20.不帰の森

 フェエルにはああ言われたが、見つからなければひとりで行ってしまおうと、ルーメンは身支度を整えて宿を出て行こうとした。昼の礼拝を終えた後の皆が昼寝を始める時間帯ならば、人も少ないだろうと思ったのだ。

 出口のドアに行き着く前に侍女の一人がするりと寄ってくる。ショールを深くかぶり、その上からローブを着こんでいるので誰かまでは分からなかったが、どうやらロビーで張り込んでいたらしい。


「……フェエルに……総主教補佐に言われたのですか? 女性にはきついかもしれませんよ」


 諦め気味にそういうと、彼女はこくりと頷いた。

 確実に手元に戻すためなのか、本当に心配しているのか……相変わらずフェエルは読めない。女性ならばルーメンが無下に扱わないと知ってのことだろう。

 馬繋場ばけいじょうから馬を1頭借り受けると、ルーメンは彼女を抱き上げて横座りにさせる。ショールがめくれそうになって、慌てて彼女はそれを押さえつけた。恥ずかしいのか、ついと顔を背けられる。

 この反応はルーメンと寝たことのある者ではないなと、彼は頭の中で当たりをつけた。興味は示されるが、誘ってはこない。そんな中の1人だろう。

 フォルティス程軽やかではないが、彼女の後ろに飛び乗ると、その手を自分の腰に回させた。


「きちんと掴まっていて下さいね」


 動き出すとおずおずとしていた手に力が篭る。ルーメンはゆっくりと馬を進めた。




 彼女は無口だった。彼女が何も喋らないのでルーメンもずっと黙っている。そういう所に気を使える性格ではなかった。

 ただ、時々物珍しそうにきょろきょろと辺りを窺う様子を微笑ましく思って水を差し出したりすると、彼女は顔を背けつつも嬉しそうに口に運ぶ。

 森に入ると暑さは少し和らいだ気がした。

 懐中時計で時間を確認すると、街を出てから鐘1つ半ほどだった。馬に乗ってはいたけれど、速度は歩くのと変わらないくらいだったので、最悪馬を失くしても歩いて帰れるだろう。


 木漏れ日の漏れる爽やかな森の中をしばらく道なりに進んで行く。道端に咲く名も知らぬ花を目で追ったり、突然聞こえてきた甲高い鳥の声に驚いて体を硬くしたり、侍女はそわそわと落ち着きがない。

 ルーメンひとりであれば、恐らくそれらに目もくれずに奥へと進んだことだろう。どちらがいいとも言えなくて、彼は小さく笑いを漏らした。

 それにピクリと反応して侍女は俯く。


「ああ、すみません。貴女を笑ったのではないのです」


 その先のY字になった分かれ道でルーメンは1度馬から下りた。侍女に風壁の魔道具を手渡す。


「少し先を見てきます。大丈夫だと思いますが、何かあったら作動させて下さい」


 彼女が頷くのを確認してからルーメンは両方の道を

 ぼんやりと左の道が光って見える。『青い月へ至る道筋』。それは確かに彼が見たいものだった。

 そんなものまで視えることに、自分のことながら彼は驚嘆する。軽く指先が震えているようにも思えて、彼は両手を握り締めた。

 左に行く道は緩い下りになっているようだった。少し行くと左にカーブしていて先は分からない。あえて、右の道を行く事に決めて歩き出す。少し行って戻ってくるつもりだった。


 まだ道はあるが森が深くなってきているのか、先程よりも木々が増え、薄暗い。残してきた馬と侍女が木々に遮られて見えなくなる辺りまで来ると、ルーメンはざっと辺りを見渡して踵を返そうとした。

 道は徐々に細くなり草に覆われていく。この先をいくのは危険だろう。

 首を巡らせて、左手側が薄ぼんやりと明るいような気がして目を止めた。気のせいかと思うくらいだったが、何気なく左眼だけで見てみてそれが気のせいではないと確信した。左眼で見えるのは先に行くほど暗くなる森だけ。試しに右眼だけで見てみると木々の奥がほんのり光っていた。


 先程見た時、確かに左の道が光って見えた。今も同じ条件で見たいものが見えるのだとしたら、これはどういうことだろう? 複数のルートがあるということだろうか。

 確かに目の前に道は無い。けれど歩けないほど草が茂っている訳でもなかった。ルーメンはそっとナイフを手にして木々の中へと身を滑り込ませていった。



 ◇ ◆ ◇



 彼女をあまり待たせる訳にもいかないと急ぎ足で進む。目の前に現れる木々を右に左に避けて少しずつ方向がずれていくが、ぼんやりとした光は広範囲に渡っているのであまり支障がなかった。そのうち右眼だけではなく、左眼で見ている景色も木々の向こうが明るくなってくる。

