第16話 可愛いの裏返しは狂気の沙汰

 

 首を締め付ける冷たい鉄の感触が、酷く記憶に残る。

 勿論、普通に過ごすだけでもその感触はあるのだが、特に締め付けられると、辛く悲しい気分になる。

 氷のように冷えた鉄が、首内の血管の流れを根こそぎ遮断して訴えかける。


 ーー逆らうな、言うことを聞け。


 そう脳内で告げられる度、頭がおかしくなるほど痛くなって、熱くなって、空っぽになって、そうして私はいつも従うしかなかった。

 最初は抵抗した痛くても熱くても辛くても、私が我慢すれば大丈夫だと。

 でも、一度タカが外れれば後はもう取り返しがつかなくなって、心の中でいつも“助けて”と叫ぶだけ。

 いつだったろうかーーそんな自分の姿を鏡で見たのは。

 鮮血で全身を彩りながら骸の頭蓋を片手にひっさげて、真紅の瞳で笑う姿は、とても楽しげに人を殺してるように、そう見えた。


 ---



 苦しいーー。


『ーーかしたら、キングとか、フゴタとか起きーーーーーー』


 誰かが私に喋りかけている。

 でも、よく聞こえない。

 ーー苦しい。


 氷より冷たい鉄輪が首を締め付けて酸素の供給を阻害する。

 脳に行く筈の新鮮な血も流れを止められ、脳は徐々にその活動を遅らして行く。

 思考は出来なくなり、なんとか息をしようと口を大きく開ければ涎はだらし無くドバドバ溢れ、顔は真っ赤に、ただ先程まで入れていた腕の力だけが訴えかけるように増して行く。

