豚だ豚だと罵られた僕は、転載しても豚だった件について

武藤 笹尾

第1章 オーク転生ー森で泣く童子に愛の手をー

第1話 プロローグ

 人生ってのは正直、不平等だと僕は思う。

 産まれた時点で、この世での価値が決まってしまうのだから。


 高校の先生が言っていた。


 スポーツ選手の息子娘は遺伝的にスポーツがしやすい身体になるそうだ。

 イケメンと美人の息子娘は顔が整いやすいそうだ。


 つまり、だ。

 産まれてくる前に、つがいになる人によってもう子供の運命は決まったも同然。

 ということだ。


 じゃあ僕はどうだろう。

 父は正直カッコ良くはない普通だ。

 髪型はガチガチのワックスで固め、四角いメガネの超お硬い系男子。しかもあんまり喋らない。

 職業はサラリーマン、年収は五百万。

 まぁまぁだろう。

 少なくはないし、多い訳でもない。

 普通に暮らして行く分には何の問題も無かった。


 母はというとこれまた普通。

 ロングストレートの茶髪。背が小さいのが悩み。

 不細工、とは言わないにしろ、美人とも言えない。

 僕が高校の時にはもう四十の叔母さんだからというのもあるかもしれないが。

 若い時の姿を見てないからな。

 若い時は美人だったかもしれない。

 普段は何してるかって言ったらアルバイト的な事をしていて、どこかの飲食店で働いてるそうだ。

 共働きって奴だ。

 お陰で二人とも帰ってこない日もたまにある。

 したい放題やりたい放題。

 帰ってこない日はもうフィーバータイム、朝までゲームアニメ三昧だ。


 おっと、僕の紹介がまだだったね。

 僕の名前は麦豚むぎぶた 焼太郎やいたろう

 どうだい? 悪意を感じないかい?

 悪意の塊みたいな名前と苗字のコラボレーションだろ?

 全くおかしい話だ。ネタにするにしてもつまらない冗談もいいとこだ。

 こいつのせいで僕の人生が狂ったことは一目瞭然だ。

 もっとも、これだけのせいじゃないけれど。

 何でこんな名前になった? と聞いたら、姓名判断師に決めてもらったそうで。

 何とも画数と星の位置が最高にマッチングしていたそうだ。

 でも、普通しなくない?


 小学校の時は、さほどデブじゃないけれど、名前の所為でぶたぶたとからかわれた。

 おかげでやけ食いを起こし、本当にデブになった僕は、中学でさらに強い虐めにあった。

 トイレに顔を突っ込まれたこともあったし、階段から突き落とされ、「おむすびころりんってか」って馬鹿にされたこともあった。


 辛い、人生の方だと思う。

 他にもきっと、辛い人生を送っている人はいるはずだから、辛い辛いとおおっぴらに言えたもんではないが、それでも良い人生じゃないのは確かだ。

 あまりにも辛すぎて自殺未遂をしたくらいだから、ね。

 屋上からの飛び降り自殺。

 未遂で終わったのは、僕を介助してくれていた先生がたまたま僕を発見し、後ろから引っ張って助けてくれたのだ。

 大した事件にもならなかった。

 学校側が揉み消したって言うのもあるし、何より言いふらさなかった。

 自殺しようとして失敗した奴の言う事の惨めな事よ。

 やる気も起きやしない。


 先生が救ってくれた時、彼女は言った。


「生きていれば必ず良いことがあるから……。諦めないで……。あなたを救う人はいるわ……!」


 嗚咽して、顔を真っ赤にして泣きながら先生そう言う先生に、僕は、吃驚してしまった。

 

