僕らの帰還
「――――っぷは! ナツ、ナツ!」
口がしょっぱい。鼻の奥が痛い。どこもかしこも真っ暗で、僕は必死になってただナツの姿を探した。
「ナ……ぶっ!」
波が彼女の名前を呼ぶことすら許してくれない。
遠ざかっていく大きな貨物船と、その反対側に見える白墓の明かりだけが、今の僕にとってのわずかな心の支えだった。
何もない海面で波にもまれているうちに時間間隔が無くなってきたころ、ぽつりと銀色の明かりがこちらに近づいてきた。
小さな明かりの正体は小型の漁船だった。エンジン音が徐々に近づいてくる。僕は躍起になってそれに手を振ろうした、そのときだった。
「玖円ちゃーん!」
拡声器を握る少女の影が、船の照明の逆光に照らされていた。
「早めに見つかってよかった!」
僕のすぐそばに止まった船の上で、ケイはほっとしたように胸をなでおろした。
「あの、どうして……?」
「君に渡した銃に発信器を付けさせてもらっていた。機能しなくなる前に見つかってよかったよ」
状況を理解できていない僕を、操縦室から出てきたヨウさんは船に引き上げた。びしょ濡れの僕にケイはタオルを手渡してくれた。有難くそれを受け取り、僕は服を絞って体を拭いた。
「―――そうだ! まだナツが!」
「ナっちゃんならもう中で休んでるよ」
ケイがそう言うやいなや、操縦室から毛布にくるまったナツが姿を現した。
「ナツ……! えっと、体っていうか、ヘルパーは壊れてなかった⁉」
「今現在損傷個所が増えた自覚はございません。しかし念のため検査を受けることを推奨します」
「引き上げたあとすぐに損傷部位は乾燥させたが……それも応急処置の範囲だ。帰ってから専門家に見せたほうがいいだろう」
おじさんに見せるだけでも大丈夫だろうか。ヨウさんの補足説明を聞きながら、僕はナツの首に巻きつく装置を見つめた。
「玖円ちゃんあったかいお茶あるよ」
「あ、もらおうかな」
「中に入る?」
そんな風にケイが気遣ってくれたが、僕はそれを断って外にいることにした。海の上のは普段灰街で感じているあの蒸し暑さとは違い、肌寒さが感じられた。体中濡れているのも寒さの一因となっているのだろうけれど、僕はなんとなく、もう少しこの何もない真っ暗闇の中に身を置いていたかった。
ケイから緑茶の入ったマグを受け取り、ぼーっと黒い海原を眺めていると、隣にナツが座った。整いすぎた無表情が、船のライトの強い光の中で、真正面を向いている。彼女の手にもマグが収まっていた。
「中に入らないの?」
「お供いたします」
「風邪ひいちゃうよ」
「お互い様です」
「そか。――そういえばさ、君は僕と出会った時、僕の腕をつかんだよね」
「――――、記憶データに検索をかけました。そのような記録は、私のデータ上に存在しません」
「………まあ、いいや」
今君がここにいるから。なんてセリフを口に出すのは、さすがに羞恥心が邪魔をした。一人でこんなことを考えている自分に恥ずかしくなって、僕はお茶を一杯啜る。
そしてまた、彼女と話をする。
「ナツ」
「はい」
「海に落としてごめんね」
「―――玖円さまの気にするところではありません。こちらこそ、助けていただき、有難うございます」
「うん、ありがとう。どういたしまして」
僕はそれから、徐々に近づく白い直方体の存在をなんとなしに眺めていた。
*
ケイとヨウさんは僕らを灰街のはずれ、彼らの住まう森の手前まで送ってくれた。そこで僕たちは車から降りて、彼らに深く頭を下げる。感謝してもし足りない。
「怪我したらウチおいでね! しなくても来てね!」
「玖円君たちも疲れているだろう。早く帰って休むといい」
ぶんぶんと手を振りなかなか車のドアを閉めようとしない少女を助手席に押し込んで、ヨウさんは小さくこちらに会釈をした。そして彼もまた運転席に乗ると、黒い車を夜の森の中へと走らせて言ってしまった。
「…………」
それを眺めながら、僕はやっと終わったという解放感と疲労感で、しばし放心してしまった。
「帰らないのですか」
ナツの問いかけにハッとし、ぼうっとしていた僕は恥ずかしくなって頭を掻いた。
「ああ、あはは……。じゃ、帰ろうか」
そう言って二人並んで歩き出す。曇っているのだろうか、月も星もない。ただ真っ暗闇の中で、巨大な白い墓石がその存在を誇張するように煌々と照らされ、そびえたっている。
僕はそれを少しの間見上げていたが、もう一度ナツに声をかけられて歩き出した。元通りの道を歩いていたら、自分が夕飯もまだだであることを思い出した。なんだかすごくお腹すいてきたぞ。咲と硝はもう済ませたかなあ。ああ、明日網野さんになんか言われるかもしれない。あ、ケイに拳銃返し忘れた。いつ返そう。あんまり長く手もとに置いときたくないな。
不良や酔っ払いでにぎわうメインロードを歩きながら考えたのは、自分でも意外に思うくらい些細なことだった。ナオさんが言っていたこととか色々考えてみようとしたけれど、ナツを守ることができた安心感からか、あんまり難しいことを考える気になれなかった。僕にとっては明日怒られるかどうかの方が心配だ。
メインロードを外れ、蔦の這う壁、放置された植木鉢やポリバケツを通り過ぎ、僕らの我が家にたどり着いた。散乱した工具類をまたぎ、奥の細く急な階段を上る。
やっとついた。僕はナツの手をつかみ、もう片方でドアノブを引いた。
そして二人、ほぼ同時に言った。
「ただいまー」
「ただいまかえりました」
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