僕の母さん
硝と咲と別れた後、僕は母さんが入居している療養施設に来た。すぐ横を歩いていたナツは、やっぱり地下都市でも目立った。端正な顔立ちだからではなく、表情の無さが衆目を引きつけていたと思う。
受付で面会の手続きを済ませると、さっそく介護用のアンドロイドが現れた。
「
「私はナツです」
「れ、レンタルしているアンドロイドです」
「そうですか。では玖円さん、こちらにどうぞ」
あたたかな内装の中を案内されるままに進んだ。足を前に踏み出すたびに、体がこわばっていく。見てはいけない、会ってはいけないと、喚く感情を少しでも落ちつけたくて唇をかんだ。
「強く噛んだら出血します。気を付けてください」
「え、あ…ごめん」
僕の小さな挙動もちゃんと見ていたナツに注意され、少しだけ、ホントに少しだけ、気が軽くなった。
「こちらです。何かございましたら、室内に取り付けられた電話をご利用ください。では、ごゆっくり」
アンドロイドが廊下の曲がり角に消えたのを見届け、ドアノブに視線を移す。ちょっと黙想して、深呼吸。よし、入ろう。
ドアの脇に取り付けられた、入居者プレートをガン見しているナツを一瞥したのち、僕はドアを押し開けた。
真っ先に目に飛び込んできたのは何の変哲もない小さな玄関と短い通路、その先に部屋があることを示唆するスライド式の扉だった。半開きになったそれからは、ちゃぶ台の端が見えている。
「………」
何も言わずに靴を脱ぎ、扉まで近づいた。部屋の中から子供をあやすような穏やかな声が聞こえた。
「いい子ね、……おやすみ、おやすみなさい」
幸せそうな母の声に、扉を開けることを躊躇する。中の光景を想像して、息が苦しくなってしまった。
ナツが問いかけることも、促すこともせずに、僕の行動を待っていた。
「……母さん、入るよ」
聞こえたかどうかも分からない声で呼びかけて、僕はそっと扉をスライドした。
ちゃぶ台とベッド、テレビのみがその部屋にある家具だ。母さんは白髪の混じった髪をゆるく結って、ベッドに腰かけていた。そしてその腕の中には――――
「…玖円、大好きよ。どんな夢を見ているのかしらね。わたしの玖円」
毛糸の髪の、ボタンの目の、僕の代用を抱いて愛おしそうに見つめていた。
どれだけ夢中になって見つめているのだろうか。母さんは僕らに見向きもせず、狂気的な雰囲気さえ孕ませて、一心に人形を愛でている。これもいつものことで、僕は母さんのその様子を少し眺めて、気づかれずに帰ることもしばしばあった。今日もそのつもりで来たのだが、
「――あれは玖円様ではございません。人形です」
感情を解さないナツが小声で話すということなんてなく、涼やかな声がワンルームに鮮明に響いた。
「……誰よ」
途端に、母さんの声色が鋭くなる。僕は諦めて、片足しか踏み入れていなかった部屋に入った。
「……」
「あ――!」
僕を捉えた母さんの目が見開かれた。人形を抱く手が震え、穏やかで優しげな表情は払拭された。かわりに、恐怖と憎悪がごちゃ混ぜになったようなものへと歪んでいく。
「あ、いや……。ああぁぁあ!!!」
あーあ。
だから嫌なんだけどなあ、会うの。
息子と夫の区別もつかなくなった自分の母親を見て、僕は静かに感情を殺した。
動揺した母さんはベッドの隅の壁に背を押し付け、胸に抱いた人形をかばうように僕と対峙した。
「玖円は、わ、わた、渡さないわよ」
「……僕が、玖円だよ」
無駄だと理解していながらもかすかに希望を込めて告げたが、やっぱり聞いてくれない。
「く、玖円を、引き取りに来たんでしょう?」
「…かあさ」
「いや! こっちに来ないで! 玖円は私の息子なの」
ほんの少し足を踏み出しただけでこの始末だ。こっちの話を聞く気も無ければ取りつく島もない。
