12.講義

 夜の礼拝が終わった後の数時間、神学校の講堂で行われる講義にフォルティスは出席していた。次の降臨祭が終わったら、オルガンのある教会に身を寄せることになっている。主教の位階を賜ることになっているが、正直荷が重かった。

 フォルティスが弾けたのは通常のオルガンだったのだが、奏者が少ないからとパイプオルガンも弾かされる。3段や4段になった鍵盤に音色を変えるレバーと違いは多い。四苦八苦しながらなんとかやっているが、お陰で教義の方がおざなりになりつつある。

 通常1年ほどで講義を終えるのだが、フォルティスは2年目だった。どの講義に何度出るのも自由だというのは彼にとっても都合が良かった。


 教団は裕福で、申請すれば紙も筆記具も支給してくれる。フォルティスがそれらを真面目に準備していると、講壇に置かれた教典を笑いながら最後部の席に隠すという子供じみた嫌がらせを目撃してしまった。

 今日の講義は総主教ではなく、初めて来る若い講師だと噂されていたので、その度量を試そうとでもいうのだろうか。

 神学校に通う者は成人前の若者も多い。呆れつつもフォルティスは様子を見守ることにした。




 時間が来てその人物が講堂に入ってきた時、誰もそれが講師だとは思わなかった。

 思わなかった、けれど、彼が講壇に近付くたびにざわめきは薄れ、視線は彼に注がれた。

 歩くたびに揺れる青みがかった長い銀髪に、すらりとした長身の青年を、空気までが緊張して迎えている。


「今回から総主教代理で講義させていただくことになりました。総主教猊下の講義をお待ち下さった皆様には申し訳ありませんが、ご了承ください」


 軽く頭を下げたルーメンは階段状に並んでいる面々を見渡して、少し首を傾げた。

 講義を心待ちにしているという感じの沈黙ではなかったから。


「……では、本日は歴史の項からロクァースの語りを」


 そのまま総主教のしっとりとした御声とはまた違う、耳触りのいいテノールの声でルーメンは朗読し始めた。講壇には教典は置いていないし、彼も何も持っていない。

 一節区切ったところで、彼は不思議そうに席を見渡した。


「皆さんも暗記なさっているのですか? どうぞ、お開き下さい。182頁です」


 はっとして、全員が教典に手を伸ばす。ようやく時間が動き出した感じがした。

 講義は滞りなく進み、間に挟まれた質問にもルーメンは淀みなく答えた。

 教典を隠したいたずら者のうちひとりも手を上げる。


「どうぞ」

「プロディティオの裏切りを、神はなぜお許しになったのですか」


 それは、今回の講義とは少し違う箇所の話だった。全く無関係でもないところに、彼の困らせてやろうという気持ちが透けて見える。講義箇所を暗記してきただけならば、こういう質問には答えにくい。

 フォルティスは教典のありかをルーメンに告げようか、自分の教典を差し出そうか少しだけ迷い、結局どちらもしなかった。というか、できなかった。

 間髪入れずにルーメンが答えたからである。


「彼はハエレシス伝にも出てくるように、元々異教徒でした。お持ちでしたら第4集の93頁を参照してみて下さい。ですので、異教から真の意味で救い出せなかったことを主は悔やみ、哀しんだのです。その意を酌むと140頁からの流れもよく理解できると思います」


 質問をした若者も、講義を聞いていた他の者も二の句が告げなかった。


「面白いところに目を付けますね。希望があれば、深く掘り下げるのもいいかもしれませんね」


 にっこりと笑うルーメンを見て、フォルティスは若者の意図がまったく通じていないことに苦笑した。

 次の週の講義予定を告げて少し早く終わった講義に、若い神官たちはようやく緊張の糸を解いていた。

 フォルティスは机の上を手早く片付けると、入ってきた時も、講義中も一度も目を合わせなかった講師の後を追う。


「ルーメン大主教」


 人の目が多くてさすがに呼び捨てには出来なかったが、それが良かったのか彼は素直に足を止めた。


「教典がなくとも大丈夫なのですか?」


 きょとんとした顔に、講壇に教典が用意してあるものだとは思っていないことが解った。


「……そういうものなのですか。気付きませんでした」

「大主教はどちらで学んだのです?」

「私は教典をおもちゃ代わりに育ったようなものですので。『視て』学んだので講義などよく分からないのですよ。一生徒として大丈夫でしたか?」


 フォルティスは深く頷いた。お世辞などではない。とても分かりやすかった。


「それで……その、忙しいとは思うんだが……少し個人的に教えてもらえればと……」


 フォルティスは自分の現状を掻い摘んで説明した。

 彼が声を掛けたときは他人行儀だったルーメンもそれを聞いて少し笑う。


「いいですよ。講義が終わった後は少し時間が出来そうですし、そうですね。面倒臭い誘いを断る口実も出来ますね。講義の無い日は確約はできかねますが、私が来られる日で大丈夫ですか?」

