§23 君に歌ってもらいたいんだよね

 金曜日、『ムーンウェイブ』は異常なほど混んでいた。六時頃にできた待ち客の列は八時を過ぎても消えることはなく、寒いなか階段に座り込んでしまう人もいたほどだった。


 ハチは泣きっ面のときを選ぶように飛んでくるもので、食洗器が動かなくなったのはその最中。――まさに、【マーフィーの法則】だった。


「このぶんだと、食器が足りなくなる!」


 キッチンから姉の凛々子がSOS。麻紀さんが連絡して電器店の武藤さんに来てもらっても、「こりゃダメだ。部品がないから、今すぐ直すのは無理だよ」と匙を投げられてしまった。


 それでも、お客さんは待ってくれない。いくつもの山に積み上がった食器で、洗い場には置き場もなくなっていた。


「よし。料理はできねえけど、皿洗いぐらいなら俺がやったるわ!」


 ホールもキッチンも五人でフル回転。見かねた武藤さんが腕まくりをした。


「いけません。お客さんがそんなこと……」

「構うこたぁねえよ。割っちゃったらゴメンってことで、俺に任せてくれ」


 そんなときだった。角のテーブルから悲鳴が上がった。


「おいコラ! ゴキブリが入ってたぞ!」


 中年のカップル。奈々美が駆けつけると、最後のひと口を残した女性のオムライスに茶色い昆虫の死骸が埋まっていた。


「すみません。すぐに交換を」

「ったくよお……こいつの口に入ったらどうするつもりなんだよ!」


「申し訳ございません」


 奈々美は必死に頭を下げる。ショックなようで、女性はナプキンを口に当ててうずくまっていた。


「あの、お客様。お代は結構ですので」


 麻紀さんも来て、一緒に謝ってくれる。


「こいつ、虫が大の苦手なんだよ。どうしてくれんだよ」


 男性はきっちりとしたスーツ。女性も高そうなワンピース。一見すると普通の人たちなのに、男性は口汚く奈々美を罵った。


「ちょっといいかな?」


 立ち上がったのは、隣のテーブルの男性だった。いつも閉店ギリギリに来る人で、鼻の下と顎に伸ばした髭が特徴だ。


「俺、さっきから様子がおかしいと思って見てたんだよ。あなたがポケットから虫を出して彼女の皿に乗せたのも見た。これは、自作自演の言いがかりでしょ?」


「なんだと! 余計な口出しすんじゃねーよ!」


 スーツ男が、髭の男性につかみかかろうとする。


「おうおう。そういうことは、やめといたほうがいいんじゃね?」


 ふたりの間に、武藤さんがグイっと割り込む。頭ひとつぶん上から見下ろされて、スーツ男はたじろぐ。そこに、髭の男性がスマホを掲げて追い打ちをかける。


「証拠の動画も撮ったよ。見る?」


 そこに、また援軍。アディショナルタイムの常連、公務員の道畑さんだった。


「証拠があるなら、見逃せないねえ」

「なんだテメエは!」


「警視庁。生活安全課せいあん

「嘘こけ!」


「信じないんなら所轄に連絡してもいいけど、どうする? それとも、素直に謝罪して出ていく?」


「くっ……」


 スーツ男は周りを見回す。いくつものスマホが、男を取り囲むようにレンズを向けていた。


「あんた。ここダメよ。帰ろう」

「だな……こんな店、二度と来ねえよ」


 女性が立ち上がると、スーツ男も素直に従って店を出ようとする。その背中を、武藤さんの声が追いかける。


「こら。ちゃんと金払っていけよ!」


          *


「彼、実は私のイチオシなの。あの髭、渋いと思わない?」


 麻紀さんは、ピークが過ぎて空きテーブルが目立ち始めても、ワインを飲みながら書類を見ている髭の男性を小さく指さした。


「たぶん、仕事は編集だと思うんだよね。いつも赤ペン持って原稿読んでるから」


 その姿は奈々美も見た。A4用紙に細かい文字が打ち出されていたから、間違いなく何かの原稿だと思う。