 声を出したくても出るのは掠れた声のみ。寧ろ“これ”をしっかりと声と認識されているのか、それすら不明なほどだ。


『ーーーーーー』


 もう、目の前の何かが発している単語すら聞き取れない。

 在るのは意味の分からない文字の羅列に、消えて行く周りの景色。

 白に埋め尽くされ、先程まであった立派な大樹も、頼れる兄貴も白の彼方に消し飛んで、やってくる限りない白。

 どこまで行っても色無きそれが、自分の脳内世界だと言うことには案外すぐに気付いた。

 でも、それだけであり、それ以上はない。

 思考など許されていないこの身には、この場がどこであろうと関係無いのだ。


 横に立つよく似た獣人が、同じように苦しんでいる様が見えた。

 苦しそうに喘ぎながら、首を抑えて汚らしく涎を撒き散らしている。

 彼女は、自身と違って何かに抗う様に身を悶えさせながら、眼前をまっすぐ睨んでいた。

 そんな視線を辿って見てみれば、眼前にいる赤黒い何か。


 その何かを未だ睨み続ける彼女を一瞥すれば、何か告げる様に口を動かしていた。

 言葉の意味がわからないはずなのに、声として現界していない筈なのに、なぜか彼女が言った言葉は理解できた。


『ーーーー逃げて』


 そんな彼女の忠告虚しく、興味が行くのは未だ目の前でぼやける赤黒い何か。

 赤黒く、靄がかかった様に人かそうで無いかもはっきりとしない外見であるにも関わらず、口だけは視認する事が出来て、緩徐に進む口どりを辿れば、


『ーーオイデ』


 と言っているのが分かった。

 言葉の意味が分からないのに、赤黒い何かに引き寄せられて手を伸ばす。

 そうして手を取った赤黒い何かの表情がそこで初めて見えて、酷く悲しい表情をしていることに、初めて気付いた。


 ---


 夜空に輝く星々や青い月が、これでもかと言った具合に主張する。

 いつもならば木の葉が隠し、輝きの一部しか見えないはずの彼らの美点が今ならばはっきりと見える。

 目の前の光景がこんなに美しいのにーーおきている事態のなんと恐ろしいことか。

 上空三十メートルを飛ばされながら、ブヒタはそんな事を考えていた。


 味わった事の無い浮遊感、空を飛ぶとはこの様な気持ちなのかと感心したが、そんな暇はない。

 自身をぶん投げた張本人が、風に揺れる脂肪のついた腹の向こうを除き見れば、真紅煌めく炯眼を光らせ、今も尚迫ってきている。


「ーーフひっ」


 元のナオネの姿ですら見せた事の無い程の清々しい笑顔で迫る彼女は、恐怖すら感じさせる。

 寧ろ完全にる気しか感じられないオーラは笑いが思わず零れる。

 本来であれば既に速度を同じくして平行する彼女が、到底同じく空を飛んでいるブヒタに手が届くはずもなく、跳躍した時点で追いつかなかったのだからそこで諦めるのが道理だが、狂気染みた彼女の笑みが絶える事はなく、空中のバランスが取りにくい空間の中で体勢を整え、大きく息を吸う。


「なーー何を」


 何も出来ないブヒタに、次起こる事を予想したとて、それを防ぐ手立てはない。

 吐き出された無慈悲な空間を切り裂く咆哮は、そのまま彼に直撃し下に待つ地面へと吹き飛ばした。

 生じた空気の波動が森を象っている葉を揺らし、大きな波を形成する。

 その波が、振動が、衝撃が集落に伝わる頃にはもう遅い。


 地面へと叩きつけられた体躯は、二、三度跳ねて転がり至る所に擦過傷を付けながら、迫り来る狂人と化したナオネから遠ざかる。


 ーーなぜ、どうしてこうなった?


 身体中ボロボロになり満身創痍になりながらも、ブヒタは地面に拳を打ち付けてなんとか立ち上がる。

 彼女が、何を起点にしてああなったのか不明だが、兎に角話しかけてどうにかなる様な精神状態ではないのは確かだ。

 一刻も早く、集落に戻ってこの事をキングに伝えねばーー。

 その思いで、足を引きずり木を転々としながら鼻で嗅ぎ取った集落に向かって歩くが、


「ーー見つけた」


 丁度真後ろに着地した殆ど無音で、気配など皆無で、現れたナオネにただただ愕然。

 振り返るのすら恐れを感じさせる、圧倒的強者が放つオーラ。

 考えても見れば彼女も獣人、獣と同じく五感が発達していてもおかしくない。

 夜の闇でも効く目に、何百メートル先で落ちた釘の音さえ聴き取り、どんな強靭な鉱物でも噛み千切る強固な歯、そして何千何万といる人の群れの中でたった一人を見つけ出せる嗅覚を持つ、全ての獣を凌駕した存在、それこそが獣人族ワビト

 子供とはいえ獣人族ワビトである彼女に、自身が飛ばした獲物たるブヒタを探し出すことなど造作もない事だった。


 このままでは殺されるーーそうブヒタの直感が告げていた。


「なんでーーこんな事するブヒ」

「…………」

「どうしておいらを襲うブヒかっ!」

「………ぜ」


 背中から感じるのは声のみだ。

 歩く音近寄る音は聞こえない、耳にのみ集中し、彼女が発する一言一句を聞き逃さない様注意する。

 話しが通じたことに若干の希望を感じながら、答えを待てば、案外すぐに答えは返ってきてそれはーー耳元で囁かれた。


「全部ーーコロス」

「ーーーーーーィィッッ!!?」


 急ぎ振り向いたが遅い。

 振り抜かれた正拳突きが、ブヒタの鳩尾に炸裂し、豊満な肉を有しながらも綺麗なくの字を描いて後ろへと飛ばされる。


 先程まで歩きを補助していた木々が牙を剥く。あまりの威力に次々と倒されながらもブヒタが背中に受けるダメージはあまりに甚大だ。

 遂には地面に滑り落ち、その体躯は木々によって減少した速度のおかげで停止に至る。


 口に混じった血と土が混ざり合い、気持ち悪い混沌とした涎が非常に気持ち悪い。もはや打撲どころの話じゃない、身体中の骨は砕き割れ、内臓はぐちゃぐちゃ。たった二度の攻撃でブヒタの身体は再起不能にまで陥ってしまったのだ。

