14.甘言

 フェエルが戻ってきたので、ルーメンは彼について回る生活も再開した。以前の半分以下のペースだったが、ある朝の礼拝を終えた後、総主教はルーメンの袖を掴んだまま離さなかった。


「猊下」

「……ルーメンは少し頑張りすぎではないですか。貴方はそこにいるだけでもいいというのに」

「そういうわけにはまいりません。私は猊下が恙無く主に祈りを捧げられるよう、フェエルと共に動いているのです。毎日安心して暮らせるのは猊下の祈りのお陰なのですから」

「では夜は何をしているの?」


 ルーメンは彼女の手を取ってそっと包み込んだ。


「星を見ています。まだ未熟ですが、もう少ししたら猊下のお役に立てると思いますので」

「……星?」

「はい。ですから……」

「ルーメン。貴方はまだ神に近付くつもりなの?」

「……え?」


 ほろりと、総主教の頬を涙が零れ落ちた。


「私は只人に戻るというのに……」

「猊下! 私は、決して……!」

「『神の愛し子』。解っているわ。私の役目はもう終わるのです」

「いいえ。いいえ! 猊下を支えるのが私達の役目。猊下が猊下で在られることが大切なのです。私からその役目を取り上げない下さい!」


 総主教は濡れた瞳でじっとルーメンを見つめてから、そっと目を閉じた。


「ルーメン……優しい子」

「猊下」

「ごめんなさい。もう大丈夫。引き止めて悪かったわ」


 自ら手を引き、弱々しく微笑むと、彼女は侍女たちの待つ部屋の奥へと歩いて行った。




 寝支度をしている総主教の耳にノックの音が響いた。すぐに侍女の一人が対応に立つ。この時間に来るのは緊急の連絡か、彼女の侍女を務める女性達へ取り次ぎをしに来る者だった。


「少し、いいですか」


 鏡に向かって髪を解いてもらっていた彼女は、覗き込むように映りこんだ男性に少しだけ目を見開いた。


「フェエル。珍しいのね」

「連絡係は星見に忙しいようですので、仕方なく足を運んだ次第です」


 軽く肩を竦めてみせて、彼は手の中の魔道具を小さく揺らした。

 手振りだけで、総主教が侍女たちを下がらせる。部屋から出て行くことはないが、魔道具の有効範囲の外まで。彼女達も心得たものだった。

 手のひらにすっぽりと収まるくらいの、シンプルな筒型のそれについている緑色の石を、フェエルは彼女の座っている椅子の背に軽く打ち付ける。

 カツンと音がして2人の周りを風が巻いた。

 フェエルは鏡に背を向けるようにしてその台に浅く腰掛け、総主教と向き合った。


「朝からルーメンに甘えたようだな」


 口調を砕けさせ、フェエルは苦笑した。


「星見をしろだなんて、貴方が焚きつけたのですか? 講義の時間も増やして、これ以上彼に負担をかけるのは……」

「あれは彼が自主的に始めたものだ。強制している訳でもないし、本人も楽しんでる。講義は……俺も予想外だ。だが、教典の内容を話すだけならば、あいつに負担はそれほどないぞ。事実、毎回教典を開きもしないんだ。様子を見に行ったから間違いない。人付き合いはダメかもしれんが、教典のことなら彼の右に出る者はいないだろうな」

「楽しんで? 予見の代わりにしようというのでしょう?」

「楽しんでるさ。星見も講義も。最近、あいつの帰りが遅いのはそれらに絡めて人に会ってるからだ」


 総主教の眉が微妙に顰められた。


「気になるか?」


 にやりと笑うフェエルから彼女はふいと視線を逸らした。


「……ルーメンはもう子供ではありませんもの」

「そうだ。そろそろ手を離してやらんと」

「縛り付けているつもりはありません。特定の女性が出来たというのなら、彼の成長をお祝いしてあげねばなりませんね」


 フェエルは喉の奥で笑った。それを総主教が軽く睨みつける。


「ルーメンの逢引きの相手は、元騎士の男だ。調べたが真面目にやってるオルガンの弾き手でな。星見の時もボディーガード代わりについて行くような奇特な人間だ。あいつには貴重だろうから邪魔しないでやってくれ。降臨祭が終われば、彼もここから出てどこかの教会に着任することになる。それまでの間だ」


