9.詠唱

 驚き顔のフォルティスに失態の数々を思い出して、最後まで一神官として接していたかったと彼の口から溜息が漏れる。肩書に左右されない外での活動を、思いの外楽しんでいたのだなと、ルーメンは改めて自覚した。


「本当にお見苦しいところを……失礼とは存じますが、今見たことはどうぞご内密に……」

「それは、構わないが。……そ、総主教付き、とは」

「その名の通りですよ。付き人のようなものです。誰かに連絡を頼んでおくべきでしたね。何せ教会の敷地を出るのはこれが初めてで……浮かれすぎたのかもしれません。命に代えてもお守りしろと言われていたのに、一晩も離れていたのでは確かに自覚が足りないと叱責されても仕方ありません」

「は、初……浮か……」

「私の落ち度です。貴方は、お気になさらずに」


 まだ口をぱくぱくさせている彼の背中を押して帰りを促す。


「お世話になりました。お元気で」


 何か言いたげな彼の瞳は馬の嘶きにはっとして逸らされる。フォルティスの振り向いた先には、だらしなく涎を垂らし、正気を失った野犬が1匹よろよろと馬に近付いていくところだった。


「あっ、こら! どこから……!」


 病気持ちだと人も家畜も困る。こういう野犬は即駆除の対象だった。駆け寄りながらいつものように腰に手を回して、彼ははたと気が付いた。鎧も、剣も、置いて来ている。

 野犬も彼の声と気配に気づいてすでに飛びかかろうと助走を始めていた。

 フォルティスは咄嗟に両腕を出して首をガードする。


 ――猛き山の底からいにしえより燃ゆる地の力借り受ける。夜を照らす赤き炎、燃やせフラルモ


 その声が響く中、辺りの魔力が動くのがフォルティスには分かった。彼自身は魔法は使えなかったが、戦場では身近なものだ。だが、彼の中からもごっそりと引き出される感覚を味わうのはこれが初めてだった。

 フォルティスの腕に齧りつかんとしていた野犬が目の前で火柱に包まれる。反射的に数歩下がったが、魔力の欠乏のせいなのか、膝から力が抜けてそのまま尻餅をついた。

 目の前で急に炎が上がって馬も後退していく。パニックになって走り出さないだけ幸運だった。


「だ、大丈夫、ですかっ」


 駆け寄ってきたルーメンは細かく震えていた。その手を掴む。


「今の、あんただな」


 青褪めて小さく頷くルーメンの背後と辺りを確かめる。幸い、近くに他の人影は見当たらない。


「あ、あんな規模になるとは……!」


 鼻先を燃やす程度と思っていたのに。

 珍しく取り乱すルーメンにフォルティスはその手を握ったまま囁いた。


「俺と、多分、馬とあの犬、それから辺りに漂う魔素を全部持ってかれた」

「……えっ」

「予想以上になったのはそのせいだ。詠唱するときは気を付けろ」

「ぜ、全部?」

「今までは大丈夫だったのか?」

「人前で使ったのは初めてです。ずっと、独学で……でも……もう、使わない方がいいですね。立てますか?」

「……いや、しばらく無理かもしれん。膝が笑ってる」


 肩を竦めておどけるフォルティスのルーメンを掴んでいる手に、彼はもう一方の手を重ねた。

 その手を通して少しずつだが魔力が注がれる気配がする。フォルティスはまたしても初めての感覚に眉を顰めた。


「……おい」

「だ、だめですか? 他人に分けるなどということは出来ないでしょうか」


 何と言ったものか。フォルティスは言葉に詰まった。

 魔石に魔力を込める職人がいるくらいだから、出来ない事ではないだろう。だが、普通はその魔力にも色と言うか性質があって、そうそう誰も彼もに分けたりもらったりできるものでもないはずだ。どうもこのテル・ルーメンと言う男は常識では量りかねる。

 しばし目を閉じてフォルティスは、掴まれていない方の手でがりがりと頭を掻きむしった。


「いや、うん。もう、立てそうだ。ありがとう。だが――」


 ほっとした顔をしたルーメンの顔がもう一度引き締まる。


「――他人には、知られない方がよさそうだ」


 真面目な顔がこっくりと頷いた。


「才能はあるんだから、詠唱なしでもできるかもしれんぞ。どうせ独学なら、試してみればいいんじゃないか」


 立ち上がりながら、空気を軽くしようとフォルティスは適当なことを言ってみた。ようやくルーメンの表情が少し緩む。


「――そうですね」


 馬にも魔力を少し分けてやって、野犬の燃えカスを始末すると、何度も振り返りながらフォルティスは帰っていった。



 ◇ ◆ ◇



 帰りの道中、一通り事のあらましを説明したルーメンに、それでも総主教は不満顔だった。「どれだけ心配したと思うのか」と子供を諭すように懇々と説教をする。殊勝に頭を下げながらも、ルーメンは心の中で溜息を吐いた。


「お言葉はもっともと受け取りますが……私ももう子供ではないので……」

「そうです! 子供ではないのですよ? 大主教の位階を持つ、総主教付きの役職を持つあなたを快く思わない者がいるのですから、ふらふらとひとりで行動するなんて軽率だと知りなさい! せめて、共の者を一緒に……」