 この世に安寧など無い。

 安心もない。

 在るのは一つのヒエラルキー。

 産まれた時の権力、顔、能力で全ては決まる。

 もちろん、後天的に付与することもできるが、権力や顔なんかは自分で積み上げるか、整形という足掻きをするしかない。

 そんな中で、僕女は、僕を助けてしかも慰めの言葉をかけてくれた。


 僕は更生しようと誓った。


 この先生にいつか恩を返そうと。

 僕はこんなに幸せに過ごしましたよ、貴方のお陰です、と。

 言いたかった。


 けど、僕の運命がそれを許さなかった。


 クラスで行われていた僕の虐めが先生に向かったのだ。

 元々軋轢があった先生と生徒の亀裂は一気に走り、瓦解した。

 そして、先生も先生を辞めてしまった。


 ーーこうして僕は一人になった。


 なるべく、誰も知り合いのいない学校に入ろうと思い、引越しまでした。

 だが、結局高校に入って待っていたのは、新たな地獄。

 一層身体が大きくなった者達の、苛烈していく暴力は僕の心をズタズタに引き裂いた。


 引きこもるしかなかった。

 それしか道は残されていなかった。


 こうして僕はオタクになり、引き篭もった。



 ---



 ある日、夏の夜。

 住宅街には雲の切れ間からやっと顔を出した月が、これでもかと光を放ち、無機質で活気のない家々を照らしていた。


 暗い部屋に光る三つのディスプレイ。

 映画と、ゲーム画面二つ。

 二つのコントローラーを掴みながら、一つの大きな影がもぞもぞと動いている。


「ん……あ」


 影がカーテンから覗く小さな隙間を一瞥する。

 薄く細く、だがはっきりと暗い部屋に届けられる光は月の光。

 流れているアニメ映画がエンディングに入っていることから、時間は一時間程経ち、夜になってしまったらしい。


「くそっ……寝落ち……かぁ」


 巨大な影は一五五センチ程の身長だったが、その矮躯に見合わない肉が彼の身体を覆っている。

 というか、僕なのだが。

 立つ事すら気怠そうに唸りながら立ち上がり、寝起きのぼやける目を太い腕で擦りながら、部屋を見渡す。


 電源が入り暗い部屋の中、燦々と存在を放つディスプレイ。

 空の容器二つを含んだ一.五リットルのコーラ五つ。

 本来あるべきベッドにはなく、先程まで身に纏っていた軽い掛け布。


「……くそ。こりゃ多分もう七時回ったのか?」


 いつ寝たのか、そんなことは覚えていない。

 覚えているのは、ゲームのランキングが下がり、ふざけるな! と意気込んでネットダイブしてみれば、更にランキングを落とすという結果を残した失態。

 それに不貞腐れて映画を見始めた所までは覚えているが、それ以降の記憶はない。


 今は夏。

 もし辺りが暗いというのなら、六時はとっくに回ったのは自明の理。

 腹の虫が報せる腹時計が、それを如実に示していた。


「母さーん。母さーん? ご飯あるー?」


 大声で叫んでも返事はない。

 それはここが豪邸だから声が届かないとかそういう話ではなく、


「なんだ、いないのか」


 自室の扉をリビングを見てみれば誰もいない。

1ldkの十二畳間の至って標準のリビング。

 ポチョン、と聴き心地の良い水滴の音が続くだけだ。

 またしても辺りを見回す。

 大きく開かれたカーテンにより、ガラス戸から流れ込む狂おしいほどの光が、ある物の存在を主張する。


「置き手紙……と、金?」


 机に置いてあった手紙には、こうあった。


『焼太郎へ〜

  母さんは今日もお店で働いてきます。もしお腹が減ったら、このお金でご飯を買ってください。明日は居るので母さんが直々に夜ご飯を作るんだから、いつもみたいに部屋に篭っちゃダメよ。

