僕の本心

 僕に与えられた時間は着実に削られていき、決断ができないまま夕方になってしまった。


 普段なら硝や咲と一緒に帰ることが多いのだが、昨日あれだけ咲と喧嘩してしまったので、なんとなく一緒に帰る気にはなれなかった。ひとり鬱々とメインロードを歩く。


 咲は、ナツを助けろと言った。

 網野さんは、我儘になってもいいと言った。

 けどそれは、僕にそんな勇気があったらの話だ。


 僕は弱い。はみ出さないように、些細な幸せを感じられる日常を続けていけるように、自分自身を守ることで精いっぱいなのだ。


 日常?

 僕はふと立ち止まって考えた。僕にとっての幸せな日常って何だろ。特に危険な目に遭うことなく、生きていけること。なんか違う。白墓で働いて、一定のお金がもらえること。いや、それだけじゃあ足りない。朝起きて、寝ているおじさんに行ってきますを言って、咲、硝と話をしながら白墓に向かって、網野さんと仕事して、家に帰って、ただいまを―――――。


「ナツに、言って」

 気が付いたときには、ナツはもう僕の当たり前で大切な日常の中にいた。

 彼女を見捨ててしまえば、僕はきっとこの先の長い時間を生きていけるのだろう。


 でもそれは本末転倒ってやつで、僕が守りたい日常の風景は戻ってくることはない。


 僕は彼女をどうしたらいい。

 どうしたいんだ。


「玖円様」

 はっと我に返ると、背後にナツが立っていた。僕は何故ここにナツがいるのか分からず戸惑った。


「こんなところで何してるの……!」

「おじさまに頼まれて洗濯をしようと思ったのですが、洗濯用洗剤が切れていましたので、それを買い求めておりました」


二、三か所パッチワークで補われているエコバッグを軽く持ち上げるナツ。どうやら彼女は帰宅途中のようだった。


少しだけ安心して、僕は彼女の隣に並んだ。

「じゃあ、もう用事は済んだんなら家に帰ろう」

「はい、ですが、一つ質問がございます」


 ナツが自主的に発言するなんて珍しいと思いながらも、彼女の言葉に耳を傾ける。


「何?」

「さきほどから玖円様を見ておられる方がいます。お知り合いであれば、声をかけたほうがよろしいかと」


 どきりと心臓が跳ねる。

 僕は勢いよく振り返った。


「―――――な、」

 暑そうな漆黒のスーツを纏った女の人が二人。

 往来の中、少し離れたところにいるナオさんと目があった。


 彼女は涼しげに美しい微笑をたたえると、もう一人の女性をひきつれて、こちらに歩んでくる。


「―――行こう、ナツ!」


 なんで自分がその選択をしたのかは分からない。

 でも、体が勝手にそう動いていたんだ。


 僕は黙って引っ張られているナツを連れ、必死に逃げることだけを考えていた。


 家に帰ろうと思ったけれど、おじさんたちが危険にさらされるかもしれない。白墓に戻っても、きっと味方になってくれる人なんていない。

 僕は走っているうちに、メインロードを外れ、人通りの少ない路地に入ってしまっていた。早く、早くどこか隠れて――――。


「こんにちは、玖円君」

 低めの、きりっとした女の人の声。

 夕暮れのまぶしい光に照らされて、こちら見ている真っ黒い影が二つ。


「約束、守ってもらえませんか?」

 ナオさんはさきほどと同じ微笑を浮かべていた。僕は掌が汗だくになるのを感じながらおそるおそる彼女に訊ねた。


「どうしても、ですか?」

「どうしても、です」

「あの、もう少しだけ、ほんの少しだけでもいいんです。まだ、心の整理がつかないっていうか、いきなりこんな形でナツと別れるなんて―――」

「我儘はいけません」


 笑顔のまま、だけど突き放すような口調でナオさんは告げた。

「勝手に持ち出したのはあなたでしょう? たかがアンドロイドに情が移ってしまう若さには好感が持てますが、大人の事情を考慮できないほど、あなたは子供でもないでしょう?」


 僕は言葉に詰まった。ナオさんの言っていることは正しい。でも、それじゃあ何も納得できないでいた。

「………その、僕はなにも、絶対に渡さないと言っているわけではなくてですね……」

「もういいです。コウ」


 ナオさんは僕の発言を最後まで聞かずに、ちらりと部下らしき女の人を見た。ヘルパーと思しき深紅のチョーカーを着けたその女性は、僕と同じくらいの高身長で、男物のスーツを着ていた。高い位置で結ばれた背中まで伸びるポニーテールが、彼女の静かな迫力のようなものを助長している気がする。


 コウと呼ばれたその女性は、ナオさんの声にも微動だにしなかった、のに。


「対象の一時的な拘束を許可します」


 その言葉がナオさんから発せられた瞬間、彼女の姿が目前まで迫った。

 脳が危険を察知した時には、僕の体はすでに地面に押し付けられていた。頬が小石に削られたのを感じる。


「Ko-Ver.5――通称コウです。モデルは五年前のものと少し時代遅れですが、充分使えますよ」

 時計か何かを自慢するような口ぶりで説明しながら、ナオさんはコードレスのヘッドフォンを取り出した。それを手におもむろにナツに近づく。


「ナツ、逃げ―――いっ!」

 言い終える前に、コウさんに腕をひねりあげられる。激痛に耐えているうちにナツはなすがままヘッドフォンを取り付けられ、数秒後に意識を失った。


「な、にを……!」

「スリープモードに切り替える音声パスワードを入力しただけです。今は脳死剤のスペアも、施す設備も整っていませんから」

 ナツからヘッドフォンを外して、ナオさんは僕の方へと近づいてきた。僕の横にしゃがみ込むと、コウさんが抑えている僕の腕に向かって注射器を刺した。


「やめっ……!」

「安心してください、ただの筋肉弛緩剤です。しばらくしたら動けるようになりますから、それまでここでじっとしていてくださいね」

 体が言うことを聞かなくなっていく。コウさんが僕から身を話した後も、僕は立ち上がれずにただナオさんたちを見ることしかできなかった。


「では、私たちはこれで」

 コウさんがナツを抱えるのを確認すると、ナオさんはコウさんとともにその場を去っていった。


「待って…………!」

 僕の体は動かない。

 ナツはどんどん離れていく。


 どれくらい時間が経過したころだろうか。鬱陶しいくらいにまぶしかった夕日が薄れ、空が夜を纏おうとし始めたころに、僕はゆっくりと体を起こした。

汚れたコンクリートの壁に背を預け、僕は首をもたげる。


彼女たちがどこへ行ってしまったのかも分からない今、僕にはどうすることもできない。


最初から、ナツを守るつもりで立ち向かっていたら、何か変わっていたのだろうか。


失いたくなかった。どんなことをしてでも、彼女を守ってあげられたらよかった。


 そんな後悔があとからあとから僕の心内を蝕んでいく。

「…………うっ」

 泣いたって何も変わらないだろ、ヘタレ。どうするか決められなかった自分が悪いんだろ。心のどこかでそんな風にさけずむ自分自身がいる。


「失いたく、ない……」

 でも、まだ諦めきれない自分もいて。


 自分が何をしたいのかも分からなくなって、どうしようもなくただ目から流れる水滴が枯れるのを待った。

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