§26 十万人の山田太郎さん

 朝。


 気がつくと、いつかと同じ天井が見えた。


 ――ということは、力哉の部屋だった。


「起きたか」


 目の前に、体温計を差し出した力哉が立っていた。新しいルームウェアにブカブカのカーディガンを羽織っていて、手櫛程度ではあるけれど髪も整えた形跡がある。


「三十七度七分。平熱より少し高いけど、ずいぶん楽になった」


 奈々美はソファーから飛び起きて、小さな液晶画面を覗き込む。


「でも、まだちょっと鼻声ですね」


 とはいえ、三十九度もあった昨夜に比べれば上々の回復ぶりだった。


「腹が減った。卵とベーコンを焼くけど、食うか?」

「あ。私、やります」


          *


「ふぅ……うまかった! リリさん並みとはいえないが、トップクラスの加減で焼けてたぞ」

「そりゃそうですよ。リリねえはプロなんですから」


「ああ。だから俺は、の目玉焼きだったと評価してるわけだが……伝わらなかったか」


 ――病人のクセして、嫌味な毒舌は相変わらず。


「目玉焼きは難しいですからね」

「でも、今のは合格だ。それに――」


 この怪しげな。また何かネチネチ言われそうな状況を直感して、奈々美は軽く身構えた。


「昨日、あのタイミングで着替えさせてくれたのは気持ちよかった。体温計とか氷枕とかを買ってきてくれたのも、ありがたかった。お金、これで足りるか?」


 ポケットから一万円札。ということは、準備していたらしい。


「いえ。そんなには……」

「手元にある現金はこれだけなんだ。お礼も込みで受け取って」


 福沢諭吉さんが、テーブルで手持ち無沙汰にしていた。それはそれとして、奈々美には希望があった。


「あの……お礼なら、別の形でしてほしいです」


 すると、力哉は口元でニヤリと笑った。悪魔が微笑むみたいに。


「わかった。ただし、今の俺はこんな状況だから、体力を使わないジャンルのお礼に限定してくれ」


 ――それ、若い男女がふたりっきりで密室にいるから言ってます?


 ――言ってますよね?


「もしかして、エッチなこと考えてます?」

「顔。赤くなってるぞ」


「んもう! 私、嫁入り前なんですから!」


 奈々美はテーブルに手をついて立ち上がり、全力で猛抗議した。


「あははは! わかったわかった!」

「まだ三十三なのに、おやじネタには早いです!」


「で、どんなお礼をすりゃいい?」


 ――来た!


 千載一遇。このチャンスを逃す手はなかった。


「いくつか質問があります。それに、答えてください」


 意外にも、力哉はすんなりとうなずいた。「コーヒーでも入れようか」と立ち上がったのを阻止して、奈々美がキッチンに向かった。


          *


「あの、『恋する心理学』の第十巻はいつ出るんですか? デスクに完成稿が置いてあるのに、まだ未完成なんですか?」


 奈々美はいきなり直球を投げた。『恋する心理学』のシリーズ全九巻と、それ以外の長編三冊。竹早憧夢の著作は全部、何度も繰り返し読んだほどの大ファンであることも追記して。


「書いてあるよ」

「だったら、早く出してください」


 力哉はカップを口に運ぶ。ひと口すすって、「熱のせいで味覚がおかしくなってるなあ」と独り言を言ってから、本論に進んだ。


「実は、エンディングが三パターン書いてある。俺はCにしたいんだけど、編集部はAにしろと譲らない。折衷案のBも受け入れてくれない。この点で明確に歩み寄れないことと、別件でも編集部に対するモヤモヤがあってね……。で、保留してるってのが現状」