 痛みはもはやアドレナリンで感じず、あるのは動かしたくても言う事を聞かない手足。

 掠れた視界を振り絞り、痛みで活動を拒絶する筋肉を動かして首を上げれば、彼女はそこに立っていた。

 ーー丁度顔の目の前に。


「肉ーーーーウマそう」


「今度は、食事ブヒか……。かなりナオネもきてるブヒね」


 殺害予告の次は食料宣告はさすがに笑いが生まれる。

 殺害予告はされた事はあっても、醜い脂肪が付いた身体を、食べようとなど思うものは喋らぬ獣、本能の赴くまま生きる者達だけだからだ。

 ならばーー要するに、彼女はその域に入ると、そう言う話なわけだが。


 あれ程の素早さを見せたナオネだが、忍び寄る手は驚く程ゆっくりだ。

 近付く死のように、ゆっくりと緩徐に迫る彼女の手。

 可愛らしく小さかった子供の手はそこに無く、あるのは毛が生え命を刈り取る鋭利な爪を五つ有した凶器のみ。

 死を悟った、その時、


「ーーブヒタッ!!?」


 と、誰かの声がした。


 --


 気持ちよく寝ている、青い満月の夜の日に事件は起きた。

 集落全体を揺らす程の強力な地震が、寝ている全ての魔物を起こしたのだ。

 それに続いてやってくる強烈な衝撃波と突風。

 どんな深い眠りに入っていてもこれではさすがに起きてしまう。


「な、なになに、どうしたの!?」


「一体何事だぁっ! 見張り!!」


 僕は跳び起きて、外に出れば続いて出てくる鬼丸とその他醜小人ゴブリン達。

 そうして慌てて出てくれば、真っ正面から殴られるような錯覚を得る。


「うぉぉぉ!!?」


 直径一メートルを超える木々達が、迫り来る暴風にミシミシ音を立てながら揺らされ、耐え切れなかった太い枝や葉が、風に乗って僕らを襲う。

 その暴風に華奢な醜小人ゴブリン達は声を上げながら飛ばされている。重厚な身体のおかげか、突風が来ても僕と鬼丸は飛ばされずその場で腕を盾にしてなんとか直立に成功している。

 風は突発的なものだったようで、すぐに収まった。


「い、一体何が……」


 状況など分からない。

 異世界に来て数ヶ月の僕にこの世界の天変地異の何がわかるのか。

 梅雨と同じく、風が吹く時期でもあるのかと鬼丸の様子を伺えば、彼も怪訝な顔で辺りを警戒している。

 どうやらこれは異常事態らしい。


「明らかにおかしい風と揺れだった。自然的な物ではないのは確かだ。魔術でも使われたのか?」

「くそ……何も分からなーー」


 突然、その動きを止め鼻を動かすことに集中する僕に、鬼丸はその巨体をこちらに寄せながら「どうした?」と訊いてくる。

 風に乗って流れて来た微かな血の臭い、そして、ナオネとブヒタの臭いーー!


 考える限りの最悪の想定を脳内でシミュレイトする。それはナオネが逃げ出そうと外に出てそれを追いかけたブヒタが止めに行った。そしてそこを人間に狙われた。そんな想定を。

