僕の回想

 これは、僕が退学するちょっと前に知った、僕の家の事情ってやつだ。


 そのときのことは意識的に忘れようとしていたから、誰に聞いたのかはよく覚えていない。当時住んでいたボロアパートの大家さんからかもしれないし、その日僕を一時的に保護してくれた警察の人からだったかもしれない。


 僕の母さんは灰街にある居酒屋の一つで働いていた。子供であった僕から見ても地味で、部屋の隅にいたら誰も気づかないような人だったし、男女のお付き合いなんてものとはほぼ無縁の生活をしていたみたいだけれど、それでも恋はしていた。


 その相手が、父だ。


 まだ若いのに、毎日毎日やってきては飲んだくれて乱闘までおこす父のどこに惚れたのか、僕には理解できない。話に聞いただけでも、付き合ったとしてうまくいかないのは目に見えるようだった。それなのに、母さんは父のそばにいることを望んだ。


 どうしようもない父は女にもだらしなく、母さんの好意を真剣に考えることもなく、あっさりと受け取った。


 付き合いだしたら案外まともな生活を送ってくれる。母さんは大胆な期待をしていたかもしれないけど、当然それは的外れなものだった。父さんは僕が生まれても借金ばっかり作っていたらしいし、女遊びも直る兆しはなかった。そのくせ収入は母さんに頼りっぱなしだからなかなか別れようとしないうえ、お金を渡さないと、たとえその場に僕がいたとしても容赦なく母さんに暴力をふるっていた。

 

 僕の一番古い記憶で今も鮮明に覚えているのは、酔った父が母さんを蹴り飛ばして壁に叩きつけているところである。それくらい、父の暴力は激しかった。このころから、たぶん母さんの心のバランスも崩れてきていたと思う。


 借金が膨れ上がり、ヤのつく職業の方たちが家に来るようになった途端、父は母さんを受け入れた時と同じくらいあっさりと僕ら―――というより母さんを捨てた。これが、僕が十歳になるちょっと前までの話だ。


 それから僕が小学校を卒業するまで、僕と母さんの暮らしはそれなりに穏やかに過ぎた。母さんの心が壊れかけていることはとっくに気づいていたけど、おかしいなりに母さんは僕を愛してくれたし、僕も母さんが大好きだった。でも、それも小学校までだ。


 そろそろ中学にあがるという時期になってから、母さんは時折僕を恐怖の対象として見るようになった。もともと病んでいる気はあったから、最初はちょっと神経質になっているだけだと思った。


 蒸し暑い夏のとある平日。いつも通り、僕は学校から帰ってきた。母さんは夜遅くまで帰らないことが多いのに、何故だか早めに帰ってきたのだ。ちゃぶ台で勉強していた僕を見て、母さんは小さく悲鳴を上げた。これも神経質になった母さんの行動の一つと思えることができたらよかったのだけれど。


 僕は、その目の色を知っていた。


 怒りと恐怖と憎しみとに呑まれた瞳は、ほんの数年前まで、父に向けられていたものであった。


 数秒のことで、母さんの表情はすぐにいつも通りのどこか狂った柔らかいモノへと変わっていたけど、確かに、母さんは僕のことを父さんを見るような目で見ていたのだ。僕はそれから、母さんの目を見ることを避けるようになった。


 当時の僕には、咲と硝以外にも何人か友達がいた。そのうちの一人で、僕の住居から少し遠いところにいるヤツがいた。むせ返るように暑い夏の時季、僕はそいつに誘われて二日ほどかけて彼の家に泊まりに行っていた。母さんのことは心配だったが、笑顔で送り出してくれたのでおそらく問題ないだろうと思って。


 三日後、もうすぐ正午になろうとする頃、僕は二日ぶりにドアノブを握った。


「…玖円、玖円? どこにいるの……? 玖円?」


 奥の方から母さんが僕を呼ぶ声が聞こえた。

「出ていらっしゃい、玖円。ねえ、玖円?」

 神経質そうで今にも泣きそうな声音。やっぱり二日も離れるんじゃなかったなあなんてちょっとした後悔を感じながら、僕は母さんの呼びかけのような独り言に答えた。


「母さん」

「くえ……え?」

「ただいま」

「…………え、あ?」


 最初、母さんは目の前の状況が呑み込めていない表情で僕を見つめた。やがて落ちくぼんだ大きな眼球をさらにむき出しにさせ、


「い、ああぁぁああぁぁぁぁあああ!!!」


 今度は僕が状況が呑み込めないでいた。


 すがるように僕の名前を呼んでいた母さんは、今、僕の姿を見て恐怖し、部屋の隅へと這っていった。わけが分からない。


「母さん?」

「いやぁああ! どうしてっ、戻ってきたのよ!」

そりゃあここが我が家なんだから、帰ってきて当然だろう。とうとうヒステリーを起こしてしまったのか。錯乱している母さんにそっと近づき、興奮させないように話しかけた。


「ただいま、母さん。玖円だよ、分かる?」

 これで、落ち着いてくれる。


 ―――はずだったのに。


「くえ…ん。そうよ、玖円は?」

「え、何……」

「玖円は⁉ ねえ、玖円はどこよ⁉」


縮こまっていた母さんは、突然僕にしがみついた。しゃがみ込んでいた僕はたまらずしりもちをつく。母さんは僕に迫るようにして問い続けた。

「あなたが玖円を連れて行ったのね⁉ 何日も帰ってこないから家出しちゃったかと思ってたけどあなたなの⁉ かえしてよ! あたしの小さな玖円をかえして! これ以上あたしたちに関わらないでよ!」


 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした母さんを、僕はただ呆然と見ていた。とうとう元夫と自分の息子の顔とを判別できなくなった母さんは、黙り込む僕の膝に爪を立てて喚き散らす。


 たった、ほんとにたった二日離れただけなのに。


 母さんの悲鳴を聞きつけて大家さんが駆けこんできても、僕は放心していた。正直、母さんが僕から引きはがされて地下都市の精神病院に搬送されるまでのことも、あまり覚えていない。


 しばらくして、僕は通学するためのお金が無くなり、補助してもらえるほどの成績でもなかったので、中学を退学した。母さんの働いていた居酒屋の常連だった酒石さんに引き取られたのは、それから間もなくのことであった。


 別に母さんを恨んでいるわけじゃない。いい思い出は少ないけれど、あそこまで僕を大事に思ってくれる人は、きっとこれからも現れないから。


 でも、その愛情も人形の玖円にとられてしまった。


 それどころか、もう母さんは僕を玖円として見てはくれない。

 悲しいけど、僕はこれを受け入れて生きて行かなくちゃいけない。

 思い出したくもない、忘れたい過去は、どうやっても拭えなかったから。

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