僕のジュース

「玖円君さあ、残業あった時、なんかしくじったんじゃない?」

「ごふっ! ゲホッゲホ」


 唐突に今一番悩んでいることの原因を当てられて、僕は飲んでいたジュースを盛大に吹いた。おまけにむせた。


 僕と網野さんは休憩の最中であった。白墓内にいくつも設置されているベンチの一つを、二人で占領している。ひと月前の残業の日に、ジュースをおごるという約束をした網野さんが、今日になってそれを思い出したのだ。いきなりジュースを差し出されて「お礼よう」と言われた時は、僕は何のことかわからなかったけれど、理由を聞いたときはとても嬉しかった。


網野さんはいつも突然思いついたように行動するので、いまだに驚かされることが多い。今は悪い意味でとてもびっくりした。というか、超ビビった。

「な、なん、何で……⁉」

 テンパって口をパクパクさせるだけの僕に、網野さんは愚痴をこぼすような軽い調子でわけを話した。


「それがねえ、上がやたらとひと月前の残業について聞いてくるのよ。ちゃんと数をチェックしたか、とか、盗まれたようなあとはなかったか、とか。あたしがいるときは異常なかったはずだから、玖円君に任せた最終日になんかあったのかな、って思ったの。ほらぁ、玖円君、意外とおっちょこちょいじゃない? 箱壊しちゃって、中の遺体とかどこかに隠したんじゃないかしらー、なんて考えちゃったのよー」


「ハ、ハハハハ………」

 ほぼ正解である。


「…否定はしないのねぇ」

 やる気のなさそうな目が、さらに面倒くさそうに僕を見た。……返す言葉もございません。


 もういろいろ見透かされているようだったので、観念して一か月前から現在の状況までをざっくり説明した。僕が話すたびに、網野さんの目がどんどん細くなっていった。聞いたことを後悔していそうだな。


「……聞くんじゃなかったわ」

 ほらやっぱり。


 何か言われるかと思ったが、そうでもなかった。

 網野さんは自分が持っていた缶コーヒーを飲みほし、ベンチから腰を上げた。自販機横のゴミ箱に空き缶を投げ入れ、さっさと仕事に戻ろうとする。僕の話を本当に聞いていたのだろうかと疑いたくなるほど、あっけないリアクションだった。僕はそんな上司を慌てて追った。


「え、えーと、網野……さん?」

「なあに」

「僕の話、聞きましたよね?」

「なんのことかなぁ」


 目を合わせてくれない。


「……聞きましたよね?」

「ごめーん、聞いてなかったわ」

「いやいや、聞くんじゃなかったとか言ってたじゃないで――」

「なーんにも、聞いていないわ」

「……………そうですか」


 聞かなかったことにするのか。そうかそうか。

 ならば僕だって深くは突っ込まない。実際、網野さんはこんなこと知っていてもリスクしかないのだから。


 立ち上がって缶の中身を一気に飲み干そうとしたとき、うっかり歩いている人にぶつかってしまった。


「おふっ、ごごごめんなさい!」

 本日二回目。だらしなく口からこぼれたジュースを拭いながら、反射的に謝った。


「いいえ、気にしないでください」

 低めの、はっきりとした女性の声に少し驚き、相手を見た。

 その人は作業服を着ていなかった。


 パリッとしたシャツ、シンプルだけど値が張りそうな黒スーツに身を包んだ、地下都市で見かけるようなキャリアウーマン風であった。つやつやしたロングヘアを耳にかけながら凛とした微笑を浮かべている姿は、灰街ではあまり見ることのない類の美しさを放っている。


