21.涜神

 通信具でフェエルに一通りを連絡していると、侍女がふるりと身体を震わせる。それでようやくルーメンは気温が下がってきているということに気が付いた。最近は痛みだけでなく暑さ寒さも感じにくい。砂漠地帯は寒暖の差が激しいということを失念していた。

 ここは森の中で洞窟内ということもあり、そこまで気温は下がらないと思うのだが、火は熾しておいた方がいいだろう。

 彼は腰に下げた小物入れの中身を思い出す。通信具と傷薬、焔石は持ち歩いていたか自信がない。ひとりならば魔法でどうにかなるからだ。

 確認してみると小さなものが1つ見つかった。着火には充分だろう。

 ルーメンが立ち上がると侍女はびくりとして彼の上着の裾を掴んだ。


「薪になりそうな枝を拾ってきます。待っていても……」


 ぎゅっと布地を握り締められる感覚と、彼女に視える恐怖に暗闇が怖いものだと思い出す。ルーメンの瞳は暗くとも歩くのに支障はない程度に物の輪郭が分かる。だから常人が感じる暗闇というものを解っていないのかもしれない。この場も彼が思うより暗く、それは刻一刻と闇を深めていた。


「いえ。一緒に、行きましょうか」


 薪を拾い集めている間にも空には星が増え、手元が覚束なくなってくる。月は昇りはじめているはずだが、森の木々に遮られているのかまだその姿は見えなかった。

 洞窟の入り口まで戻ると、先程より深い闇に彼女の足が止まる。すぐに火を点けますよと手を引いてやれば、恐怖ではない迷いが彼女を覆っていた。

 何の迷いかと考えているうちに暗闇に踏み込んだ彼女が躓いた。ルーメンは咄嗟に受け止めて――受け止めようとして、手にしていた枝を全部落としてしまう。バラバラいう音は持っていた量より多い気がした。


「大丈夫ですか?」


 こくりと頷きながら背中に回された手に、彼女も持っていた物を落としたのだと知る。

 ぎゅうと彼を抱き締める腕と早くなる鼓動。彼女は何かの覚悟を決めていた。

 手探りでルーメンの顔を探り当て、震える唇を押し当てる。ぎこちない口づけが、彼女がそんなことをしたことがないのだと告げていた。


「……確かに、肌を重ねると温かいですし怖い気持ちも薄らぐでしょうが、こんな場所で無理をなさらなくともいいのですよ? ご希望でしたら、ただこうしていますので。火を熾してしまえばもっと暖かく……」


 彼女を1度引き離して落とした薪をまた集めようとしゃがみこんだルーメンの手を遮って、彼女は押し倒すように自身を圧し掛からせた。

 ふるると首を振る彼女は顔を見られたくないようだった。

 闇の中ならば、誰も見ていないのならば。そう、視える。

 罪悪感と恐怖と、欲しいものの狭間で彼女は揺れ、拒否されることを怖がった。

 請われたのならば、受け入れるだけ。


「初めに言っておきます。貴女を受け止めることはできても、お返しする気持ちというモノを私は持ち合わせておりません。それで、いいのなら」


 ゆっくりと頷く彼女をルーメンは優しく抱き寄せ、風壁の魔道具を作動させた。



 ◇ ◆ ◇



 うとうとと微睡んでいたらしいルーメンは、腕の中で寝息を立てている女性が小さく身じろぎしたことで目を覚ました。

 彼女を起こさぬようにそっと横たえ、火を熾さねばと思い出す。

 点々と散らばる枝々が影を落とすほどはっきりと見えて、彼は洞窟の入り口を振り返った。

 月が昇ったのか、そこから差し込む柔らかな光は充分な明るさを持っていた。薄青い月光。

 彼の心臓がひとつ音を立てた。


 逸る心を押さえつけ、先に薪を集めて火を熾してしまう。炎の灯りで彼女の様子も良く見えるようになると、彼女の服の裾が破れていることに気が付いた。ルーメンの額を冷やすのに使った痕だろう。

 まだ寒いかと自分のローブも彼女にかけてやろうとして、ルーメンは彼女の首元に革紐と青いビーズを見て取った。嫌な予感に、彼は彼女が情事の間も1度として外そうとしなかったフードとショールに手を伸ばす。見目など気にしないのにと思っていたが、他人に関心を寄せない自分の性格を今ほど恨んだことはなかった。


 布の奥からは淡い、プラチナブロンドが出てきた。乱れてはいるが、後ろで編んでひとつに纏め、なるべく外に出ないようにと工夫した跡が見える。

 首飾りを引っ張り出して確かめると、確かに昨日ルーメンが買った物と同じものだった。

 彼女は無口なのではなくて、話すと正体が分かるから黙っていたのだ。

 何故――

 喉の奥がひりついて、唾も上手く飲み込めない。自分が何をしたのか、神などいないと思っていてさえ、その罪の重さで首飾りを持つ指先が震える。

 彼女の長い睫毛がゆっくりと震えて、少し哀しそうにその瞳がルーメンを見上げた。


「……猊、下」

「……気付かなければ良かったのに……」

「どうして……何故、猊下がっ」

「ルーメン。誰も見てないわ。主も見逃してくれたの。……いいえ。主は知っていたの。私の望みを……でなければ……だから……」


 彼女はその胸元に手を寄せる。


「口を閉じて。目を閉じて。あなたは何も知らなかった。罪は、私だけのもの」


 胸元で握り締めた拳と、強い眼差しが彼女の覚悟を際立たせる。


「大丈夫よ。ルーメン、『神の愛し子』。あなたは罪に問われない。あなたが何をしても。只人になった私が総主教を演じるのを、主はいつまでお許しになるかしら。その日まで、どうか、今日の日を忘れてちょうだい。そして、その日が来たら浅ましい女だったと笑って――」