「…体は大丈夫みたいだね」
「お願い……帰ってよ。その汚い女と帰って」
母さんは僕の背後で微動だにしないナツを睨みつけた。その言葉と視線が自分に対してのものだと気づいたナツはわずかに首を動かし、ベッドに座る母さんを見た。
「私は汚くありません。何故なら――」
「ナツ、黙って」
振り返らずに制すと、数秒後に「――了解しました」と返事が返ってきた。やり取りを見ていた母さんが侮蔑に口を歪ませた。
「こ、これ以上、あたしと玖円に関わらないでよ。もう、いいでしょ。あなたとは二度と会いたくないのよ」
「――玖円は、僕だ」
宣言した途端、母さんが何かを投げた。それは僕の頬に強くぶつかり、割れた。足元には、手のひらサイズの観葉植物が無残に土をまき散らしていた。頬に鈍い痛みと鋭い痛みが同時進行で広がる。
「出て行って……!」
縮こまって体をこわばらせる母さんの両眼を、怯えを上塗りするような憎悪が色濃く覆っている。
「は、はやく出て行ってよ…! もう、顔も見たくないわ」
「……また様子見に来るよ」
「あなたなんか、死んでしまえばいいのよ……!」
母さんの罵声を浴びながら、僕は部屋を出る。
「……ふぅ」
らしくもないため息が漏れた。僕に向けた言葉じゃなくても、さすがにさっきのはキツかったかな。
「大丈夫ですか。表情がすぐれません」
すぐ後ろを歩くナツが言った。自分がそんなに暗い顔をしていたとは思っていなかったから、少し驚いた。
「ちょっとだけ、ナイーブになっただけだよ」
体の力を抜いて、指先で頬に触れる血液を拭い、舐めてみる。ひどく不快な味が口腔にしみた。
母さんは病んでいる。
それに、あれは父さんに向けて言った言葉だ。
僕は気にしなくていい。
そんなこと表面では分かりきっているのに、僕の心中は灰色の霧か何かがまとわりついているようにすっきりしなかった。
*
「ごめん、変なことになっちゃって」
近くの自販機で買ってきたジュースをナツに差し出した。姿勢正しくベンチに腰掛ける彼女はそれを受け取りながら、
「有難うございます。質問をよろしいですか」
「うん」
「変なこと、とはどんなことでしょうか」
「……さっき、母さんが取り乱してたとこと、だよ」
「――そうですか。しかし玖円様が謝罪する必要はございません。私はワンコインですので、お客様のご不満に応えることはあっても、お客様に不満を抱くことなどございません」
「そう、か」
僕も彼女の隣に腰を下ろした。
頬の手当てをしてもらった後、僕とナツは予定よりもずっと早くに施設を出た。時間が余っても僕は遊んでまわりたい気分じゃなかったし、ナツに至っては気分以前の問題だ。あまり目立たない小さなベンチを見つけ、硝と咲が来るまで待っていることにした。
水滴の付いた冷たい缶ジュースを一口飲んで、息をついた。
沈黙が僕らの間に降り立って、とても重たい空気が広がる。
もちろん、ナツは空気なんて気にしないから、この雰囲気を“重たい”なんて感じているのは僕だけで、彼女は缶ジュースを機械的な動作で飲み続けている。
「あのさ」
「はい、なんでしょう」
「ちょっと、話聞いてもらってもいい? ただ聞き流すだけでいいし、あとで忘れても構わないから」
ほんとうに、なんで僕はこんなことを言い出したのだろうか。別に心が壊れてしまいそうなほど思いつめていたわけでもないし、同情が欲しいわけでもないのに、口から言葉がこぼれてきた。すぐそばに座っている彼女は缶ジュースを一口飲んで、
「――了解いたしました」
いつものように承諾した。
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