 美人だな、と凡庸な感想を抱いたのち、やっと僕は重要なことに気づく。

 白墓内で作業服を着ていない、妙にこぎれいな人間。


 ――――おそらく、関わるべきでない裏の人である。


 全身の血の気がどこかへと去っていくような感覚を覚え、気づいたころには全力で頭を下げていた。


「スイマセン! ほんっっとにスイマセン! あっあのっ、服、服とかその…汚れたり…!」

「どこも汚れていませんので、そんなに謝らないでください。なんだかこっちが申し訳なく思ってしまうわ」

「いや、でも……」

「それに、汚れてしまったのはあなたの方でしょう?」


 目の前の美人さんは優しげな笑みを崩すことなく、僕にハンカチを手渡した。その動作の一つ一つでさえも洗練されている。


「ありがとう…ございます」

 こんな事はされたことないので、対応に困ってお礼すらもはっきりと言えなかった。たいへん情けないことである。


 予想よりずっとすべすべした布地に驚きつつ手を拭いていると、美人さんの視線が僕に注がれていることに気が付いた。


「あのー、僕また何かしましたか…」

「ああ、いいえ。ごめんなさいね、まじまじ見られて不愉快だったかしら」

「いえいえっ、そんなことないんですけど」


 まあ、見られて嬉しいわけでもないけどね。ただ、僕を見る彼女の目が、観察対象を見るように冷ややかであった気がしたのだ。たぶん気のせいだ……ということにしよう。


「玖円君……変わった名前ですね」

「よく言われます」


 自分の胸元のネームに視線を移した。そこで美人さんの名前を知らないことに気づくが、聞いてもいいのか分からなかったので言葉に詰まった。しかし彼女は、


「私は藤宮ナオと申します」

 意外にあっさりと名乗ってくれた。

「藤宮さんですか……。その、ハンカチ、洗って返したいんですけど」

「差し上げますわ。それに、ナオでいいですよ」


「あっ、ごめんなさい」

「もう、謝らないでください」


 上品な微笑。僕は何故か緊張してしまい、ナオさんの目が見られなかった。

 僕は自分が舞い上がっていることがはっきりとわかった。散々硝に呆れていたけど、僕も大して変わらないな。


そんなことを自覚しつつもナオさんと談話を続けようとすると、僕の背後からぴしゃりとクールな声がかかった。

「玖円くーん、ダメじゃないの。仕事もあるのに、うっかりさんねぇ」

「あ、お仕事の最中でしたよね。申し訳ございません、長く引き留めてしまって」


 ナオさんは軽く会釈をして謝った。僕もつられてお辞儀をする。

「いえ! 引き留めちゃったのはこっちの方ですよ。それと、やっぱりこのハンカチ、返します。だから……」

「まあ、ありがとうございます。それでは、また」

「え? いや、だからいつ会うか……」


 日程を聞こうと思ったのに、言葉を遮られた上に彼女は背を向けて廊下を歩いて行った。途中で部下らしき女の人が現れて、二人で何か資料のようなものを見ながら廊下の角に消えてゆく。


「……行っちゃった」

「キレイなお姉さんとお話しできてよかったわねぇ」

「はい。……は? あ、すいません今の間違いです」


 返事をしてから質問の意味を解し、慌てて否定した。けど遅かった。網野さんの口調はあくまで軽く、しかし目は笑っていなかった。


「なーにが間違いよこの思春期男子~」

「いやいや適当に返事しただけですって!」

「毎日色気のないあたしと一緒じゃあ、ちょっと若い子と知り合うと舞い上がっちゃうのも仕方ないわねぇ」

「え⁉ 僕それ口に出してな……あ、いや、それ以前にそんなこと思ってませんから絶対」

「女の勘ナメんじゃないわよ~」

「ほんと勘弁してくださいよ。網野さんは三十でも若々しくてキレイ…」


「あら玖円君。あたしはまだ二十代よう」


 後ろからついてくる僕を振り返った網野さんは、口の端だけで笑っていた。怖いというか、不気味だ。


「そんな怒んないでくださいよ」

「怒ってなんかないわ」

「ごめんなさいって。網野さんもお綺麗ですよ」

「網野さん『も』?」

「ああっ、もう!」


 女心って難しい。それ以前にこの人、拗ねるとこんなに面倒になるのか。

 上司のご機嫌取りをしているうちに、僕は先ほどのナオさんとの出来事や、彼女に感じた違和感も忘れてしまっていた。


「あ、そうそう玖円君」

「はい」


 帰り際、普段と同じように別れようとすると、網野さんがそれを止めた。いつもよりほんのちょっぴり真面目そうな顔になった彼女は、いつも通りの面倒そうな口調で告げた。


「なんかねぇ、気になるのよね」

「…と言いますと?」

「昼に会った彼女」

「ああ、ナオさんのことですか? まあ、一般人に公開できるようなことをするために白墓に来ていたわけじゃないことは、なんとなく感じましたが」


 あっちも僕らに深くかかわる気はなさそうだった、だから特に問題はないのではないかと思っている。網野さんに意見を伝えると、

「そう言われちゃったらうなずくしかないんだけど。なーんか気になるのよねー」

 うーん、とか、ふむー、とか変な唸り声をあげる網野さんを、僕は黙って見まもっていた。


妙に勘のいい人なので、もしかしたらナオさんは本当に危ないのかもしれない。まあ、どう危ないのかは分かんないけど。だから網野さんがそのことで心当たりがあるのなら、僕は彼女の思考を極力遮らないようにしたかった。……のだが。


「んー、やっぱ何でもないわ。おつかれ、玖円君」

 あっけにとられて口すらも開かない僕をおいて、さっさと帰ってしまった。本当になんなの、この人。

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