23.不測

 ふわふわと上機嫌な総主教とは対照的に、ルーメンは常に神経を尖らせていた。

 彼女の体調のいい時は礼拝を再開していたので、それにつき従うのも神経をすり減らす。彼女を護らねばという思いと、お腹の子には産まれてきてほしくないという矛盾した思い。彼女と居れば強く、彼女と居なくともその葛藤はルーメンを苛んでいた。

 眠れているのかいないのか、自分でもよく分からない。元々細かった食はほとんど受け付けなくなり、体力維持のためだと無理に食べると結局吐いてしまう。


 だから、きっと彼はその時悪魔に囁かれたのだ。


 気分転換にと星を見た帰り、ルーメンは見覚えのある男に声をかけられた。


「……ルーメン大主教……あの……」


 お互い、顔を覚えてはいるのだが、話すのはこれが初めてだった。

 しきりに辺りを気にしてその先を言い出せない男に、ルーメンは盗聴防止の魔道具を作動させてやる。


「……どうぞ。これで誰かがいても大丈夫です」


 特段、怒ったり機嫌が悪かったりしている訳ではないのだが、ここ最近は微笑みを貼りつかせている余裕すら彼にはなかったので、男はびくびくとしながら、ルーメンと忙しなく合わせている自分の手を交互に見ていた。


「彼女が……」


 男の言う『彼女』を頭の中で思い出す。総主教の身の回りの世話をしている女性の1人のはずだ。まだ続いているのだなと、ルーメンはぼんやりと思った。


「彼女が……総主教猊下の症状は……妊婦のそれに似ていると……」


 一笑に付すべきだっただろうか。

 表に出せない不満を、ルーメンは彼に八つ当たりのようにぶつけたくなったのかもしれない。お前の想う女は、神のものなのだから早々に諦めればいいのに、と。


「そうだとして、それを聞いて貴方はどうするおつもりなのです?」

「え!? あ、その……」

「下手なことを口走られて、困るのは猊下です」

「わかっています! 誰かに告げるとか、そういう訳ではなくて! ……純粋に心配なのです」


 その言葉に嘘はなかった。

 彼が欲しかったのは、妊娠などしていない。少しすればよくなる。そういう言葉だったのだろう。ルーメンは口元だけで微笑んで、彼に告げた。


「猊下は神の子を身籠っておられます。身体が安定すれば発表されることでしょう。ですから、それまでどうか、ご内密に」


 声を潜めて、必要以上に近付いて、さも貴方だから教えて差し上げましたよというように。

 彼は面白いほどに青褪めた。

 ルーメンは魔道具を停止させ、何事もなかったように彼の横をすり抜ける。

 もしも、彼があちら側にこれを告げて何か波乱が起きるのだとしても、構わない気がしていた。あちらが動いてくれれば、この気持ち悪い感情も少しは紛れるのではないかと――



 ◇ ◆ ◇



 数日経っても、週が過ぎても何の動きも無かった。

 本当に彼がその胸に留めているのならば、喜ばしいことのはずなのに、ルーメンの気持ちはざわついていた。

 その日は総主教の体調も思わしくなく、前日も眠りが浅く何度も起きたというので、子守唄で強めの眠りを誘っていた。

 眠る彼女の青白い頬をそっと撫でる。

 こんな思いをしているのに、彼女が幸せそうなのがルーメンは不思議だった。神の子などではないと、彼女は知っているはずなのに。その子を神の子に祭り上げて、後悔などしないのだろうか。またじわりと吐き気がこみ上げる。

 ふらりと立ち上がって自室へと引っ込むと、彼はその身体をベッドの上に投げ出した。




 甲高い鳥のような声が遠くから聞こえた。

 人の……女性の声のようにも聞こえる。いつの間にか閉じていた瞳を開こうとしたところで、悲痛な声が彼を呼んだ。


「ルーメン大主教……!!」


 跳ねるように身を起こし、隣室に飛びこんだところで男がナイフを振りかざしているのが見えた。

 彼の視線は真下、ベッドに眠る総主教に注がれている。

 そのまま駆けつけても間に合わなかったかもしれない。けれど、ほんの一瞬、ルーメンは動くのを躊躇った。これで子は産まれないかもしれない、と。

 すぐにそんな思いは消し飛んだが、それでもそれは致命的な一瞬だった。彼の指が無意識に指示する前にナイフは振り下ろされ、もう一度振り上げられたナイフと彼女の傷口から血飛沫が飛ぶ。

 一瞬遅かった風の魔法は振り上げられたナイフをその血飛沫ごと巻き上げ、弾き飛ばした。


「猊下!!」


 ベッドを乗り越え、風に散らされた血が目に入ったのか、しきりに顔を擦っている男を蹴りつけると、すぐに振り返ってルーメンは総主教の傷口に手を当てた。

 太い血管を傷つけているのか、彼女の胸元はすでに真っ赤に染まっていた。それだけの衝撃を受けていて、これだけ周りが騒いでいるのに、彼女は幸せそうな顔のまま眠っているようだった。深く眠らせすぎたのかもしれない。

 ルーメンが他人に癒しを施すのは初めてだった。深すぎる刺し傷に自分とは勝手の違う感覚。焦ってもそう簡単には上手くいかなかった。

 背中に男が立ち上がる気配がしても手は離せない。少しでも彼女を護ろうとルーメンは総主教の上に身を乗り出した。


「……えの、…………か」


 地の底を這うような声にぞっとする。凝り固まった恨みを叩きつけられるようだった。


「お前のっ……子、か!!」


 衝撃を予想して体を固くする。だが、衝撃は横からやってきた。

 腕を引かれて横倒しにされる。人影がルーメンと入れ替わるように割り込んだ。

 見上げた時には男の腕は振り下ろされていて、その腕を茶がかった金髪の男が低く呻きながら両手で抑え込んでいる。


「……フェ……エル」


 男のナイフがすでにフェエルの左胸に刺さっているのを察して、ルーメンは腕を持ち上げる。指をナイフを持つ男に向けて、その腕が横に振られる前にフェエルが彼を蹴りつけた。


