15.代理

 花びらのような丸い塊の雪が、音もなく空から落ちてくる。ゆっくりと地上に舞い降りては、地面に吸い込まれるように溶けていった。

 どこかで見たことのある光景のような気がして、ルーメンは足を止めた。

 降臨祭当日、大聖堂のチェックを一通り終えて、一般客も入る会場の設営の進捗を確かめる為に移動しようと、渡り廊下に差し掛かったところだった。雪に見惚れていたルーメンにパタパタと駆け寄る足音が聞こえてくる。


「ルーメン大主教……! フェエル総主教補佐は……」

「総主教補佐ならキャンドルと式次第の最終確認に……もしかしたら少し外に出ているかもしれませんが。どうされました?」


 その若い神官はしばし瞳を揺らして迷っていたが、おずおずと口を開いた。


「あの、それが……典礼でオルガンを弾くはずだった奏者が怪我をして……雪で足を滑らせたらしく、腕が折れていて、治療はしてもらっているんですが夜までに間に合うか……」


 ルーメンはもう一度雪の落ちてくる空を見上げた。


「綺麗なだけではありませんね」

「代役も探してはいるのですが、オルガンのあるところはどこもそれぞれで礼拝が行われるので、なかなか難しく……」


 なんだか泣きそうになっている青年にルーメンは微笑みかけた。


「わかりました。私も心当たりを当たってみます。総主教補佐にもお知らせしておきますので、お怪我をなさった方にはよく休むよう伝えて下さい」


 ぺこぺこと何度も頭を下げて戻っていく神官の姿が見えなくなると、ルーメンは通信具を取り出してフェエルに連絡した。すぐに巻貝のような形の先についた石がちかちかと点滅する。石に衝撃を加えて耳元に持っていくとフェエルの声がした。


『いるだろう? ひとり。頼んで来い。断らせるな』


 もう1度石をぶつけて了承の意を吹き込む。誰とは言わなかったが、同じ人物を想定しているらしい。フェエルの培った人脈と情報網は彼の最大の強みに違いなかった。

 幸いにして、彼は有名だった。騎士から転向した異色の神官。その体の大きさも相まって、彼が知らなくとも彼を知っている者は多い。

 ルーメンが通りかかる者数人に尋ねただけで、彼が何処にいるのか特定できた。

 足早に教えられた場所に向かい、梯子を抱えて「降臨祭」の看板をとりつける作業を手伝っているフォルティスの肩を叩く。

 振り返った彼はぎょっとしていた。


「何です? 化物を見たみたいに」

「い、いや。こんな所にいるとは思わなくて……」

「もちろん、忙しいんですよ。解っているなら歩きながら話しましょう。すみません。皆さん。彼はこちらで預かりますので」


 軽く頭を下げて踵を返すルーメンをフォルティスは慌てて追いかけた。


「どうしたんだ? いつもは気安く話しかけるなとか言うくせに」

「理由があるからですよ。オルガン、聞かせてもらいます」

「は? これからか? 忙しいんだろ? 準備だってまだ……」

「ええ、時間があまりありません。どのくらいの曲を弾けるのです? 楽譜があれば問題ありませんか?」

「……まあ、だいたい……」


 嫌な予感がしてきて、フォルティスはルーメンの袖を引いた。


「どこで弾くんだ?」

「大聖堂ですよ。奏者の方が怪我をなさって弾けなくなってしまったのです」


 言葉の足りない部分を補って、フォルティスは顔を青褪めさせた。


「……まっ……! 待て! 待て! まさか、今夜、じゃないよな?!」

「特別に鐘1つ分練習させてあげます。それでなんとかしてください」

「何とかって! ルーメン!」


 周囲の視線が、一斉にフォルティスに向いた。はっとして彼は付け足す。


「……大、主教」

「できますよ」


 楽しそうに少し目を細めてルーメンはフォルティスに微笑みかけた。


「俺の演奏を聞いたこともないだろう」

「そうですね。でも、このあと貴方は主教として着任するのでしょう? それなりの演奏のはずです。曲目はそれほど変わったものはありませんので、練習がいるのは『降誕の詩』くらいだと思うのですが。上手くいけば出世の道も開けますよ」


 むちゃくちゃだ。フォルティスは心の中で溜息を吐いた。けれど、これに応えていけなければ彼に並ぶなど出来ないのだろう。

 彼は自分で頬をバチバチと張って気合を入れ、大聖堂に足を踏み入れた。

 いつも後方から眺めているだけの巨大なパイプが、挑戦的に鈍く光っているような気がする。

 ルーメンはその場に用意されていた楽譜の中から『降誕の詩』を探し出すと手早く譜面台に設置した。


「練習、本当にしてもいいのか?」

「はい。ちょっと待ってください」


 彼は懐から盗聴防止用の魔道具を取り出すと、その場で作動させる。


「……そんなもんじゃ……」


 音が出るのはパイプからだ。鍵盤周辺を囲っても意味がない。

 ルーメンはふふ、と笑うと辺りを見渡し、フォルティスの体の影になる様にして何やら指を動かした。


「……まさか」

「詠唱は魔力を放つ方向とその量を示してやるものでしょう? 方向を示すのを身振りで補っているのですよ。上位魔法はさすがに指示しきれないのですが、簡単なものならイケることが解りました」