  焼太郎・LOVE♡・母さんより』


「母さん……」


 その相変わらずの文面に、思わず苦笑する。

 自殺未遂までした僕が、これまで無事にやってこれたのも親のおかげだ。


 結局、高校に入っても学校には行けず、部屋に閉じこもりネットゲームから、アニメから、漫画からノベルから。

 何から何まで、時間を潰すことのできるありとあらゆるものを網羅して、僕は惰眠を貪っていた。


 そんな僕をサポートし続けたのが親である。

 甘やかし、叱らず、弾糾する事なく、ただひたすらに笑顔で見守り続けた。

 親の態度に後ろめたい気持ちがありながらも、僕は改心する事なく。

 かれらに甘え続けた。


 そうして出来上がったのが現在の麦豚 焼太郎である。

 身体はぶくぶくと太り身長一五五センチであるにも関わらず、体重は九十キロオーバー。

 整っておらず、いつ散髪に行ったのかも分からない乱れた黒髪。

 睡眠時間は三時間に限定し、残りの時間を全て娯楽に費やした。

 食事もろくに取らず、しっかり摂るのは親が帰る夕食のみ。

 それ以外は炭酸飲料と菓子で事足りてしまう。


 だが、だからと言って親の好意を無下にはしない。

 机に置かれた金を握り締め、ポケットに入れる。

 クローゼットに入っている厚手のコートを羽織り、玄関へと向かう。

 そして、黒く重厚な扉に手をかける。


 ーー前に外出したのって……いつ、だったろうか。


 取手に手をかけるたびいつも思う。

 この暗く閉ざされた籠城は、あまりに居心地が良すぎて、出るのを躊躇ってしまう。

 ーーいや、外の世界が怖すぎて。

 手が震える。

 先程まで弛緩していた筋肉が小刻みに震え、意思に反して行動を止めようとする。

 歯は震え、ガチガチと音が鳴り、聴覚さえ刺激して身体が思考に反抗する。

 いけない、それはダメだ、と。


 ーーだが。


 取手を握り締め、歯を食いしばり、満を辞して外界への扉を開ける。


「……うっ。さむ、いな」


 暖房により暖められていた身体が、冷えた外気に触れて震える。

 今は冬だ。一月の中旬。

 今頃、試験に追われる同級生達がひぃこらひぃこらとしている筈。

 もしくは終わって遊び倒している者も少なくはないだろう。


 その中で僕は暖かな部屋で温もりを感じながら、娯楽に浸っている。

 そう考えるだけで、笑みが溢れてきた。

 罪悪感と恥辱感、犯罪者とはこういう風にして出来るのかもしれない。

 勿論、人様に迷惑をかけるだけの度胸など、僕にはあるはずも無いのだが。


「……」


 コンビニ。歩いて五分ほどで辿り着くことの出来る便利な立地である。

 駅も近く、帰り道によく立ち寄りファストフードによくお世話になっていた。

 だが、立地条件がいいのは何も駅が近いから、とか、コンビニが近いから、などでは無い。

 一番の利点は、駅近くに電気屋さんがある、というところだ。


 現に、目の前にあるコンビニのその横には某有名な電気屋さんがある。

 辺りを見渡せば、工事中の看板や、建物を壊すショベルカーの亜種みたいな乗り物がチラリと目に入る。

 この街も変わっていってしまうのだ。

 特に僕も思い出とかはないが、匿ってくれた街には少しだけ恩を感じている。

 この街がなければ今頃はまだ実家で咽び泣いていただろうから。


「いらっしゃいませー」


 淡白な定員の挨拶が聞こえる。

 定員、通称メガネ君。

 丸メガネが特徴的な一八〇センチくらいある男だ。

 焼太郎が一五五くらいだからいつも見下ろされる。


(ふぅ……ふ、落ち、落ち着け……落ち着け。落ち着け)


 最近の食品冷凍は誘惑が多い。

 どれもこれも美味しいものばかりだ。

 チーズ入りハンバーグ何て店で食べるのがバカらしくなるくらい美味い。

 熱湯でグツグツ煮るだけで、あの熱く下に絡みつくチーズと、口いっぱいに広がる肉汁。


「じゅるり……」


 決定。

 今日はチーズ入りハンバーグだ。

 チーズ入りハンバーグだけだと寂しいから、デミグラスも食べよう。

 商品を掴み、レジの前にまで行く。


「あのー、お客様?」

「…………」

「?」


 どうにも躊躇してしまう。

 手に持つ商品を、レジ台の上に置く事を。

 自身の目の前に置くその事実を。

 どうにも、躊躇するのだ。

 心の中の良心が、“それで良いのか”、と囁いてくるから。

 つまり僕は未だ犯罪者にはなりきれないのだ。

 犯罪者、悪い人間とは自身の良心より欲を優先する者だから。


 ーーだが。


 焼太郎は、その手に持つを、定員の前に差し出した。


「ファーストファンタジーⅺ一点でよろしいですか?」


「はいーー、それをお願いします」


 コンビニの自動ドアが開き、淡白な定員の挨拶を聴きながら外に出る。

 そしてーー走った。


「ハァッーーハァッーーハァーーッ!!」


(やった! やっちまった! 母さんの金でやっちまった!!)


