僕と上司

 とうとう朝になってしまった。朝食は張りつめたような緊張感が漂っていた。硝が何とかしていつも通りの雰囲気に戻そうと努めている様子だったが、申し訳ないけど今は元気が出せるような状態じゃない。彼の努力も空回っているだけだった。


 三人で白墓へ向かうのが普通なのだが、やはり仲良く出勤という気にはなれず、僕は一人だけ早めに家を出た。数分時間をずらしただけなのに、街の雰囲気はだいぶ違って見えた。普段だったら、そんな光景に多少なりとも興味を持つのだが、今はただ額縁に飾られた絵を見ているような、現実味に欠けた風景を見ている感覚だった。ただ黙々と足を動かしているうちに、いつの間にか白墓にたどり着いていた。


 更衣室で準備を済ませ、網野さんとともに仕事に取り掛かった。最初のうちは何も言わずに作業をしていた網野さんだったけど、倉庫内の遺体を半分くらい運び出したところで切り出した。


「あのねぇ、玖円君」

「………なんですか」

「悩むのはいいんだけどさぁ、もうちょっと元気に振る舞ってくれないと調子狂っちゃうわよう」


 網野さんが耐えられなくなってこんなことを言うってことは、それほどひどい表情をしていたのだろう。僕はなんとなくすまない気持ちになったが、それを表に出すことはしなかった。


「……スイマセン。なんか、そんな気力も湧かないっていうか」

「相当まいっちゃってるみたいねぇ。ま、拾ったアンドロイドのことで問題でも発生したとか、違うかしら」

「……大正解です。すごいですね」

「少しは元気よく褒めてくれないかなあ」


 大きなため息をついて、彼女は脚立から降りた。それから少しだけ口の端を上げて笑った。

「なんなら、優しい上司がお悩み相談してあげるわ」

「………いいです。網野さんどうせ聞くんじゃなかったって後悔するでしょう」

「やだ玖円君。あたし聞いといて後悔するなんて馬鹿なこと、したことないわよう」

「嘘つけ!」


 思わず敬語を忘れる勢いで突っ込んだ。網野さんはそんな僕を見てさらに笑みを浮かべた。そして箱でいっぱいになったカートを押して倉庫を出ようとする。僕もそのあとを追った。


「あの、網野さん?」

「出るじゃない、元気」


 振り返りざまにニッと笑った網野さんにつられて、僕も少しだけ口角を上げた。なんだかんだ言って、僕はいつもこの人のペースに流されてしまっている。そのことを自覚しつつ、それでも網野さんに話してみようと思えた。


 遺体を焼却室まで運んでから、僕と網野さんはいったん白墓から出た。


「どっか外で休憩しましょ。おごったげる」

「あ、ありがとうございます」


 すたすたとメインロードをゆく網野さんは、僕が入ったことのない店に入った。冷房の冷たい空気で、汗が一瞬で引いたような気分になる。

 店内はごく普通の居酒屋のようであった。奥行のある室内には、カウンターの他にテーブルが三つばかり設置してあるだけであまり広いとは言えない。昼間なのに、白墓の作業服を着た人が幾人か来ているところを見ると、昼間は喫茶店としても経営しているようだ。


「ここ、お酒もおいしいけど紅茶とかコーヒーもいいのよねえ」

 僕がそんな飲み物の良しあしなんて知るはずもないんだけど、網野さんは上機嫌で紅茶を二つ注文した。彼女はそこでひと段落して、僕に向き合った。


「で? 悩んでること詳しく言ってみなさいな」

 キョロキョロあたりを見回していた僕は網野さんにうながされ、全て話すべく彼女と向き合った。


「実はですね、ナツ――アンドロイドを回収しようと僕に直接連絡を取ってきた人たちがいまして……」

「もしかして、昨日の美人な子?」

「ええ、まあ。それで、今日の夜に白墓でナツを引き取りたいってことなんですけど……」

「ふうん。でも玖円くんはナツちゃんを渡したくないけど、あの美人さんがこわいからどうしたらいいか分からない、って感じ?」


 網野さんは右手で頬杖を突き、左手でテーブルの木目をくにゃくにゃとなぞり出した。

「……まあ、そんなとこです」


 僕の返事を聞いた網野さんは、困ったように溜息をついて黙ってしまった。しばらく二人とも言葉を交わさないでいると、注文した紅茶が運ばれてきた。そこで再び、網野さんは溜息をこぼした。


