2.総主教
女性がいつまでも怯えているので、老医師は軽く診察すると人を呼ぶように伝えた。ついでに「上」に彼のことを報告するようにと。
院長は恐る恐る口を開く。
「何があったのです? その子は何を……」
「彼は『加護持ち』です。それも、『見識』をも凌ぐ……神の眼ともいえる瞳をお持ちだ」
院長とシスター・テレーズが幼い少年に視線を移した。
「こんなのは初めてだ。彼の紋はその瞳の奥に刻まれている! 恐らく、彼が見ようと思えば全てを見られるに違いない。神が、我々に遣わせてくれたのです!」
段々と興奮して声も身振りも大きくなる。
シスター・テレーズが半信半疑で彼を見つめていると、彼の右目がほんのりと光を帯びた。
とたん、衣服ばかりか心まで丸裸にされたような居心地の悪さが彼女を襲った。心臓は早鐘を打つのに、目を逸らせない。すぐに光は治まり、少年はにこりと笑った。その笑顔にぞっとする。反射的に目を逸らしてから、老医師の言う通りなら、その対応は拙いのではと思い至った。
彼の笑顔は子供らしい可愛らしいものだった。どうして怖いなどと思ったのか。先程までの少しぼんやりしていた時の方がまだ人間らしかったような気がして、拙いと思いつつも彼女は顔を上げられなかった。
「シスター・テレーズ」
少し、舌っ足らずの、甘い声が響いた。
「おふとんとお食事ありがとうございました。ここで神さまにお仕えすれば、ぼくにも『家』ができるのですね。『見えること』がとくべつなら、ぼくは何かのお役に立てるでしょうか」
子供らしからぬ物言いに、シスター・テレーズは信じられない思いでもう1度彼を見返した。にこにこと可愛らしい笑顔の少年は、少し前までのその子とは明らかに雰囲気が違っていた。儚げなあの子はもういない。その瞳は光を孕んでいなくとも、もう充分な威厳を湛えているようにも見えた。
「どう、なるのか……私には……私たちには判りません。おそらく、あなたの処遇は総主教猊下がお決めになるのではないかと……」
「そうしゅきょうげいか?」
「ここで、神様に一番近いお方ですよ」
院長が言葉を添えた。
よく分からなかったのか、少年はふぅんと言いながら小首を傾げる。
「あなたはきっとその御力で総主教猊下をお助けすることになるでしょう」
老医師は興奮気味に彼に笑いかけた。
やがて黒い神官服に身を包んだ男性が数人やってくると、震えている女性を支えて連れて行く。
残った一人が老医師と少年を冷たい菫色の瞳で見下ろした。
「その子が『加護持ち』だと?」
「はい。間違いないでしょう。紋は右目の奥に」
20歳前後のまだ若いその青年は、ぴくりと反応して片眉を上げた。
「……瞳の、奥、だと」
「ご覧になりますか? 年端も行かぬ子供故、覗かれる可能性もありますが……彼女は視ようとして、反対に覗かれたのですよ」
「『見識』を覗いた?」
さすがに少し視線を彷徨わせ、青年は胡散臭そうに少年を睨みつけた。
一般の『加護持ち』は生まれたときから皮膚表面の何処かに火傷のような紋がある。故に紋を写して他の者に彫り込んでやれば、ある程度の精度で同じ加護の力を発揮させることが出来るのだが……
瞳の奥、となると手の出しようが無い。
「ふりをしているだけじゃないだろうな」
「この年でそのようなことは無理かと……それに、彼は名以外は何も覚えていないようなのです」
ふん、と鼻を鳴らすと青年は菫色の瞳をすっと細めた。
「何を見た?」
少年は曖昧な笑顔を浮かべて、一拍置いてから口を開いた。
「おねえさんのお仕事。いろんな人を見るの。悪い人とか……ときどき、おにいさんといっしょにベッドで……」
突然、その青年に乱暴に抱き上げられて、少年は口を噤んだ。眉を顰める青年に、にっこりと笑いかける。
小さな舌打ちと共に、その青年は踵を返した。
「この子はこちらで預かる」
大股に出口へ向かう青年の背中へ、シスター・テレーズは思わず声を掛けた。
「……テル……!」
青年が少しだけ振り返る。
「あなたのこれからに光あらんことを……」
小さく笑ってひらりと手を振った少年は、年相応に見えた。たとえ彼らが子供の扱いに慣れていなかったのだとしても、要請が来るまではこちらは動けない。末端の自分達にそれ以上できることはないのだ。
「彼なら大丈夫ですよ。若いのに、すでに主教の位を戴いてる方です」
老医師はそう言ってひとつふたつ頷いていたが、シスター・テレーズは冷たい菫色の瞳を好きになれそうにはなかった。
◇ ◆ ◇
公園のような敷地内を、少年は青年に抱かれたまま行く。前を向いたまま青年は低く言った。
「小僧。勝手な真似をするんじゃない。『視る』のは指示のある時だけだ。視たことも何でもべらべらと喋るものでもない。必要な物を必要なだけ、それが上手くやっていくコツだぞ」