 もし、そうだとしたらこの爆音爆風に衝撃は、彼らとブヒタとの戦闘ではないのか。


 ブヒタは魔術が使えるがそれでも補助の範囲。先程のような環境に影響を与えるほどの魔術は使えないし、戦闘技術もフゴタの方が上だ。

 ならば、この天変地異を生み出したのは敵側ということにーー。


「ま、まずいフゴよ! ナオネとブヒタがいないフゴ!」

「なーーーーッ!?」


 そんな最悪の予想をほぼ確実と見れる報告は、僕のささやかな希望を打ち砕き、行われた。

 ログハウスから出て来たフゴタの言うことは真実で中を覗いてみれば、布団はもぬけの空。

 自身の想像が現実となってしまう今、悠長に事を構えてはいられない。

 一瞬だけ臭いがした方へと全速力で疾走。

 何も言わずに走り出した僕の行動を、信じて追いかけるフゴタと鬼丸。


 頼む、お願いだから間に合ってくれ! そんな願いを心の内で叫びながら、走る事数秒、その惨状は目の前にあった。


「ぶ、ブヒタァッ!?」

「き、キング……」


 横たわる彼の姿はあまりに酷い状態だった。

 身体中は擦過傷だらけ、柔らかそうな体毛は血によって赤黒く染まり、片方の腕はあらぬ方向を向いている。

 もう眼の焦点もあっておらず、向いているのは僕の若干右、僕が見えていないのだ。


「キング……来ちゃ、ダメブヒ……」

「こっちだ! ブヒタ! 僕はこっちだぞ!」

「あ、あれ……キングが三人に、見えるブヒ……」

「くそッ! 一体……、一体誰がこんな事を!!」


 激情を込めて、固く握った拳で地面を殴る。

 なんでこうなるまで気づかなかったのか。どうして、もっと速く駆け付けてやれなかったのか。

 後悔は後から後から溢れ出て、僕の心を蝕んでいく。

 そんな中、満身創痍の身体で血が阻害しながらもブヒタは力を振り絞り、掠れた声で語り掛ける。


「速く……逃げるブヒ……ッ!!」

「なん……で! お前を置いてなんかいけないだろうが!」


 ここでとある疑問に辿り着く。

 僕は全く気にしておらず、ただブヒタの事だけを考えて、側に駆け寄って喋りかけていた。

 で、あればだ。

 すぐ近くにブヒタをここまで攻撃した敵が潜んでいる筈で、今にも狙いをつけられているのではーーっ。


「ーーは」


 まるで何千本もの剣が自身に向けていられるような底知れぬ恐怖が僕を襲った。

 身体は石のように固まって動く事を許されない。もしもここで動いて仕舞えば、首が飛ぶ。

 そう、まさにーー知識の館でナオネに殺されかけた時のような、あの感覚。そして感覚だけではない、確かに目の前に誰かいる、そしてそこからする臭いの持ち主は。


「ナオーーネ?」


 顔を上げてはいけないと、本能が叫びながらも忠告を無視して顔を上げれば、そこには一人の“獣”がいた。

 口の端を上げていやらしく笑う彼女は、獣人と呼ばれるに相応しいなりをしており、身体中毛を生やしていた。

 取って付けた様な猫耳と尾だけでなく、全身を覆うオレンジがかった黄色と黒の、縞模様の毛皮と光る白き爪と牙はまさしく獣。

 最初に出会った時のキツイ感じは見受けられなく、寧ろおどおどしていた時よりももっと幼くなった笑顔で、目の前に立っていた。


 ーーだが、その幼さが堪らなく怖かった。


 言葉を掛けても、ナオネからは何も返っては来ない。

 来るのは、笑顔だけ。そうして数秒の沈黙の後、ナオネは手を出して言う。


「新しいにくーー美味しそう」


 僕を、僕と思ってない。

 目の前にいるのはただの肉。動く肉塊。その程度の認識なのだ。

 分かる、その目付きは明らかに狩人、料理人、常軌を逸した眼光は、もうナオネの見る影もない。


 あと数センチ、指先を伸ばせば僕は本当に肉となる。

 だがふと何かを聞き取った様に耳を動かし、手はそこで戻され、ナオネは青い月輝く空を突然見つめると、


「帰らないと」


 地面を軽く蹴って、跳躍し、消える。

 僕らを残して、彼女は夜の闇に消えたのだ。


 ーー何も告げずに、突然と。

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