「ヘタレねぇ」

「んなっ……そ、それは否定できませんけど!」


 軽く憤慨する僕をおいて、目の前の上司は涼しい顔で紅茶に口をつけた。うしろを向いたかと思うと、カウンター越しの店員に「すいませーん、やっぱりミルクもくださーい」と追加注文した。僕は何も言わずに網野さんの次の言葉を待つ。彼女は受け取ったミルクをカップに入れ、また紅茶を飲んだ。そして一言。


「落ち着くわー」

 まだ、待ってなければいけないのだろうか………。


 いよいよこの人が何を考えているのか理解できなくなったところで、網野さんは僕の目を見て言った。


「あたし思うんだけどねえ、玖円君たまには我儘になってもいいんじゃないの? もう無理だって達観しちゃってるけど、子供らしくやりたいことやり通してみなさいな」

「そんなこといわれても、できることとできないことの区別くらいつけないとやっていけませんよ――って熱ッ!」


 とっさにカップを口から離した。舌の先がじんじんと痛い。網野さんはというと、何でもない顔で紅茶を飲んでいる。彼女の舌はどうなっているのだろうか。


 戸惑っている僕をおいて、網野さんは話を続けた。

「玖円君はさあ、中学も卒業できないまま白墓で働き始めたじゃない? その分他の子よりも大人びているのは、あたしも知ってるんだけどねえ、それでもやっぱりまだ子供なわけじゃない」

「そうですかね……?」


 もう十八なんですが。


 疑問の目を向けると、「そうよ」と短い答えが返ってきた。


「大人ってねえ、特に、あたしみたいに白墓の最下層で働くような人間となるとねえ、いろんなものを簡単に捨てちゃうような人間になってくるものよ。どうでもいいもののために、大切なものを諦めたりすることなんてざらにあるわ。そんな大人が灰街には腐るほどいる。でも、玖円君はまだ子供でしょう? そんな風に生きる必要も、そんな風になる必要もないわ」


「だから僕は子供では――」

 いいかけたところでデコピンされた。

「こ、ど、も、よ」

 そう言って、網野さんはミルクティーを無意味に混ぜている。


「好きな子を助けてあげたいけど、怖くてひるんじゃう。それでもなんとか自分の思い通りにしたくて、でもどうすればいいか分かんないから、周りの大人にとりあえず気持ちを吐き出して助けを求めている。玖円君、ぶっちゃけあたしが上と取り合ってなんとかしてくれるの、待ってたりするんじゃない?」


 そう思っている自覚はないのに、何故だか心臓が大きくはねた。表情に出ていたのか、網野さんはカップから僕に視線を変えると、困ったように苦笑した。


「ね? まーだまだ、大人になるのは先よ」

「……すいま、せん」

「謝ることなんてないわよう。そうやって悩んで悩んで、大人になって後悔しない選択をすればいいだけなんだから。そのために大人をじゃんじゃん利用しなさいな。子供の特権よ?」

「網野さん………」

「あたしからの助言はこれだけ。――ほら、白墓に戻りましょ」


 そこまで告げると、網野さんはミルクティーを飲み干してテーブルを立った。僕もほとんど飲んでいなかった紅茶を胃に流し込み、会計をして店を出た網野さんに駆け寄った。強い日差しに、思わず目を細めた。


「あの、話聞いてくれてありがとうございます。……あと、お茶も」

「いいのよ、私は立派な大人だから」

「立派って………あ、なんでもないです」


 抱かざるを得ない疑問がこぼれ、慌てて訂正する。網野さんは何か言いたげに並んで歩く僕を見たが、また前を向いて歩みを進めた。


「まあいいわ―――ああそうだ。あと一つ、立派な大人で人生の先輩である私からアドバイス」

 隣を歩く彼女の手が、僕の頭を軽くたたいた。そのまま髪をくしゃくしゃと撫でた。それが結構激しかったので、僕はたまらず止めようとした。


「ちょ、やめてくださ――!」

「大人ってねぇ、子供の我儘には弱いものなのよ? ドン引きするくらい地団駄踏んでみたら、案外お願い聞いてくれたりして」

「へ?」

「なーんちゃって」


 年齢に似合わない悪戯っぽい微笑を見せて、網野さんは歩くスピードを速めた。


「ほれほれ、ホントのホントにお悩み相談終了。仕事するわよ。私事はいったん置いときなさい」

「え……あ、はい!」


 子供らしく我儘に、か。

 僕にも、そんなことができる度胸はあるのだろうか。

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