6-3 涙
遥星の姿を捉えた詩音は、一瞬その場から動けなかった。
喬が部屋から出て行った音を、後ろに聞く。
──どうしよう。
何故だか彼が、白く輝いて見える。
たった数日離れていただけなのに、もう長いこと会っていなかったような感覚が押し寄せる。今すぐ駆け寄りたい衝動に駆られるも、自分自身の思考についていけず立ち尽くしてると、遥星が向こうからやってきて、肩から包み込むように抱き寄せた。
近い。
近い、けど、今はその近さが心地よかった。
「話は聞いた。大丈夫だったか」
その声に、張りつめていた糸が切れるように、頽(くずお)れた。
遥星が慌てて抱きとめる。
「す、すみません。こ、腰が抜けてしまって」
詩音は遥星にしがみつくような格好のまま、なんとか声を絞り出した。
「気にするな。‥‥‥顔、怪我をしているではないか。痛かっただろう」
まるで子供をあやすような物言いに、意図せず涙が溢れてくる。余計に力が抜けて、ずるずると袖を引っ張る形になってしまった。
「お、おぉ、大丈夫か? えーと、ここに座るわけには‥‥‥あそこまで、歩けるか?」
壁際にある、分厚いゴザのようなものが敷かれたところを示す。詩音は、遥星に腰を支えられながらそこまで歩いた。
「壁に寄り掛かって構わん。楽にしていてくれ」
詩音をそっとゴザに座らせた遥星は、そう言って部屋の奥に消えた。
──なんで。
彼の言葉に甘えて、壁にもたれかかって座っている詩音は、瞬きをしなくてもとめどなく流れてくる涙の塩辛さを、どこか他人事のように感じていた。
涙が出たのなんて、一体何年ぶりだろう。
──情けない。
心細かったのかもしれない。
鳥籠のような場所で、あからさまな悪意に晒されて。
自分の打たれ弱さに、嫌になる。詩音はぎゅっと目をつぶり、両手で頬全体を拭った。
それとほぼ同時に、遥星が御盆に茶器を載せてやってきた。御盆ごとゴザの上に置き、茶碗へ注ぐ。
「今日は、青茶という茶を淹れたぞ。昂った神経を鎮める効果があるらしい。さ、飲んでくれ」
詩音は渡された茶碗を両手でそっと受け取った。
(温かい)
嗅いだことのあるその香りに、説明された効能の通り心が落ち着くのを感じた。
「ありがとう、ございます。申し訳ありません、みっともないところをお見せしてしまって」
「いや、気にするな。そなたは私の妻であろう?」
強引に決まったその立場だったが、今の詩音にはその言葉はとても心強く聞こえた。一人で抱え込まなくていいんだ、と言われているような気がした。
薄く微笑む詩音の頬に、遥星の手がそっと伸びてきて、ビクッと一瞬身体が跳ねる。
「……っ!」
「あ、すまぬ。痛かったか? 一体何があったのか、詳しく教えてくれるか」
詩音は、まず今日起きた事件について話してから、後宮に移ってからの諸々も含めて話をした。
「そうか、怖い思いをさせてすまなかったな。後宮は、外部の無関係な人間が侵入できるところではない。可能性があるとすれば、女達か、下働きの者くらいだろう。これから、調査させよう」
その発言に、詩音は涙で腫れた目を見開いた。
(えっ。そっか、犯人を捜すってこと、だよね)
それは、どうなんだろう。どうするべきか。とにかく報告しなくちゃ、としか考えていなかった。気が動転してたのか、その先を見ていなかった。仮に犯人を見つけたとして、そこからどうなるのだろう。
この世界では、指紋調査のようなものなんてないだろう。降ってきた壺はありふれた柄と形状のもので、物からの特定は難しそうだった。それに、目撃者もいない。とすれば、聴き取り調査くらいしかできないのではないだろうか。
仮に犯人が見つかったとして、どうする?
その人は、処刑される?
また逆に、見つからなかったら?
大した証拠もなく騒ぎ立てて、後宮の面々に濡れ衣を着せたと、余計に自分の立場を脅かしかねないのでは?
いくらでも言い逃れできてしまいそうで、見つからない可能性の方が高い気がした。そしてその場合のリスクは、全て自分に降り掛かってくるように思えた。
"無難に生きる"癖がついているのかもしれない。
だが、今騒ぐのは得策ではないように感じていた。
「あの、それって、今回は控えていただくことって、できますか」
「何故だ?」
詩音は、自分の抱いていた不安を包み隠さず話した。遥星は頷きながら最後まで話を聞いたあと、こう言った。
「そうか、そなたがそういうなら、今は黙っておこう。だが、そなたに対する侮辱は皇帝である私に対する侮辱と同然。たとえまだ婚儀を行っていなくてもな。私が皇帝として、見くびられている為でもあるだろう。すまなかったな」
その発言に、思わず茶碗を落としそうになり、慌てて手に力を入れた。
──そうか。
自分の保身ばかり考えていては、ダメなんだ。
皇帝と皇后は一対。
私が日和るということは、皇帝もそういう人間だと思われることに他ならない。
私の考えって、なんて甘い。
それに。
この人は、「皇帝として見くびられてる」と今言った。皇帝としての姿はまだ見たことはないが、私が不安に思っていた通り、やはり威厳というものはあまりないのだろう。
だが、自分でも自覚してしまう程というのは、どんな気持ちなのだろうか。その状態で皇帝の立場を続けることは、辛くないのだろうか。
私も、この人も、このままではいけないのかも──
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