 ま、と総主教の口がまあるく開いた。


「フェエル! からかうのはやめて! 邪魔などしませんし、夜が遅いのもそういう理由があるのなら、初めからそう言えばいいではないですか!」

「あいつは別に友と遊んでいるという感覚ではないのだろう。教え子に付き合ってもらってる、くらいだろうか。情緒はいつまでたっても育たんな」


 総主教は小さく息を吐いて軽く目を伏せた。


「私達が悪いのですかね。そういう人間を作り上げようとして出来てしまったら、酷く歪なような気がしてしまう」

「彼は猊下には忠誠を尽くしていると思いますが。もっと愛情を向けられたいのですか?」


 薄く笑いながらフェエルの口から出た言葉は、酷く冷たく響いた。


「何を言いたいの?」

「猊下は、総主教の座を退き只人になるのが嫌なのですか? それとも、ルーメンと居られなくなることの方を憂いているのですか?」


 ぴん、と2人の間の空気が張り詰める。


「猊下が総主教の座を空けるのなら、ルーメンがそれを引き継ぐでしょう。いえ。私が引き継がせます。加護の力が無くなった貴女は引退して静かに暮らすことになるでしょうね。彼に近付けもせず」


 膝の上で握られた総主教の拳は小さく震えていた。総主教が起きてから眠るまで、ひとりになることなど無い。それは彼女が一番よく知っていた。

 フェエルは魔道具が発動しているにもかかわらず、彼女の耳元に口を寄せ、囁きかける。


「けれど只人に戻るということは、子も持てるのでしょうね。愛する人の、本物の、貴女の子を」


 振り返り、フェエルと目を合わせる総主教の顔は色を失くしていた。


「考えたこともありませんか? ありますよね? 自分が一神官だったら、と」


 微笑むフェエルの声が甘い毒のように染みていく。


「大丈夫。思うことは罪ではない。罪ではないのですよ。猊下」

「……フェエル」


 震える声と揺れる瞳に笑いかけ、フェエルは彼女の頬を優しく撫でた。


「私は貴女が総主教であるうちは、いかなることからも――たとえ、罪を犯したとしても、貴女をお守りします。ですから、加護の力が薄れたことなどお気になさらずに。神はそのためにルーメンを遣わせたのかもしれませんよ」


 彼女は胸元に震える手を置いた。心臓の真上にある、紋の上に。



 ◇ ◆ ◇



 ルーメンが戻ってきたのはいつもより少し早い時刻だった。総主教が掴んでいた袖をなんとなく撫でて、そっと息を吐く。

 足を進めていくと途中で見たことのあるような男とすれ違った。

 こんな時間に? と訝しんだが、彼はルーメンには目もくれず足早に去っていく。少し記憶をさらって、総主教の侍女のひとりと懇意にしている男だと気が付いた。彼女に会いに来ていたのかもしれない。


 ルーメンはその男が侍女よりも総主教に惹かれているのを知っていた。視ようとせずとも漏れ出す想い。どのみち、叶わぬと知っているから侍女とやっていけているのだろうが。複雑な人間関係はルーメンには理解しかねた。

 総主教の部屋の前を通り過ぎようとした時、そのドアが開いた。出てきたフェエルと視線がぶつかる。


「……今日は早いのか?」

「さすがに、気になりまして」


 フェエルが小さく笑った。


「では、余計な世話だったかな。もう休んでいただいたから、大丈夫だ」

「珍しいですね」

「お前が来る前は結構あったからな。ちょっと懐かしい気分になった。……たまに、飲むか?」


 手でコップを傾ける仕種をして、フェエルがにやりと笑う。


「では、一杯だけ。荷物だけ置いてきますね」


 足早に部屋に向かうルーメンの背中を、フェエルは黙って見つめていた。

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