 力哉はこともなげに答えた。


「Cって何ですか」

「主人公の仁上とサヤカ。お前は、どうなるべきだと思う?」


「幸せに結ばれてほしいです」

「Cは、サヤカが死ぬんだ」


「ええ――っ。それはダメですダメです。絶対にダメ!」

「俺、あのシリーズは五巻で終わりにしたかったんだ。でも編集部の売り上げのためにと九巻まで引っ張った。そろそろ潮時だろ?」


「かといって、死ぬのはダメです。却下です。編集部が主張するA案は、ふたりが結ばれるエンディングですよね? それにしましょう」

「ありきたりだろーよ」


「ちなみにBは?」

「サヤカが仁上のもとを去る」


「はい、それも却下。Aで決まりです」


 奈々美は断言した。悪魔のドヤ顔が乗り移ったみたいだった。


「お前の今の顔。あのシリーズを最初に手がけてくれた編集者とそっくりだ」

「まさか男性じゃないですよね?」


「違うよ。水口さんっていう素敵な女性」


 と、A案をゴリ押ししたことで奈々美は話題を切り替える。


「あの……執筆のスランプを抜け出す心理学はありませんか?」

「ない」


 悪魔は一瞬も考えなかった。


「なんで、そんなことを聞く?」


 そこで奈々美は、自分の状況を説明した。に追いつきたい一心で、ユーモアミステリー小説を書いていること。でも、暗礁に乗り上げていること――。


 すると今度は、力哉がドヤ顔をするターンに変わった。


「妹。お前は嘘つきか」

「なに言ってるんですか。嘘つきなんかじゃありませんよ。真面目です」


「だったら、作家には向いてない。無理だ。諦めろ」

「……へ?」


「お前。もしかしてバカか?」


 ――ま


 ――また言った! バカって言った!


「嘘にも適材適所ってもんがあるだろう? 医学が薬という毒によって病気を制するように、正しく磨かれ配置された嘘は人を途方もない悦楽に導くことができる。その正しく配置された嘘の別名が、フィクションだ」


「……」


「フィクションである小説の目的あるいは存在意義は、作家が脳内で練り上げた嘘を読者に開陳して騙されてもらうという一点に尽きる。気持ちよく騙されてもらうためには、作者は作品全体を大きな嘘で狡猾かつ美麗に包み込む必要がある。そして、その大きな嘘を貫き通すために、小さな嘘をつかないことが重要になる。――ここまではわかったか」


「……なんとなく」


「なんだ。お前には、サル並みの知能しかないみたいだな。人類の進化系統樹から外れた珍種か突然変異か何かか」

「……ちょ」


「じゃあ、歳末謝恩大サービスで幼稚園児向けのクイズを出してやる。東京の都心に湧き水でできた池がある。それは、どこだ?」


「日比谷公園とか?」

「その湧き水が、サハラ砂漠にあったとしたら?」


「オアシス」

「ご名答。つまりオアシスってのは砂漠にあるからこそのオアシスであって、都会にあったらただの日比谷公園なんだ。だったら、作家は日比谷公園に佇んでる読者の目前に、あたかもオアシスが広がってるかのような錯覚を与えてあげればいい。小説執筆のキモは、ここだ」


 ――究極のドヤ顔。


「お前は、『いいもの』を書きたいんだろ? 書こうとしてるんだろ?」

「はい」


「誰のために書いてる?」

「読者……です」


「じゃあ聞く。何かの間違いで、お前の作品を百人が読んでくれたとする。その百人のうち、何人に絶賛してもらいたい?」

「五人か……十人か……」


「そんなに多いのか。豪快な勘違いだな」

「じゃ、蒼井さんは……竹早憧夢さんは何人だと思ってるんですか」


 すると、力哉は一本の指を掲げた。


「ひとり」

「?」


「百人のうちのひとりが絶賛してくれれば、その作品は大成功だ」

「!」


「ここで、歳末謝恩大サービスのパート2を披露してやる」

「はい!」


「まず、脳内にひとりの読者を創造しろ。たとえば山田太郎さんとかいう名前をつけて、その山田さんは何歳で、仕事は何で、家族構成はどうで、どんな音楽や映画や本や服や食べ物が好みで……と細かく設定して、その人ひとりのためだけに書け。十万部のベストセラーっていうのは、そんな山田さんが十万人集まった結果だ」

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