僕の好きな人

 僕とナツが出た先は、船の末尾だった。わずかにべたつくような湿った風に乗って、潮の香が鼻孔に入り込んでくる。

「どうしよう………」


一面が真っ黒な海だった。まだそれほど陸が遠いようには見えないけれど、たぶんもう数百メートルは離れてしまっている。人がほとんど住まわなくなった地上はアトラクションパークのきらびやかな輝きと、そこから距離を置いたところに鎮座する白墓を照らし上げるサーチライトしか人工的な明かりが見られない。


 あの光だけを目印にして、果たして僕ら、とりわけ一部機械であるナツは無事に帰れるだろうか。僕の隣に並ぶナツに問いかけた。


「ナツ、飛びこめる?」

「水難における緊急対処法はプログラムされておりますが、当機は一部破損が見られるため、長時間海水に浸かると完全に機能を停止してしまう恐れがあります」

「なるほ………ん?」


 僕は彼女の発言に違和感を覚えた。ナツを見つめる。


「ナツ、もう一回言って」

「水難における――」

「もうちょっとあと」

「当機は一部破損がみられるため、長時間――」

「ストップ」


 ナツの口がぴたりと閉じられる。僕は対照的に、言葉が出なくて口をパクパクさせた。


「な、君、自分が壊れていること、知ってた⁉」

「はい。存じ上げておりました」

 それはもう淡々と彼女は肯定した。僕が驚きで口を開けたまま固まっていると、ナツは業務連絡でもするかのように事務的に続けた。


「当機は効率を優先させるため、月に一度の性能チェック以外で問題が検出された場合、自律判断により、自身の故障を自ら報告する機能がプログラムされています。私の場合はレンタルの最中に発生したエラーでしたので、自ら廃棄を申請いたしました」

「な、なんで知ってることを言わな………」

「故障したものをわざわざ再起動させたということは、何か理由がおありになったのかと推測しましたので。私は必要としてくれるお客様の意に添うことが目的に製造された物でありますから、余計な詮索はぜずにただ玖円様に尽くすだけです。よって、言う必要はないと判断いたしました。もし誤った判断をしてしまったのであれば、お詫び申し上げます」


 ナツは深々とお辞儀をした。僕はただ絶句してそんな彼女を見ていた。さすがに怪しいと判断したのか、

「表情が固まっておりますが、何か疑問でも?」

「え、あ…いや」


 ますます困った。ナツは自分が廃棄される予定だったことも、その途中で再び拾われたことも、全部知っていたのだ。知ったうえで、何も言わず僕らと生活を共にしてきたのだ。廃棄するべきだ、とは主張せずに。


 僕は思い切って打ち明けることにした。

「実は、君は廃棄されるわけではなかったんだ。その、君はほら、壊れているって言っても体は健康なわけで、だから臓器移植のドナーとして買い取られるかもしれないんだ。その、えっと……どう思う?」


 考えるように動きを止めたナツは、数秒して口を開いた。


「どう、と言われましても。私はアンドロイドですので廃棄されることも解体されることも同じことです。人の役に立つために造られたのがアンドロイドであるならば、臓器を提供することもアンドロイドの務めの一つて言ってもよいでしょう」

「……っ、そんなことは――!」

「しかし」


 そこでナツは言葉を止めて、不意に僕の両手を彼女のそれで包み込んだ。あんまり突然のことだったので、僕はちょとだけ身を退いた。それでもナツは両手をしっかり握って離さなかった。


「私が現在最優先するべきは目の前のお客様オーナー、玖円様です。私は一度廃棄された物と同然の機体です。よって自律判断により、私の全権限はお客様代表の玖円様にゆだねることといたしました。あなたが死ねと仰るならば、自ら命を絶つことも可能です」


 あくまで、単調で機械的に。


「玖円様が大変思いつめておいでだったことは私も知っています。おそらく、その原因が私にあるということも推測済みです。しかし私は可能な限り玖円様の意志に添えるようにここにいます。どうかご自分のことをもっと優先させてください」


 それでもナツの紡ぐ言葉はやっぱりどこか温かくて、彼女の感情と呼べるものは、本当はまだ完全に失われていないのではないかとさえ思えた。


 ナツは僕の手をそっと放し、一歩後ろに下がった。そして一時も変化することのない彼女の表情で、たった一言、言い放った。


「御命令を」

 張りつめていた緊張と、心のどこかに残っていた迷いが、すとんと落ちた気がした。


「―――僕は」


 少し離れた距離を詰め、僕は彼女をきつく抱きしめた。どこまでも情けないことに、涙がにじむのを止められない。

「僕は……君に、そばにいてほしい。死んでほしくない」

「死という概念は私のような物には当てはまりません。正しくは廃棄。もしくは解体です」


 自分のペースを決して崩さないナツ。僕は彼女をかいなに抱いたまま付け加えた。


「もう一つ、お願い」

「はい」

「僕の好きな人のことを物って呼ぶの、やめてもらえるかな」


 少し長めに硬直したのち、さすがに意味を解した彼女は言った。

「光栄です。了解しました」

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