2. ひとりの少年と、かおのない少女
僕らと彼女
「おはようございます玖円様、硝様。起床の時間となりました」
涼やかでよく通る、けど起こす気が皆無の棒読みの声が、僕らの部屋に響いた。
「二人とも八時三十分からお勤めに行かれると記憶しています。ただいま七時六分です。咲様が早く起きろと仰ってます」
彼女は僕らが起きなければならない理由となる事実を手短に述べた。でも、僕と硝は起きない。ある程度時間に余裕をもって起きなければいけないことは理解しているのだ。理解しているけど、眠いし。
彼女はいまだ布団から離れようとしない僕ら二人を見て、数秒沈黙した。困らせたかなーと思ってチラッと目を開けると、
「お目覚めにならない場合、咲様から身体的罰の行使権利をもらっております。自律判断により、権利を使用いたします」
部屋に入る前から持っていたらしきホウキを振り上げ、無表情の彼女が立っていた。
全力で布団から飛び起きた。
「ナツに起こされなくても、いつもこのくらいの時間に起きてよね」
咲はすまし顔で朝食のパンをんだ。
僕と硝は寝ぼけまなこを気力で開き、それぞれの朝食の準備をした。咲は悠々と、食事と説教を並行して行っている。
「だいたい、あんたたち十八歳よ? 分かる? お、と、な、なの。自分で起きなさいよね」
「あんたたちって……。お前タメだろ」
硝が珍しく反論すると、
「ふん。あたしはちゃんと自分で起きてるもん」
おっしゃる通りです。
でも、硝も負けてはいなかった。
「けどホラ、オレはいつも飯作ってるじゃん。咲は大人だけど作らねえだろ?」
「あ、」
気づいたけど遅かった。咲の頬が桜色になったと思ったらあっという間にリンゴのような赤になる。彼女の持っていたパンがテーブルに落ちた。
「それは! あんたが勝手に作るから! あたしはっ、別に…!」
「えぇ⁉ いきなり何だよ⁉」
自分がいつ地雷を踏んでしまったのか分からない硝は、突然の剣幕にたじろいだ。
「だから別にっ、料理作れないわけじゃ……!」
「オレは作らないって言っただけで、作れないとは…」
「うぐっ」
咲が奇妙に呻いた。今度は怒りじゃなく、羞恥心で顔が赤い気がする。彼女の目は、ちょっとだけうるうるしていた。
「な、なんで泣く⁉」
「泣いてないっ‼」
慌てる硝と、意地を張り続ける咲。僕は二人を眺めながらパンにかじりついた。少しの間、どこか微笑ましい二人のやり取りを見物していると、居間から彼女が現れた。
「お二人とも朝からお元気ですね」
彼女は言った。決して笑いを誘ったわけでも、皮肉を言ったわけでもない。ただ、しゃべる速度とか、声の抑揚や大きさとか、そういった二人の行動と、人の平均的な朝の行動を比較したうえで述べた、単なる事実だ。彼女は感想を口に出したりはしない。二日共に暮らして、分かったことだ。
「お二人とも朝からお元気ですね」
彼女はもう一度繰り返した。何かしらの反応を見せなければ、何度でも繰り返し言い続けるに違いない。
「ああ、……だね」
僕は曖昧に返事した。まあ、確かに元気だな。
「玖円様」
「うん?」
「質問をよろしいでしょうか」
「はい? ああ、どうぞ」
眉一つ動かさず、徹底した無の表情で彼女は言った。
「お二人のあのやり取りは、いわゆる痴話ゲンカというものでしょうか」
「あ、いや……」
違わない、のかな?
いつのまにか、二人の言い合いは違う方向へ曲がってしまっていた。咲に至っては、「あたしの何を知ってるのよ!」とか言ってるし。ていうか、ここまできて咲が怒っている理由が分かっていないらしいあの男がすごいと思う。すでに痴話ゲンカとなりつつある二人の言い合いであった。
「お二人のやり取りは、いわゆ…」
「に、似たようなもの、かな」
質問を繰り返そうとした彼女にかぶせ、僕は返答した。ぴたりと言葉を止め、数秒固まった彼女は再び赤い唇を開き、
「有難うございます。ただいまの回答及び音声、映像は、今後のサービスに役立てるため、記憶データ上に保存いたしました」
そんな知識保存すんな。
騒いでいるうちに、朝の貴重な時間は瞬く間に過ぎてしまっていた。僕らはパサパサのパンを口にほおって、白墓から支給された作業着を同じく支給されたリュックに詰めた。
僕らがぞろぞろと階段に向かうと、彼女も見送りに来てくれた。
「玖円様」
「はいはい」
「皆様がお留守の間の、私の予定をお申し付けください」
命令がないと動けないわけではない。だけど、彼女は最優先事項や、必要最低限の仕事が与えられないと食事をすることができない…らしい。
「うーん。九時になったらおじさんを起こしておいて。中々起きないようだったらそのままにしていていいよ。あと、お昼ご飯は……」
「冷蔵庫にあるもん適当に使って」
「硝の言った通りに。あとは……特にないや」
彼女が固まる。そして、
「了解いたしました。では、いってらっしゃいませ。硝様、咲様、玖円様」
「おう」
「はーい」
「いってきます。―――ナツ」
ナツ。
これが、彼女の今の名前だ。
ナツは感情というものを一切感じさせない瞳で、僕らが階段を降りきるまで動かなかった。僕らは赤い太陽のロゴが小さくプリントされたデイバックを背負い、何の変哲もない一日をスタートさせた。
彼女がナツになったのは、今から二日前、一昨日の話だ。
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