「使うなっ」


 味方だと思っていた男に蹴りつけられて、ルーメンは釈然としない。フェエルは自分を助けたのではないのか。

 もう一度不満気にフェエルを見上げるルーメンを、彼は一瞥もせずに襲撃者に集中していた。少しの間、時が止まったように動かない2人。

 次の瞬間、ナイフがさらに深く刺さるのも構わずにフェエルは身体ごと男の腕を押し返した。上体が反り返り、踏ん張りが利かなくなった足を綺麗に払う。背中と頭を床に強かに打ちつけた男は低い呻き声を上げた。


 フェエルは総主教を振り返り、胸を染める赤に一瞬だけ悲しそうに瞳を揺らした。それからルーメンを見下ろすと、さっぱりしたような顔で笑う。

 初めて見る表情。迷いのないフェエルの決意はルーメンを不安にさせた。

 フェエルの手が深々と刺さるナイフに伸びる。


「……! フェエル! 抜いては……!」


 ルーメンの言うことなど露程も聞いちゃいない。奥歯を噛みしめる音がルーメンの耳にも届いた。

 脈打つ心臓に合わせてどく、どく、と溢れ出る血液が瞬く間に床を汚す。止めようとルーメンが立ち上がるのより先に、フェエルは片足で倒れている男の腹を踏みつけて屈みこむようにしてその喉を掻き切った。

 男の血と、ナイフについていたフェエルの血が混ざりあって飛び散っていく。

 上体を起こそうとしたフェエルの身体がふらりと傾いだところで、ようやくルーメンは彼を捕まえた。


「フェエル! しっかりして下さい! ……今」


 傷口に手を寄せようとして、その手を払われる。


「触るな」


 冷たくしっかりした声にほっとして、落胆した。


「フェエル。血を止めさせてください。私に触れられたくないのかもしれませんが、そのままでは……」

「……猊下……」


 フェエルの呟きに、ルーメンははっとする。

 フェエルはルーメンを押し退けるようにしてベッドへと近づき、その端にくずおれるように腰を下ろした。

 眠るように穏やかな顔にかかるプラチナブロンドを汚れていない左手でそっとはらう。そのまま愛おしそうに青褪めた頬を撫でると、動けないでいたルーメンを自分の横にと促した。


「怪我はないな」


 おずおずと隣に腰掛けたルーメンにフェエルは淡々と聞く。ルーメンが頷くと、彼も頷いた。

 フェエルは総主教の枕の下からわざわざ盗聴防止の魔道具を取り出して作動させる。辺りを見渡しても、他の者は誰もいなかった。


「侍女たちにはウィオレに知らせるように言って逃がした。ひとりは怪我をしていたし……」


 こんな事態を引き起こしたのは、あの夜話した男だった。侍女に会いに来たと見せかけて、凶行に及んだのだろう。彼への警戒感は無かったと言っていい。

 ルーメンはもう1度フェエルの胸元へ手を伸ばした。猊下はすでに手遅れだ。何が起こったのかもわからぬまま神の御許へ逝けるのは、あるいは幸せな事なのかもしれない。

 フェエルはそっとその手を掴む。


「使うなと言っている。どうせ、他人に使ったことなどないのだろう? ウィオレが来る。魔法も癒しも使えると知られるな」


 冷静に言われると、ルーメンは動揺した。フェエルにも言っていない。何故、彼は知っているのか。ここまで来て隠そうとは思わないが、いつから知っていたのか。そして、何故知られるなと言うのか。

 ふふ、とフェエルは笑う。


「この、お腹の子は『神の子』だ。もし、それでどうしてもあちらが納得しなかったときは、俺の子だと証言しろ」

「フェエル?!」


 それは、あり得ない。自分が彼女を抱いた時、彼女は確かにまっさらで、その後にそんな隙はなかった、はずだ。それに、だとしたら彼のあの怒りはなんだったのか。彼女を穢したルーメンに怒っていたのではないのか。


「ルーメン。この子は俺の子だ。彼女が子と共に総主教を辞するのなら、そう告白するはずだった。けれど、彼女は『神の子』だと疑わない。……それが、どんなにその子とお前を苦しめるか知らない。彼女にとって神は眩しいもので、美しいもので……」


 フェエルはそっと手を伸ばすと、ルーメンの頭をその胸にかき抱いた。


「よい師ではなかった。私も他の道を知らない。けれど、もう終わる。お前は手を汚すな。誰かに使われるな。他の道を、探せ。あの、オルガン弾きの彼のように、解ってくれる者が、きっといる。テル……自分のために、生きろ」


 それきり黙ると、フェエルはことりとルーメンの肩に頭を凭れかけた。


「……フェエル」


 まだ温かい。まだ脈はある。

 最後まで、よく解らないことを言う。何故そこで『ルーメン』ではなく『テル』と呼んだのか。ここまで来て他の道を探せと言うのか。罪を背負ったまま、自分だけのうのうと生きていけと言うのか――


「フェエル……!」


 子供についての真偽は視えなかった。それは隠すのに、今の今まで隠してきた気持ちが視える。

 ――愛しいと。

 総主教へも、ルーメンへも最後の最後に惜しみなく――決して告げなかったくせに。初めて抱き締めたくせに。視ろと言わんばかりに。


「……うるさい……静かに、寝かせろ」


 うっすらと笑って、囁くように。それが、フェエルの最期の言葉だった。

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