 手に握り締める袋の中に入ったゲームカセット。

 本日発売、税込八七六五円。

 例の如く置き手紙と共に置いてある金を集めに集めて買ってしまったゲーム。

 この為に、母親がいない日の夜ご飯は全て抜いてきたのだ。

 チーズハンバーグは動画で見ながら想像して食べる。

 後は炭酸で腹を膨らますだけである。

 完璧な計画。問題はそれを行う度胸だけだったが、それも杞憂に終わったようだ。

 やってしまえば、こんなものかと、割り切れるものが出てくる。


(そうさ……全国日本四十七県やってない奴がいないと誰が言える! 僕だけじゃ無い! 親の金使ってゲーム買ってる奴なんか腐る程いるハズさ!!)


 焼太郎は順調にーー腐っていた。

 逆に今までしなかった方が偉いと、自身を褒め称えるほどに。

 だからこそ、だからこそ気づかなかった。

 今までなら、深めにフードを被り、最大限の警戒をしながら歩いていた筈の街で、警戒を怠ってしまったから、


 ドンッ


 ちょっとした不注意で強くぶつかってしまった。

 耳にピアスをし、茶髪のいかにもイケイケなヤンキーと、その連れの女。

 でも、問題はそこじゃない。

 そこではなく……。


「す、すいません」

「痛ってーな、前見て歩け……ん?