「あのおねえさんとおにいさんが仲良くしてるのは、言っちゃいけないことなの?」
「そうじゃない。それは仕事とは関係のない話だからだ。請われれば与える。神はそう教えたもうた」
「こわれる……」
「願い求められたり、望まれることだ。この先、総主教猊下に御目文字叶う日も来ることだろう。それまでに少し教育しておかねばならんな」
少年――テルには、その時不機嫌そうな声音の裏に喜びの色が見えていた。自分を手に入れられて良かった。そんな感じの。彼女の話題には不満が見えたので、もうそれきりそのことには口を噤んでおくことにした。
だから彼がテルをやや乱暴に扱ったとしても怖いと感じなかったし、指先に針を刺されて、血を金属の板に擦りつけろと言われても黙って従った。
金属の板は一瞬まばゆく光って全員を呆気にとらせたのだが、テルにはその理由が解らなかった。そこにいた全員から期待と少しの畏怖を感じる。
青年の喜びの色はまた少し濃くなったような気がした。
その金属の板を首から下げて、また青年に抱かれて移動する。今度は白い柱が立ち並ぶ建物内部を行く。天井は高く、金色の模様が交差している。星とも花びらとも見える明かり取りの窓からは、さんさんと陽が降り注いでいた。
しゃらん、と、鈴の音が聞こえたような気がした。気のせいかと思う前に、青年が小さく舌打ちをして足を止める。
それから廊下の端によるとテルを下ろし、片膝をついて頭を垂れた。彼はテルを軽くどついて睨みつける。どうやら同じ格好をしろということらしい。テルは意を汲んでそれに従った。
青年の向かっていた方角から衣擦れの音が聞こえてくる。さらりさらりと軽そうな音。透けるような薄い生地に金糸銀糸でびっしりと刺繍の施してある白い衣の裾が目に入ると、その人は青年とテルの前で足を止めた。
しゃらん、と今度は近くで鈴のような音がする。
「――ウィオレ……でしたか。加護を持つ子供が見つかったと聞いたのですけれど……その子が?」
しっとりと耳触りのいい声が青年の名を呼ぶと、青年は体を緊張させてより深く頭を垂れる。
「はい。この子です。ですが、何も知らぬどころか、自分の名以外は覚えていないようで……こちらで少し教育してからお連れしようかと……」
「……まぁ。どうしたことなのでしょう……あなた。お顔を上げて。名を教えてちょうだい」
「……猊下!」
「ふふ。だって気になったのですもの。ここで相
前髪を一房掬われて、テルはそっと顔を上げた。
ゆるくウェーブのかかったプラチナブロンドの長い髪が、初めに目に飛び込んできた。次に薄いグレーを基調にブルーとパープルを滲ませたような、印象的な瞳。
額に揺れるのはクリスタルが連なった白金の鎖のサークレットで、しっとりと落ち着いた声とは裏腹に、化粧で少し大人びてはいるものの、まだ15歳程度の美少女がテルに微笑みかけていた。
「まあ。可愛らしい」
「猊下、『見識』を覗き返したという加護です。制御もできるのかわからぬのですから、不用意に近づくのはおやめください」
焦った青年の声に、総主教は首を傾げる。
「私は主に全てを捧げた身。主の贈り物である加護を身につけた者に何を見られても恥ずかしいことなどありません。あなた、名は?」
「……テル、です。猊下」
微笑んでたどたどしくも頭を下げる様子に、総主教は頬を染めて胸の前でその両の手を組んだ。
「声も、可愛らしいのね。テル」
艶を含んだようにも聞こえる少年を呼ぶ声に、青年は顔を顰めずにはいられなかった。嫌な予感がしたのだ。
「何も知らぬのなら、私が1から教えましょう。共に主の御心を識り、広めるのです。この子は理想の神官になるに違いありません。そうでしょう?」
彼女の側近たちも少しざわめいたものの、主に一番近しい総主教がそう言うのならそうかもしれないとすぐに気持ちを切り替えた。まっさらな子供に1から教えを。確かに純粋な信徒が出来上がるに違いない。
彼女の視線を受けて、ひとりの女性が進み出てテルを抱き上げた。
「ウィオレ、ご苦労でした。あなたも忙しい身、これからも協力お願いしますね」
青年は色々な思いを飲み込んで、黙って頭を下げた。
彼女が青年の思惑を知って邪魔したのでないことは解っていた。たまたま、目的が同じだっただけのこと。
磨けば光りそうな原石を取りこぼした悔しさはあれど、元々予定外だったものだ。さらさらと衣擦れの音が遠ざかるのを待って、青年は気持ちを切り替え、本来の仕事へと戻っていった。
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