをお腹に抱え込む。
「詩音!!!!!」
「っあぁっっ!!!」
遥星が詩音の名を叫んだのとほぼ同時に、詩音の着ている服に引火し、一気に全身が炎に包まれる。そして一瞬だけ炎が猛りを見せた後、すぐにその場は暗闇と静寂に包まれた。
その時、蔵の扉が開いた。
「やっほー! 佑ちゃん登場~~って、あれ?」
松明を持った佑星が入ってきた時に見たのは、暗闇の中で距離をとって佇む遥星と喬の二人だった。
「えーと、君はとりあえず逮捕ね、全部聞いたから」
佑星は素早く喬を後ろ手に取り、外に待たせている兵士に引き渡した。喬も抵抗するでもなく呆然と従う。月明かりを受けた白い顔が、「やっぱり、妖怪だ」と呟くの二人は聞いた。
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