 お前……、デブタか?」


 知り合いだったことだ。



 ---



 暗い路地裏。

 パイプが生い茂り、青いゴミ箱がひっくり返っている。

 そんな不衛生な路地裏は、不都合な事を隠すには絶好の場所であり、夜とはいえ人が通る通りからは見えない位置だ。


「はっはは、いやー、久しぶりだなぁ。お前もこっちにきてたなんてなぁ」

「ははは、そうだね。剛田くん……」


 剛田。

 本名、剛田ごうだ しゅん

 名前を訓読みするとたけのこ。

 剛田たけのこ。

 因みに“たけのこ”って呼ばれるとめっちゃ怒る。

 剛田は僕が中学で一緒であった同級生。入学した後、何の偶然か同じクラスで隣の席になり、その時の自己紹介で、


「剛田 たけのこくんかな……? よろしくね、なーんてははは……オベぇ!」


 ぶん殴られた。ちょっとしたユーモアだったのだが。通じなかったようだ。

 数メートル椅子を巻き込みながら吹っ飛んで、意識も飛び、歯も三本抜けた。


「てめぇ……。もう一度そう呼んだらコロスぞ……?」


 悪鬼修羅の如く青い線をその顔に浮かばせて、静かに言った剛田であったが、その時の僕は昏倒しており、目を回していた。


 その話は後々、保健室で聞いた。

 委員長から剛田くんを怒らして殴られたんだよ、と。

 剛田はその頃からヤンキー染みてた。

 ピアスは開けてなかったが、授業中フーセンガム膨らませてそうな顔をしてる。


 そして、次の日から、

 焼太郎の青春は地獄と化した。


「おい、デブタ。ちょっとこい」


 体育館裏に呼び出された。

 いつの時代だよ! と、突っ込みが盛大に入りそうなものだが。


 剛田に加え、同じくヤンキーが五人程、屯していた。

 入学したて数日で、剛田はもう数人を下僕にしていたのだ。

 その日から、殴られ、金を取られの日々。

 正直その頃から僕は引きこもりを考えていたが、中学の先生の言葉がどうにも忘れられず、なぁなぁながらも何とか高校に通う事が出来ていた。


 ーーさて、


「いや、すまんね〜。ありがとよ」

「いいってことよ、ただ、あんまり騒ぐなよ?」

「おう、すぐ終わらせるべ」


 回想はお終い、現実逃避も数分で夢は冷める。

 汚い地面に正座を強要され、震え混じりに待機していれば、店の店員と裏口で話しているのが聞こえる。

 話からするに店員もグルか。


 どうやらこれから僕のカツアゲが始まるようだ。

 ーーふっ、残念だったな。

 今日の僕の手持ちは一二三五円だ。

 どうしても欲しいならくれてやるぜ。

 と、意気込んでいれば、


「で、デブタ……。お前いくら持ってる?」

「は、はい」

「は? 千円ぽっちなわけねぇだろ。お前裕福だからよ、家から持ってこいよ」


 別に裕福ではないけれど、確かに中学の頃はよくお小遣いを貰っていた。

 なにせ剛田に殴られないため親に頭下げまくって、一週間一万貰っていたのだから。

 かなり破格だろう。

 何せ、一年で、約五十万だ。


「い、家にも無いです」

「嘘つけぇええ!」

「ひぃい!」


 近くにある店のゴミ箱を盛大に蹴り飛ばす剛田。

 僕の元に転がってくる頃にはゴミがぶちまけられ、店裏は汚臭が充満していた。


「ったく、くせーぜ。おら、家教えな、一緒に楽しい散歩しようぜ」

「ちょっと私は? ここ臭いんだけど」

「あぁ……、店ん中でも入ってろ。青木が面倒見てくれるだろ」

「分かった」


 そう言って肩を組まれる。

 力強く、とても筋肉より脂肪の方が多い焼太郎には振りほどけない。

 横では剛田の下卑た顔が間近に見える。

 ーー怖い……。


 虐めの恐怖がまた蘇る。

 殴られ血が滴り、保健室に行って、消毒液を塗ってもらう、そんな日々。


 消毒液が妙に沁みた。

 心にまで沁みたんじゃないかって錯覚した。


 何度も、

 何度も、

 何度も何度も何度も、

 気が遠くなるくらい何度も、

 傷をつけられ、療して、また傷つけられて。

 その繰り返しを何度も何度もループして、焼太郎の心は憔悴仕切っていた。

 ーーそんな元凶と僕は、もう、関わりたくなんてなかった。


 その時僕は、


「お、おい! 待て!」


 逃げていた。

 一目散に、剛田の太い腕を振りほどき、溜まりに溜まった脂肪をブルブル震わせ、一生懸命走っていた。

 だが、


「遅ぇんだよ! 豚がっ!」


 ものの十秒と言ったところか。

 瞬時に加速した剛田の体躯の突進を喰らい、真正面から地面へと激突。

 鼻面は削れ血が出て、鼻内からも血がツゥッと垂れてくる。

 顔を真っ赤に腫らし痛がる暇はなく、すぐさま肩を掴まれ、その正面には剛田の顔が。


「全く、せっかく穏便にすませてやろうと思ったのによぉ、痛い目見ねぇと気がすまねぇんだな。豚はよ」

「ひぃいい!!」


 その強烈な威嚇顔にもう手足は動かない。

 何とか背後に脚を引きずりながらも移動を試みるが、それを瞬時に察知した剛田が身体に跨りその行動を塞ぐ。


 何か打開策はと周りを見渡せば、そこは横断歩道。

 このままでは危険だ。


「あ、危ないよ……、早く渡らないと!」

「あ? そんなこと知ったことかァ!」

「ぇぶッッ!!」


 頬に一発、腰が入った一撃を動けない状態で貰う焼太郎。

 骨にまで浸透する衝撃はいとも容易く数年と付き合ってきた、人体で最も硬い歯を何本か吹き飛ばし、脳震盪と見受けられる気分の悪さも感じ取る。

 喧嘩慣れしたその拳は、中学に受けた物を遥かに凌駕しており、とても今の僕では太刀打ち出来るものでは無いと本能が理解した。

 ーー早く逃げなければ……!