 ルーメンは足を止めぬまま少しだけ首を傾げた。


 その時だった。短い女性の悲鳴がルーメンの耳を打ち、彼女を置いてきた方角から何かがやってくる気配を感じる。

 咄嗟に足を速めて、その進行方向に回り込もうとした。

 真直ぐ走れないことに舌打ちをして、もしやと明るい方向に進路を変える。

 すぐに目の前から木々が消え、ぽっかりと開けた空間に出た。何を確かめることもせず全力で駆けた。

 向こうが木々の間を来るなら、間に合うのではないかと――


 木の枝を折り進むような音が近付いてきたかと思うと、目の前に馬が飛び出して来た。反射的に身を捩って躱すと馬の方も驚いて急角度で右に進路を変える。お互いの位置を入れ替えるように半円を描き、辛うじて掴まっていた侍女が耐えられずに投げ出された。

 甲高い悲鳴を追いかけ、腕を伸ばすがあと少し届かない。迷っている暇など無かった。

 力いっぱい地面を蹴りつけ、彼女に飛びつく。

 ようやく手の届いた体を抱き寄せ、自分の身体が彼女の下になるよう体を捻った時に、ルーメンはいやに地面が遠いことに気が付いた。


 ぽっかりと開けた空間は、楕円形にそこだけ大きな穴が開いたように落ち込んでいた。高さは成人男性3人分、といったところだろうか。打ち所が悪くなければ死ぬような高さではないが、今の体勢で2人で落ちるのは拙い気がする。

 咄嗟に指を動かす。くるりと巻いて、下から上へ。加減など、考えなかった。

 どっと、空気の塊が彼の背中を打った。息が詰まる。

 は、と息を吐き出せる頃には一旦ルーメンの身体はその場に留まっており、次の瞬間には落下を再開する。2度目の衝撃を背中に感じてほんの少し弾んだ後、慣性に任せて彼はその頭を打ち付けた。

 幸い硬い地面ではないようで、痛さはそれ程感じない。けれど、揺らされた脳は危険を察知したのか、彼の意識はそこでぷつりと途切れた。




 声を殺して啜り泣く声と、ひやりとした感触を感じられるようになって、ルーメンは目を開けた。

 額の上には濡れた布のようなものが乗っていて、風が吹くとそれがひやりとするのだった。

 ルーメンが侍女の濡れた頬に手を伸ばすと、彼女は慌てて自分で涙を拭う。


「……すみません。怖い思いをさせました」


 ふるると首を振った彼女は小さく掠れた声で「蜂、が……」と言ったきりまた涙を零す。

 酷く後悔しているのが視えて、ルーメンはゆっくり身を起こすとそっと彼女を抱き締めた。

 蜂に驚いた弾みでうっかり馬の横腹を蹴りでもしたのかもしれない。


「お怪我はありませんか?」


 ルーメンの腕の中で侍女は首を振る。


「それは不幸中の幸いです。ですが……」


 ざっと見渡しても、周囲はほぼ垂直に切り立った崖でとても登れそうにない。馬の姿も見えないし、何より空は茜色で東の方は夜の色が近付いていた。

 帰り道は分かると思うが、いくらもしないうちに暗くなるだろう。彼女を連れて夜の森は歩けない。

 打った頭も痛みこそしないものの、まだ少しぼぅっとするようだった。


「渡した魔道具はまだ持っていますか?」


 彼女は頷いて、手のひらに握り込めるほどの楕円形の魔道具を取り出した。真ん中に緑色の石がついている。


「良かった。少しは安心ですね。今から戻るより一晩明かして明るくなってから戻りましょう。フェエルには連絡出来ますので、森の入口まで迎えに来てくれるはずです。大丈夫ですよ。朝までお守りしますので」


 不安気にして魔道具を握り締めていた彼女は、はっとして慌てて首を振った。

 普段総主教の身の回りの世話をしているとはいえ、位階はルーメンの方が遥かに高く『加護持ち』だ。命を賭して守らなければいけないのは自分の方だと思ったのだろう。


「私の勝手に付き合わせてしまいましたからね。それに、気を失っている間に特に何も無かったのなら、そう危険でもありませんよ」


 足下は土ではなく白っぽい砂に覆われていた。砂漠の砂と同じものだろう。木や植物もほとんど無く、散乱している枝や葉は上の森から落ちてきたものらしい。

 楕円形の半分ほどのスペースを小さな湖が埋めていて、水に困ることだけはなさそうだった。

 楕円の穴の長い方の直径も50歩もあれば端まで歩けそうだが、水辺の割に何かが住み着いてる様子はなかった。

 水自体に問題は無いようなので、食糧の方の問題なのかもしれない。


 周囲を視ていたルーメンは湖とは反対側の崖に、人1人が通れるくらいの亀裂を見つけた。

 どうやらそこを通れば戻れるのだと瞳は告げる。

 侍女を伴い軽く調べてみたが、奥は深い洞窟になっているようで、すぐに通り抜けられる作りではなかった。

 その分入口付近ならば雨風も凌げるし、妙な生き物もいない。彼等はそこに身を落ち着けることにした。

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