 ルーメンが彼女を教会に預けた後は、軽く出掛けると声を掛けただけで、すんなりと出てこられていた。混乱の中、たまたま誰にも見咎められなかっただけなのかもしれない。


「私の代わりはいくらでもいるのですから、それ程のご心配をいただかなくとも……」


 心からそう言ったルーメンに、総主教は顔色を変えた。


「ルーメン。あなたの代わりなど、いないのですよ。神の眼を持つ者など、他には……!」


 この時、ルーメンは周囲が何故自分を妬んだり、媚びたりするのかようやくぼんやりと理解し始めた。彼は自分が他の加護持ちと違うなどと思ったことは無かったのだ。彼等も教団の中では大切に扱われるが、ルーメンの比ではない。

 その瞳と共に生きてきた彼には視えることは当たり前で、故に周囲からぶつけられる悪意も総主教の行き過ぎた庇護がそうさせるのだと、ずっと思っていたのだ。


 確かにそれも理由のひとつではあった。けれど、使い方ひとつで独裁者になれる力を持つ彼が、黙って他に従っているということが、出世してその利益を貪りたい欲深な連中には理解できなかったのだ。

 力は振るうもの。その概念がルーメンにはなかった。

 彼にとってそれは、そこにあるものだったのだから。


 自室に戻って総主教を強制的に眠らせた後、ルーメンはフェエルに呼び出された。すでに報告がされているのだろう。この時間の呼び出しは異例だが「命に代えても」と言ったのは他ならぬ彼だ。叱責を覚悟でルーメンは彼の部屋に向かった。

 ノックに被せるように「入りなさい」と返事が来る。

 机に向かって書類を捌いていた彼がくるりと振り向き、手振りで座るよう促した。

 自分も立ち上がってルーメンの向かいに席を移すと、盗聴防止用の魔道具をテーブルにぶつけて作動させる。


「お帰り。彼女に随分絞られたって?」


 にやにやと少し楽しそうに言う彼に、ルーメンは首を傾げる。


「……はい。一晩、お傍を離れてしまいましたので……何事も無くて良かったと。託されたことを守れないところでした」

「彼女が怒っていたのはそこじゃないと思うがな。だいたい、お前はきちんと隣町まで送り届けていたのだろう?」

「はい。それは」

「で? 楽しかったか?」

「はい?」


 怒られもせず、出た質問に思わず間抜けな声が出て、ルーメンは1度咳ばらいをした。


「誰の監視もない時間は、楽しかったのか?」


 わざわざ言い直された質問に、ルーメンは少し憮然として答える。


「楽しくなど……死体の山と悲しみにくれる遺族の前でそのようには、とても」

「黒焦げの死体の身元を全て『視た』んだってな」

「はい」

「よくやった。上手い具合にイメージアップと『神眼』の宣伝になった」


 何を言われたのか、ルーメンにはよく分からなかった。そんなつもりは無かったことで褒められているのだと気付いたのはしばらく経ってからだった。


「一晩帰らなかったことなど、些細なことだ。男なら人生に何度かあるものだ」


 フェエルにもそんなことがあったのかと、口には出さなかったが想像できなくてルーメンは思わずじっと見てしまう。

 彼はにやりと笑ってそっと視線を外した。


「そうだ。そうやって、いつでも相手の弱点を知る努力をしろ。お前ならそう難しくはないだろう」

「フェエル」

「ルーメン。お前には欲がないのだろう。だが、それがあるなしに関わらず、この先周囲はお前を……お前の『神眼』を取り合うことになる。それに流されたくなければ、お前自身が力を持ち続けなければいけない。お前がある程度の自由を勝ち取りたいのであれば、今の座かそれ以上を望め。その為の手管は俺が授けよう」


 それ以上。今の座より上とは、つまり。

 ルーメンは顔を青褪めさせた。フェエルは感情の読めない顔で淡々と語る。


「代々、総主教には『予見』の加護が付与されている。だが、今の彼女は成人する前よりも加護の力が衰えているようにも感じる。所詮、後付けの力だ。お前の『神眼』なら『予見』ではなくても総主教の名を背負うのに誰も文句は言えん」


 ルーメンは思わず頭を振っていた。誰かを、彼女を蹴落としてまでその座を求める気はない。

 フェエルはこの話をするのに魔道具を使ったのだ。


「では、彼女ごとその隣で支えられるよう気を張れ。気を抜くな。お前が転べば彼女が怪我をすると思え」

「フェエル、は」

「私もこの座を動く気はない。今の所は。だが、いつまでもいると思われても困る。何があるかは神しか知らぬのだから」


 話は終わりとばかりに、彼は魔道具を打ち付けて解除した。立ち上がり背を向ける彼につられるようにルーメンも立ち上がる。

 フェエルは視え辛い。見えないことが不安になる。

 彼は、今まで支えてきた彼女をそんなに簡単に切ることが出来るのだろうか。あるいは、実は彼女を支えてきたのではないのだろうか……

 ぐるぐるとルーメンの中で見えていた世界が色を変えていく。

 ルーメンが部屋を出るまで、フェエルが振り返ることは無かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る