「俺は大主教のように忙しくないので問題ない……です。貴方の登録証なら俺の部屋にも入れるのでしょう? いなければ帰ってもらって構いませんから」


 個人で持つ登録証は、セキュリティの厳しい教団内施設を使うのに必須のものだ。一神官と、主教、大主教、総主教では入り込める施設にも違いがある。総主教付きともなればほとんどのセキュリティに引っかかることはないし、保護されるべき個人の家とも言える各個室に入る権限も持っていた。


「いいのですか?」

「盗られて困るものも、見られて困るものもない。あんたがそんなことをするとも思えない。問題無いだろう?」

「では、さっそく本日の分を講義しに参りましょうか。案内して下さい」


 フォルティスの慣れない敬語が剥がれてきたからか、ルーメンは小さく笑いながら歩き出した。



 ◇ ◆ ◇



 フォルティスの部屋に着くとルーメンは物珍しそうに狭い室内をぐるりと見渡す。荷物や洗濯物が放り投げられている男くさい部屋だった。


「あんまり見るな。この年になって親にチェックされてる気分になる」

「ふふ。失礼しました。一般の個室などあまり入る機会がないもので」


 適当に散らかっていたものをひとところに固めて、丸太のような椅子を机の横に移動させると、フォルティスはそこにルーメンを呼んだ。自分は手早く教典と筆記用具を準備する。


「……本当に勉強するのですね」

「なんだと思ったんだ?」


 ぎょっとしてルーメンを見ると、くすくすと笑っている。


「いえ。新手のお誘いなのかと」

「なんでそうなる。余程俺に抱かれたいのか? お前が俺にすがって、抱いてくれと懇願するなら抱いてやってもいいぞ。男など抱いたことはないが、何とかなるだろう」


 投げやりに言った言葉を、ルーメンはまた可笑しそうに喉の奥で笑った。


「すみません。そういう誘いしかかけられたことがないものですから。ちょっと信じられなくて。すがりも懇願もしようと思いませんので、安心して下さい」


 どの辺りが理解しにくいですかと、彼の指が教典を繰る。何々記とか誰々の書とかフォルティスが言うと該当ページが瞬きの間に開かれる。時には別の教典を同時に開いて参照するといいですよとメモ書きを挟まれた。


「ルーメンは教師が合ってる気がするな」


 感心して言ったのだが、ルーメンは少し困ったような顔をした。


「そうでしょうか……解釈の違いでぶつかることも多いですよ?」

「それは教える者同士でのことだろう? 俺のような素人には解りやすい。矛盾点にもちゃんと答えてくれる」


 それなのに、何故。

 フォルティスはルーメンの悪評も嫌というほど耳にしていた。


「どうにしても、『普通』の枠にはもう入れないようですので」


 『神眼』を持ちながら一教師、一神官に留まることなど土台無理な話だ。それはフォルティスにも理解できる。

 もしも『神眼』がなければ……

 心の中でフォルティスは首を振った。そのもしもは意味がない。それがなければルーメンはルーメンではなかったのだから。


「今日はこの辺にしましょう」


 どこからか懐中時計を出して、ルーメンが言った。最後の鐘はとっくに鳴り終わっている。

 ぱたりと閉じられる教典に、フォルティスは自分の胸の奥の重い物も重ねて閉じた。


「高級品じゃないか。金持ちは違うな」


 彼が努めて明るい声を出すと、ルーメンはふふと笑った。


「成人祝いに総主教猊下と総主教補佐のお2人からいただいたのです。鐘の鳴らない時間も働けと」

「はたら……いや、違うだろう?」

「どうなのでしょうね? 恩を働いて返せと言われても納得しますけれど」

「そこは捻くれずに祝ってくれたと取るべきだろう」

「そう、思いますか?」

「ああ」

「では、そう思っておくことにします」


 珍しく、少し照れたように目を伏せたルーメンの顔に見惚れていることに気付いて、フォルティスは小さく頭を振った。

 本当に、見目だけは天使のようだ。神は罪なものをお造りになる。彼を誘うという女の気持ちも男の気持ちも解るような気がして、彼はルーメンの運命に心を痛めるのだった。




********************

最後の鐘・・・21時くらい

以降朝まで鐘は鳴りません。ちなみに1日は25時間です。

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