 多分、普通の人間はそれではイケない。詠唱という固定概念に凝り固まってしまっているから余計だろう。


「風の魔法は難しくはないのですが、これだけ大きさがあるので流石に鐘1つくらいが限度です。なんとか、できますよね? こちらの中には音は流れてくるようにしましたから」


 つまり、ルーメンはフォルティスのために、無いはずだった鐘1つ分の時間を捻り出したのだ。


「あと、1曲くらいなら差し替えても問題ありません。この曲とこの曲なら何かお好きなものか、得意なものに」


 式次第の書かれた紙をルーメンが指差す。


「……じゃあ、これを」

「曲名は」

「『神住まう処』」


 ルーメンは動きを止めてゆっくりとフォルティスを見上げた。


「それが弾けるのであれば、他は問題無いのでは?」

「好きなだけだ。少し長いが……」

「短いよりはいいでしょう。楽しみにしてます」


 そのまま踵を返そうとしたルーメンを引き留める。


「聞いていかないのか?」

「忙しいので。本番に楽しみはとっておきます」


 それが信頼なのか、実は興味がないのかフォルティスには分からなかった。が、ルーメンの作った時間を無駄にするのも馬鹿らしいので、彼はそうかと鍵盤に向き直った。


「着られる祭祀服があればいいのですが……」


 去り際ぼそりと残された独り言に、フォルティスは苦笑する。そういえばルーメンは辛辣なことを口にはするが嘘はついたことがない。嘘をつけるくらいなら、もっと人間関係はスムーズにいっている事だろう。彼が楽しみだというのなら、それはきっと世辞ではなく、そう思ってくれているのだ。

 少し、彼の心は軽くなった。

 遠ざかる足音を背に聞きながら、フォルティスは顔を引き締めて鍵盤と譜面に手を伸ばすのだった。



 ◇ ◆ ◇



「2つ目の和音、音がひとつずれてますよ」


 集中していたフォルティスは声を掛けられて飛び上がりそうになった。ルーメンが来たことに全く気付いていなかったのだ。


「そろそろ時間切れです。あとは本番でなんとか。まあ、今くらいの間違いであれば、顔に出さずに押し通せば一般の方には判らないでしょう」

「実は弾けるとか、言わないのか?」


 どきどき言ってる心臓をフォルティスは何度か叩いて誤魔化そうとした。


「音を追うくらいはできますが、それでは曲にならないのではないかと。譜面は読めますし、幼いころから何千回と聞いているものですからね。違えばわかりますよ」

「……そうか」


 少しげんなりして彼は息を吐いた。


「別に完璧は望んでませんから。無理をお願いするのはこちらですし。必要なら譜面はお貸ししますのでどうぞ。それから」


 ルーメンは魔道具を解除して、ついてくるようにと視線で言って踵を返した。


「着替えていただきます。普段ならいいのですが」


 大聖堂の近くの小部屋で、女性神官が2人待機していた。フォルティスが部屋に入ると軽く頭を下げる。フォルティスも慌てて小さく会釈した。

 いつもの黒い神官服は脱がされ、似た形の白い神官服の上にガウンのような物を羽織ると、金色の長い帯を肩から腰に斜めにかけて留められる。

 女性2人と共に手伝っていたルーメンが数歩離れてざっと確認した。


「ぎりぎりですね。次に何かあった時のために1着作っておくべきかもしれません」

「何かって……そう何度もあってたまるか」

「世の中何があるかわかりませんよ?」


 ふふと笑うルーメンに女性神官2人がお互い何やら目配せをする。


「後は待機していて下さい。お茶くらい飲んでもいいですが、こぼさないで下さいよ。替えはありませんからね」

「そんな気分じゃない」


 憮然としてフォルティスが言うと、ルーメンは少し首を傾げて彼に近付き、その頭を抱え込むと耳元に口を寄せた。


「大丈夫です。いつも通りに。楽しんで」


 耳元のルーメンの声にフォルティスの緊張が解けていく。不思議なことに、大舞台だという気負いが消え、場末の酒場で音のずれたオルガンを弾く時のように楽しい気分になってくる。

 ルーメンはすぐに彼の頭を離すといつものように微笑んだ。


「迎えに来ます」


 彼が部屋を出て行くと、フォルティスは女性神官の質問攻めにあった。残念ながら彼女達の期待したような答えは返せなかったが、そこでも少し気は紛れた。

 彼女達が淹れてくれたお茶を慎重に口に運んでフォルティスは譜面を見返す。イメージの中で両手は踊るように鍵盤の上を滑っていた。

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