 確かに力では勝つ事は出来ないだろう相手“剛田”。

 だが僕が彼に唯一勝る物を要しており、そして、本来であれば僕自身が一番嫌悪する存在。

 それは、


「退けよォォオッッ!!」

「ぬぁ!?」


 圧倒的重量だ。

 僕と剛田の体重差は二十キロ程。

 下にいる僕に出来る事は、優位に立つ剛田の隙を狙った全体重を込めた両手による突き飛ばしだ。

 恐怖により思わぬ力も出たのか、剛田は背後に倒れこみ、その隙を逃さず、逃げようと走ろうとするが、


「逃すかよ……っ!」

「……! し、しつこい! しつこすぎるよ、剛田くん! 手を離せ!」

「だから、そんなことしらねぇっていってんだろうが……!」


 足首を掴まれ、膠着状態に陥る。

 どうするか。どうするべきか。

 思考を巡らせていれば、ある事に気づいた。

 あり得ないことだ。

 全くもって前代未聞。

 工事中の鉄骨がフラフラとその行き先を定めず、街道の上へで止まる。

 焼太郎のちょうど真上。

 この位置にいたらーーマズイ!


「に、逃げ……ないと!」

「誰から逃げるってぇ? 僕か!」


 もうこの男のことは放って置くしかない、そう思った。

 幾度と無く自分を虐めてきた最低の人間。きっとそれ以外でもろくな事をしていないに違いない。寧ろ、庇う方がおかしい。

 このまま足首を掴んだ手に蹴りを数発入れて振りほどき、走り出せばそれで終わりだ。

 ちょっと強く蹴るだけで剛田は手を離すだろう。

 でも、ふと声がした。


「生きていれば必ず良いことがあるから……」


 あの先生の言葉。

 名前も忘れてしまった恩師である先生の言葉。

 先生が退職してからもう会うことはなく、あの人にかけて貰った、多分、最後の言葉。


 剛田は今幸せなんだろうか。

 もしかして、今幸せじゃないからこんなにグレてるんじゃないだろうか。

 少し出会い方が違えば友達になれたんだろうか。


 そんなわけはない。

 不良とつるんでリーダーをやってるような男だ。

 きっと、僕と出会おうがそうじゃなかろうがきっとグレてたに違いない。


 社会に反発して、僕は悪くない! っていって友達に囲まれて自由に生きて……。


 あれ。


 親に反発して、僕のせいじゃないって引きこもって、全世界のネット繋がりの友達に囲まれて……。


 あれ、あれ? あ、


 ーーそっか。


 こいつも、そうなのだ。

 タイプは違うが、剛田は僕と同じなのだ。

 きっと、気付く。

 このままじゃいけないと、どこかで変わらなければいけないと。


 愛する人ができて、

 結婚して、

 子供ができて、

 社会に出て、

 上司との付き合い方が分からないって昔学校行っとけばよかったって、

 子供が育って反発して、

 僕も昔こうだったって悟って、

 みんなで壁を乗り越えて、

 それで年老いて、

 死ぬ。

 ーーそんな当たり前の幸せを、生きていれば、僕も、剛田もなぞっていくんだ。


「なら、もう一発殴ってーー、オぅ」


 弱々しい蹴りだった。

 掴まれていない方の足で頭をゲシッと蹴った。

 別に迷いがあったわけじゃない。

 ただ、さっき殴られた痛みで僕自身、力が入らなかったのだ。

 掴まれた足首がジンジン痛む、頭もボヤけて今考えているのが正しいものなのかと、判断も覚束ない。


 だが、

 助けたいと、確かに、心の底から思ったのだ。

ーー本当に?


「この豚野郎! ぶっ殺して……」

「たけのこにゃ無理だよ」


 今まで、虐められた仕返しに精一杯の嫌味を言い放ち、おかげで気分は爽快だ。


ーー違う。僕は。


 態々道連れにした所で、死んだ後の気分なんて味わえない。ならばここは、僕一人で充分だ。


ーーそうではなく、ただ僕は。


 思い残すことは親孝行ができなかったことくらい。


ーーこの人生にきっと。


 あぁ、最後の最後まで……、


「ーー屑だったなぁ」


 瞬間、鉄骨は音を立てて落下。


 ーー僕はその時絶命した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る