11.再会
視察から戻ると総主教は気分が悪いと伏せっていた。ルーメンが様子を見にいくと、青い顔で「大丈夫」と力無く笑う。
彼女の耳に直接届かなくとも、教団内の微妙な空気は感じるらしい。あるいは、被害妄想もあるのかもしれないが。
彼女の心がすり切れ始めているのは、ルーメンでなくとも見えていた。
帝国内の視察を終え、フェエルは砂漠の小国の下見にルーメンを連れて行くのを諦めた。
彼女はルーメンがいればまだ
良くない兆候だとは解っていても、自分達のいない間にあちらにつけ込まれても困る。数日間が命取りになることもあるのだ。
交代を狙う中心人物は恐らくウィオレだろう。この春大主教に昇位した実力の持ち主だが、そのやり方には少々強引なところもある。
信仰心よりは権力の方が好きなようで、今の総主教とは方向性が違う。彼を引き入れても波風が立つばかりだと距離を取ってきたのだが、それが徒となっているのかもしれない。飼い殺しておいた方がよかっただろうかと、フェエルは嘆息した。
ルーメンに留守を頼むと渋い顔のままフェエルは出発する。
ルーメンは欲という欲がない。だが、欲がどういうものかは知っていて、警戒している。飲み込みは早く、教えたことは応用させる柔軟性もあって、必要だと思えば躊躇わず適切な処置が出来る。そして、総主教に育てられた彼は彼女を裏切らない。
ウィオレが唆しても微動だにしないだろう。フェエルにとって、それだけが救いだった。
彼女が壊れていくなら――
本気でルーメンを担ぎ上げなければならない。彼女と違って、それは骨の折れる仕事に違いない。
表情を消して、フェエルは車窓の流れゆく景色に視線を移した。
◇ ◆ ◇
昼の礼拝を何事もなく終えて、ルーメンが一度自室に戻ると図書館から借りていた本が目についた。
魔法の歴史や形態について研究された物が多かったが、中に砂漠の国の共通語の本が混じっていた。一通りは目を通したので1度返しておいた方がいいかもしれない。ルーメンは総主教の侍女に行先を告げて部屋を後にした。
「え。無いの?」
「無いわけではないのですが、貸し出し中のようですので戻りましたら取り置きしますよ」
「うー。早く戻ってくればいいけど……」
カウンターで薄茶の髪をした若者が職員との問答の後、項垂れて「言語」の棚の方へ消えていく。一般の利用者は館内で閲覧するのみという決まりなので、誰かが借りてしまっているとなかなか目当ての物を読むことが出来ないのだ。
ルーメンはそのどちらかというと地味な後ろ姿に親近感を覚えて、何故だろうと首を傾げた。
「ルーメン大主教。返却ですか?」
「あ。はい。ありがとうございました。……先程の方の探していたものではありませんか?」
職員は本のタイトルをチェックしてぱっと顔を輝かせた。
「そうです! ちょうどよかった!」
「それはよかった。見ない顔ですが、外からの?」
「ええ。最近ちょくちょく来るようになったんですよ。勉強熱心で……ここならお金もかからないからって。確かグラート主教の紹介でしたよ」
「そうでしたか。砂漠の国の言語は少し特殊ですからね。奥の一般閲覧禁止の分も見せてあげてください。私の名でなんとかなるでしょう?」
そっと人差し指を口に当て、驚く職員に微笑んでみせる。彼女は顔を赤くして少し迷ってから、こっくりと頷いた。
グラート主教はもうだいぶ年のいった老主教だ。コツコツと真面目にやって来た彼の紹介なら、悪い人間ではないだろう。気紛れだったが、どうしてそんな気分になったのか、ルーメンは外に出てから気が付いた。
少し背丈は小さいが、フェエルの後ろ姿に似ていたのだ。ルーメンはなんとなく図書館の入口を振り向いた。
「ルーメン?」
道の真ん中で立ち止まっていたルーメンはそう呼ばれて少し驚いた。自分を呼び捨てにする者は限られている。うちのひとりは今朝砂漠の国へと旅立って行ったばかりだ。
誰が、と眉を顰めながら声の主を振り返って、もう1度彼は驚いた。
「プレセンテさん?!」
数年前と変わらず気さくな様子で「久しぶり」と近寄ってくる彼は、もう鎧を身につけてはいなかった。
黒い簡素な神官服は、その巨体にまったく似合っていない。
「驚いたか?」
「驚きました。なんの冗談です?」
「酷いな……こっちは礼拝の時たまに遠くから見ていたんだが……変わらないな。髪が伸びたくらいだ。ますます美人になってるんじゃないか?」
「切るなと煩く言う者がおりまして」
「恋人か? ……って言いたいが、違うんだろうな」
ふふ、と笑うとルーメンは彼を一般にも開放している食事処へと誘った。黒い巨体と銀髪の青年では少し目立ち過ぎる。
お茶を一杯頼んで腰を落ち着けたものの、周囲の好奇の目は減るものでもなかった。フォルティスはそわそわと落ち着かないようである。
「よく考えたら、一神官の俺がおいそれと声を掛けちゃまずかった……か? だが、逃したらもう機会も無いかと……」
「拙いことはありませんが……そうかもしれませんね。私もひとりで行動することはあまりありませんので。いったいいつ、騎士を辞められたのです?」
「あの次の年には転身した。オルガンがひけるから、何とかうまくやってる。あの時ルー……総主教付きがどのくらいの身分なのか判らなかったが、ここにきて嫌と言うほど知らされたぞ」
「お好きに呼んでください。皆が言うほど偉いわけではありませんから。ただ……私に良い印象を持たない者も多いので、あまり親しげにするとプレセンテさんにご迷惑がかかるかもしれません」