「――猊下!」


 ルーメンは彼女を抱き起こし、強く抱締める。


「それが猊下の罪だと仰るなら、貴女を迷わせた私も許されるはずがございません。ですから、そのようなことはっ」


 言いながら酷く冷静になっていく。もうひとり、罪を犯した者がいる。

 猊下がどれほど事を画策しても彼の目を盗めるとは思えない。彼は知っていて、見逃したのだ。連絡した時でさえ、彼は無事を確認しただけで焦りのひとつも見せなかった。彼女達が入れ替わっていることなどとうに知っているだろうに。

 彼の言葉がルーメンの耳に響く。


 ――少し好きにさせるつもりだから、できるだけ目を離すなよ


 どこまでが彼の思惑なのだろう。

 ルーメンが総主教となることを素直に了承しておけば、こんなことにはならなかったのだろうか。彼はそんなにルーメンを彼女に縛り付けておきたいのか。それとも縛り付けておきたいのは彼女なのか。

 どちらにしても、運命の紐付けは成されてしまった。戻ることなどない。


「いいえ。あなたに罪は犯させない。今日、ここにいるのは名も知らぬ侍女。あなたは請われただけ……神の教えに従って、与えただけ」

「では、猊下。今、貴女に気付いた私がもう1度罪を犯せば、私も罪人つみびとになるということですね」

「ルーメ……」


 その唇を塞ぐ。


「愛を知らぬ者なれど、猊下おひとりに罪を背負わせるほど薄情ではございません。猊下はこれまで充分に主に尽くされました。ですから、罪は分け、これからも貴女をお傍でお守りします。私が神に愛されているというのなら、それで猊下の罪も赦されるはずです」

「……ルーメン……」


 ルーメンは彼女の目が潤むのを見ないふりをした。事実は変えられない。今度は彼女が彼女だと知りながら肌を重ねる。彼女にそんな決意をさせた主を恨みながら。こんな風に生まれついた自分を恨みながら――




 今度は子守唄で彼女を眠らせ、ルーメンはひとりで洞窟の外に出た。

 空には青々とした月。白いまだら模様のある、宝石のような……満月だった。

 淡い光は辺りに満ち、白っぽい砂も湖の水も空気までもを薄青く染めている。

 いつも見る月とのあまりの違いに、ルーメンはしばらくの間、ただ呆然とその月を見上げていた。皆が皆息を潜めるように、葉擦れの音ひとつ聞こえない。静寂の中で彼の右の瞳だけがつと涙を流した。


 ――懐かしい。


 何が、と言う訳ではない。ただ、酷く懐かしいという思いが胸を占める。

 彼はそのまま青い月を「視た」。何も見えないのなら、それでもよかった。

 けれど、彼の瞳に飛び込んできたのは見たこともない映像。帝都の建物よりもまだ遥かに高い、天を突くような建物。お陰で空は狭く、うっすら霞みがかってさえいる。その空を鳥のような形をしたものが行く。羽ばたきなどしていない。

 大きな港には巨大な船が……船なのだろう。何で出来ているのか白く、陽を反射して、沖へと出ていく。

 2本の線の上を走る四角い箱が繋がったような乗り物。ずらりと並んだ、4つの小さな車輪がついた馬がいなくとも走る馬車。昼と見紛うほどの明るさの夜の街……

 めまぐるしく変わる映像に息を呑み、混乱する。


 混乱しているのは感情もだった。懐古のような、寂寥感のような、そんな想いが溢れて止まらない。

 小さく嗚咽を漏らし、月を見上げたままルーメンは乱暴に涙を拭った。

 自分がそんな風になる理由が解らない。見る物すべてが初めて目にするものだ。この世には無い、何か、別の――

 神の国だろうか。自分が愛されているというのなら、彼はそこから自分を愛でているのだろうか。この世に何かのはずみで転げ落ちてきた自分を、帰って来いと待っているのだろうか。

 ……それとも、そこでも自分は罪を犯してこの世に追放されたのだろうか。戻りたくとも戻れないから、こんなに胸が締め付けられるのだろうか。


 この世の者ではないから自分は誰とも解りあえずにいるのだろうか。


 胸の隅で感じていた孤独感をこの時ルーメンは初めて自覚した。違うとは思っていなかった。思いたくなかった。ほんの少し強い加護を賜っただけのこと。そう信じていきたかった。

 けれど違うのだ。自分は、何かが、どこかが。

 この青き光は遠い場所からやってきたもの。その光に照らされながら、ルーメンは見たことのない懐かしい景色に身を委ね続けるのだった。

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