 彼が支払いを済ませて店を出ていくときには、さきほどのお礼にとワインをプレゼントした。奈々美はいても立ってもいられず、後ろ姿を追いかける。


「あの、すいません」

「何か?」


 彼は、階段を二段上がったところで振り向いてくれた。


「あの……私、作家志望で小説書いてるんです。よかったら、講評していただけないでしょうか」


 思い切って言えた。でも、彼は一瞬の間も置かずに首を横に振る。


「申し訳ないけど、それはできないんですよ」

「それは、どうして……ですか?」


「僕がテーブルで作業してたのを見たのかな? 確かに僕は編集者だけど、これまで担当したのは女性週刊誌が十年と、実用書が三年。文芸にはまるで素人だから、おそらく君が期待してるようなプロっぽい講評なんて無理なんです」


 それから、髭の男性――今浜いまはまさんは名刺をくれて、出版社の仕組みのようなことを少し教えてくれた。本当は漫画の編集をやりたいのに異動できなくて……と喋る横顔が、本心から残念そうだった。


          *


 漣が待ち合わせ場所に着くと、ピエリスレコードの田立さんはすぐにわかった。


「どもどもども田立です。そこ、座って」


 せわしない喋り方をする人だった。


「君の音楽、何度もじっくりと聴かせてもらいました。腹にズドーンと響くパワーがあるし、時代を射貫くシャープなナイフみたいな鋭さも十二分。僕は、ずっとこういう人を探してたんですよ。どうですか、僕と一緒に世の中に風穴を開けませんか」


 真っ黒な髪を伸ばしたポニーテール。薄い茶色のサングラス。


「え、本当ですか?」


「うん。君は今、この二十一世紀という時代のアーティストに必要なもののすべてを兼ね備えてると思う。ルックスもいいし、声も歌いっぷりも抜群。プロデュース次第で、天まで伸びる逸材ですよ」


 おべっか混じりだろうことは、漣にもすぐにわかった。それでも、マシンガンみたいに次々とホメ言葉を並べられると、悪い気はしなかった。


「君は、これからの時代をつくるトップランナーになる。チャートの同時ランクインなんて朝飯前だし、武道館もすぐ埋められる。僕を信じて任せてほしいんだ」


 と言いながら、ピエリスレコードの紙袋から何枚ものCDを取り出してテーブルに並べた。


「これ、これまでの僕の仕事です。全部あげるから、持って帰って」

「あ……ありがとうございます」


「で、これ聴いてほしいんだ。僕がやってる『バルーンアート』っていうバンドで、もうじきデビューさせる」


 タブレットの電源を入れてイヤホンを渡してくる。


 流れたのは、よくあるオルタナ系の演奏。ボーカルの声質に特徴があって、跳ねるように歌う感じが個性的だと思った。音程ピッチも悪くない。


「いいでしょう? 途方もなくラウドだしリリカルだし、それでいて揺るぎなくポップ。メジャー感の裏側に潜む退廃的でアバンギャルドな攻撃性。若者を締めつける社会への絶望のなかにキラリと光る希望。どれをとっても一級品の金ピカ。このバンドはね、日本のロックシーンを揺るがすというか、次のロックシーンの土台になる存在なんだ。十年……いや二十年にひとつのバンドだと断言していい」


 それからしばらく、田立さんはバンドの説明を続けた。始まりは都内の高校、そこから大学に入ってメンバーチェンジを繰り返して今の四人に固定。年齢は二十五から二十八までと少し離れてるけど、楽器の腕前は全員トップクラス。エトセトラ、エトセトラ……。


「どれも、いい曲だと思いました」


 立て続けに四曲聴いてから、漣はイヤホンを外した。たぶん何万円もする、外国ブランドの超高級品だった。


「でしょう? そこで、君にお願いがあるんですよ」

「……何でしょうか」


「ボーカルが、急にバンドを抜けちゃったんだ。その代わりに、君に歌ってもらいたいんだよね」

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