フォルティスは眉を顰めた。
「この程度で、誰が……」
「少しごたついてまして。こうしていることも誰かに責められましたら、私が誘ったのだと言って下さいね」
微笑みを湛えつつそんなことを言うルーメンに、フォルティスはしばし黙り込んだ。数年ですっかり大人びたようにも見えるが、ただ隠すのが上手くなっただけかもしれない。
「……もう、軽々とあんなことは口にしてないのだろうな。今考えても、総主教付きなんて人間が言うことじゃなかった」
「あんなこと?」
1段低くなった声にルーメンは軽く首を傾げた。
「……ああ。言っておきますが、誘いの言葉を口にしたのはあの時だけですよ? そのくらい貴方が酷い状態だったからです。ですが、貴方が嫌なら嫌と言っていいと仰って下さったので、いくつかの誘いは「下手くその相手はしたくない」と断ることを覚えました」
フォルティスは咽せこんだ。
「おま……いや、さすがにそのまんまは言ってないよな?」
「……そっくり、そのままお伝えしていますが」
両手で頭を抱え込むフォルティスを、ルーメンは不思議そうに見ていた。丁度そこにお茶が運ばれてきて、フォルティスが早速手を伸ばす。
カップを持ち上げたその手に、立ち上がったルーメンがそっと手を添えた。微笑んでいる彼に、柄にもなくどぎまぎしてしまってフォルティスの動きが止まる。
「ル、ルーメン?」
ルーメンは添えた手でフォルティスのカップをゆっくりと傾けさせた。テーブルの上に赤茶の液体が零れていく。
「ルーメン?!」
フォルティスの手を包み込むようにしてカップを取り上げると、ルーメンは液溜まりの中にカップを置いて「出ましょう」と歩き出した。
始終微笑んだままで行われた行為は、周りにはルーメンがフォルティスを誘っているように見えたかもしれない。
給仕係に謝罪を述べつつ、フォルティスはルーメンの後を追った。
食事処を出て公園の方へ向かうルーメンに早足で追いつく。
「ルーメン! どういうつもり……」
「毒入りでしたので」
さらりとした答えに、フォルティスは一瞬意味が理解できなかった。
「すみません。やはり、あまり近付かない方がいいですね」
「毒……って……なんでわかる」
「視えますので。悪意も、注がれるのですよ」
「視え……じゃ、じゃあ、あの場できちんと!」
「あの場で騒ぎ立てたとして、断罪されるのはあの給仕係でしょうかね。大元を断たねばどうせ繰り返されるのです。幸いにして私には『視える』。騒ぐほどのことはありません」
呆然と、フォルティスはルーメンの横顔を見つめた。彼が視線を寄越すと背筋にぞわりとしたものが走る。彼の瞳は光っていない。加護の力を発揮している訳ではないのだ。
「その瞳は、光っている時だけ力を発揮するのかと」
フォルティスの少し上ずった声にも特に気を悪くした様子もなく、ルーメンは淡々と答える。
「きちんと『視た』時ほどではないですが、大きな感情は常に視えていますよ。もちろん、隠すのがお上手な方もおりますし、全部が視えている訳ではないのですが」
湖の畔まで行くと、ルーメンは足を止めてフォルティスに向き合った。
「あまり、関わり合いになりたくないでしょう? 私の頬をひとつ張って、お戻り下さい」
「……なぜ殴らねばならん。瞳の話も、皆知っていることなのか?」
「知らないでしょう。薄々気づいている者はいるかもしれませんが……気分のいい話ではないでしょうからね。尋ねられたこともありませんので」
「言うな。尋ねられても、言わない方がいい」
「お気遣い、ありがとうございます。さあ、景気よく一発」
にこりと微笑むルーメンを殴れるはずもない。
「大丈夫ですよ? 痛みはあまり感じませんので」
「そういう問題じゃない! 理由がないと言っている! あれが毒入りだったというのなら、俺は助けられた訳だろう? なんでお前を殴るという話になるんだ!」
「今後の安全のためですよ? 貴方は私に誘われて、気持ち悪いと手酷く振るのです。以前も断っているのですから、難しいことではないでしょう? 一神官の身でテル・ルーメンに媚びない男なら、あちらも利用しようと思いこそすれ、もう命を狙うようなことは無いでしょう。今も、どこかで誰かが見ているはずですから」
重い溜息を吐きながら、フォルティスはゆるゆると首を振った。
「ルーメン、それではお前が」
「今更です」
フォルティスは胸の奥にむかむかと怒りの感情が湧くのを感じた。ルーメンにではない。彼をこんな風になるまで放っておいた周囲にだ。
「こんなことが、慣れるほどあるというのか」
「以前は、それほど。もっとたわいもないものでしたよ。今は、ごたついていると申しましたでしょう? 猊下についている時はそもそも誰も手を出しませんし、最近は外に出ることも多いので、こんなあからさまなのは久しぶりです」
1度あるだけで充分おかしなことだと思うのだが、彼がそれらをするすると避けてしまうから、またエスカレートするのじゃないだろうか。頭の深い部分が痛むような気がして、フォルティスは少しの間目を閉じた。
「今日は戻る。だが、お前を殴りもしないし、次に会ってもまた声を掛ける。不敬だと言われてもやるからな」
くるりと踵を返して大股に去っていくフォルティスの大きな背中を、ルーメンは少し不安気に見送った。
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