僕らと彼女の日常

 コンコン。


 静かな部屋に響いたドアをたたく音。僕はそれに背を向けてシーツにくるまった。


「玖円様、硝様。起床の時間になりました。起きてください」


 ドア越しの凛とした声に呼びかけられた。だが、僕は体を起こす気になれない。それはどうやら、となりのベッドで寝ている男も同じのようだ。硝はあろうことか「あといっぷーん……」とかなんとかのたまっている。


 コンコン。


「玖円様、硝様。起床の時間になりました。起きてください」


 ナツがもう一度同じことを繰り返し、数秒静かになった。そして控えめな音を立ててドアが空開き、「失礼します」という声がはっきりと耳に届いた。前にもこんなことあったなー。ぼんやりとその出来事を思い出し、僕は気付く。あれ、このあとのナツって何をしようとしていたっけ?


「だっ! おまっ、なにすん…あでっ!」


 唐突にボスっと鈍い音とともに硝の悲鳴が上がった。

 ヤバイと思った時には遅かった。


 シーツから顔を出すと、僕のすぐそばにナツが立っていた。彼女はホウキを握り、おもむろに振り上げた。


「――咲様から強制的に起こすように仰せつかっております」


「あ、ちょ、起きるから――いってぇ!」

 問答無用かよ!


ナツに連行されるような形で二階へ降りると、咲が着替えを済ませて歯磨きをしていた。彼女はのそのそと降りてきた僕たち二人を見ると、歯ブラシをくわえたままテーブルの朝食を指さした。


「さっさとご飯食べて。遅刻するわよ」

「はーい」

 硝と僕は声をそろえて返事をすると、昨日と同じ固いパンにかじりついた。ナツはそそくさと流し台に向かい、洗い物を開始した。


 彼女の後ろ姿を眺めながら、僕はぼんやりと彼女がいる日常を実感した。

 もう、あれから二日目の朝を迎えたのだ。


 ナツを守る……とはいったが、正直アレは僕の私利私欲による地団駄行為と言ってもいいような気がする。ものすごく強引に大人の事情を無視して、その挙句この事件の第三者ともいえる白墓、ひいてはサニー社に罪をなすりつけたようなものなのだ。夜が明け、仕事に行くときになってようやく、僕はこれからに対する不安を抱いた。


 しかしそんな不安に対して、僕の上司は気軽な調子であった。指定の遺体倉庫に向かうと、すでに待っていた網野さんがにこやかに僕を迎えた。


「おはよう、玖円君。死んでなくて安心したわー」

「……はは。まだ分かりませんけどね」

「あら、大丈夫よう」


 網野さんは僕の肩を軽くたたいて脚立を組み立てた。

「ついさっき上と話してきたんだけど、なんか心配されただけだったわよ。とんでもない後輩持ってるね、ですって。厳重注意しておけとは言われたけど」

「ほ、ホントですか⁉」

「死体が出たら、戸籍ごと存在を抹消する気だったわ」

「………」


 怖っ。


 という感情を呑み込む。脚立に登る網野さんを見上げていると、彼女が再び口を開いた。


「上の方の対処も慣れたものだったわよー? まあ、この街の人間が従業員である以上、小さな問題もあとを絶たないんでしょうね」

「じゃあ今回の件もその些細な問題の一つにすぎない…ってことですか?」

「ちょっと異例みたいだけどね。けど大して重要視はしてなかった様子だったわよ」


 僕にとっての一大事も、白墓という巨大なくくりでは小さな出来事で済まされてしまうのか。僕は嬉しいようなさびしいような、不思議な心持になった。すると網野さんは、遺体の入った箱をこちらに下ろしながら付け加えた。

「ま、人には身の丈ってものがあるものねぇ。とりあえずおつかれ、玖円君」



「ひぇ――っくしょい!!!」


 昨日のことをつらつらと思い出しながら食事をしていると、硝のくしゃみで我に返った。

「まだ風邪気味なのか?」

「あー、熱はもうないし別に大したことはないんだけどな」


 そう。彼は僕と別れたあと、海に飛び込んで船から脱出した。そしてなんと自力で沖から泳いで帰ったのだという。さすがにそこから歩いて帰るようなことはしなかったらしいが、体も拭かずに長時間いたものだから、彼にしては珍しく体調を崩してしまったのだ。まあ、それもたった一日でほぼ治ったが。


 僕としてはとても申し訳ない気持ちがあったのだけど、あの暗闇と距離を泳いで帰るその体力に驚愕というか、もう笑うしかなかった。


 ちなみに、彼が帰りの車をどうやって手に入れたかは聞かないでほしい。しょうがないのだ。背に腹は代えられない。


 いつの間にか時間にかなり余裕がなくなっていることに気づく。僕はパンを熱いお茶で無理やり胃の中に落とし、数分で準備を済ませた。階段を駆け下りると、店先で硝と咲が待っていた。ナツもいる。


「いってらっしゃいませ、玖円様、硝様、咲様」

 ナツが軽くお辞儀をした。一緒に過ごして一か月以上経つが、この他人行儀はどうにかできないのだろうか。


「ねえナツ」

「はい、なんでしょう」

「〝様〟ってつけるのやめてみない?」


 そう提案すると、硝と咲も納得したようにうなずいた。


「あー、そういやそうだよな」

「あたしたちもう家族だし?」

 ナツは僕らを順に見ていき、承諾の意味の礼をした。


「それでは、玖円さん、硝さん、咲さん、いってらっしゃいませ」

「敬語かい!」


 なくならない堅苦しさに、硝が思わず突っ込む。


「ま、まあ、そんないきなり変われない、かな?」

「いいんじゃない? ナツらしいよ」


 ねー? とナツに同意を求めて笑う咲を見て、ナツは「ねー」と無表情で小首をかしげた。少々……結構怖い。でも、彼女がそんな風に反応することが珍しくて、僕はちょっと驚いた。


「ナツ……君ってそうやって人に同意することってあったっけ?」

「――いいえ。ナツはこれからお客様と共に暮らすことになるゆえ、破損した疑似感情を当機自慢の高い学習プログラムで補うことにいたしました。至らないところも多々ありますが、どうぞこれからもよろしくお願いいたします」


 ナツは丁寧に礼をした。僕ら三人は目を合わせた。全く感情なんて感じさせなかった彼女が初めて見せる、向上心のような何か。


 ナツもまた、今日を人間らしく生きようとしているのかもしれない。


 僕は上半身を起こしたナツを見つめ、ほんの少しの不安と溢れてくる希望を込めて、彼女に告げた。


「そうだね。少しずつ、感情も覚えていけばいい。ここでの生活も学べばいい。僕らも君が人間らしくなっていくことが嬉しいよ」


 熱い風が遥かな青色へと吸い込まれてゆく。ナツは数秒硬直したのち、いつもの言葉を口にした。

 変わらずの無表情だけど、その言葉はどこか彼女の決意のようでもあって。

 黒髪と白い裾を揺らしながら、彼女は告げた。


「――了解しました。ナツはこれから、人として生きましょう」

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白い墓を仰げ ニル @HerSun

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