§24 わけもわからず、闇雲に歩いた

「はあ……」

 

 ここ数日、奈々美の筆は一向に進まなかった。蒼穹社文学新人賞に応募するつもりの『若き上野輝ウェルテルの悩み』は、泥沼にハマっていた。あえげばあえぐほど奈落に吸い込まれていく蟻地獄みたいだった。


 漣がアディショナルタイムに現れたのは、意外だった。直接的な表現こそなかったものの、自分の存在感を示すかのように佐倉さんに無言のプレッシャーをかけたのは、もっと意外だった。


 佐倉さんは、もともと内気で猫背気味な姿勢をさらに小さくしぼませて、枯れ落ちる寸前の花みたいになっていた。


 ――どうして、あんなことしたの?


 聞いたのに、漣は答えてくれなかった。


「ふう……」


 何も考えなくても、出るのはため息ばかり。


 ――もう一本いくか。


 冷蔵庫を開けて、常に三種類か四種類は在庫のある缶ビールに手を伸ばす。こんな日は、やっぱりエビスよね……とプルタブに指をかけたとき、背後から伸びてきた手に阻止された。妙子だった。


「ダメだよ、二本目は」


 そのまま奈々美に顔を近づけて、クンクンと匂いを嗅いでくる。


「日本酒飲んだでしょ」

「……うん」


「目が酔ってるもん。赤いし」

「だよね……」


 自分でも、今日は飲みすぎだと思う。


「もしかして、また何かしでかした?」

「……と、思う」


「今度は何したの」

「あのね……」


 佐倉さんとカラオケに行ったこと。それを聞いた漣が、突然アディショナルタイムに現れたこと――。


 一連の流れを打ち明けると、妙子は一瞬の迷いもなく審判を下した。


「その展開だと、奈々美が悪い。弁解の余地なし」

「……かなあ?」


「だって、奈々美はしょっちゅう漣くんの部屋に行ってたわけじゃん」

「うん」


「遅くまでダベってて、そのまま寝ちゃったことは何回ある?」

「無数」


「そのとき、奈々美の寝顔を見せられる漣くんの気持ちはどうよ?」

「どうって?」


「彼がもし奈々美のこと好きだったとしたら、生殺しでしょうよ」

「……」


「奈々美は自分が漣くんとどんだけ仲いいか自覚してないでしょ。自分に恋愛感情がないならないでいいけど、少しは漣くんの気持ちを考えてみたことないの? こんな状況、普通の男なら一発で恋に落ちてトーゼンなんだよ?」

「でも、それは誤解だし……」


「その誤解の原因をつくったのは奈々美でしょーに」

「……うん」


「気持ちがないんだったら、男の部屋にはそう簡単に行っちゃダメなんだよ。行くんなら、気合と覚悟と情熱の盛り合わせが必要なの。もうひとつ乗っけるとしたら、言い訳。そのへんがそろってないまま無邪気に行ったって、中途半端に迷惑かけるのが関の山なんだから」


 妙子は厳しかった。


 でも――


 漣が『ムーンウェイブ』に来たのも、狙っていたかのように佐倉さんの隣に座ったのも、彼なりの意思表示だったとは思う。


「どうして、あんなことしたの?」と聞いても無言だったのは、

「そんなこと、言わなくてもわかれよ」という言葉を体で示していたからだ。


 ――私は、漣を傷つけた。


 ――佐倉さんも傷つけた。


 妙子は正しかった。


 でも不思議なことに、彼女と喋った後には筆が軽くなる。メインの蒼穹社文学新人賞じゃなく『ブンガクの種』の短編コンテスト向けの作品ではあるけれど、何かをキーボードで打てることだけで気がまぎれた。


 五千字の短編を書くつもりだった。


 外見の造形も言葉遣いも経歴も違うけど、妙子をモデルにした恋愛小説。奈々美のなかで、その主人公が生命をまとったように動き始めていた。


〔雨西さん。執筆は進みました?〕


 湖東ななさんからのメッセージで、スマホが揺れた。


〔蒼穹社文学新人賞のほうはダメ。短編コンテスト用のはなんとか〕

〔じゃ、初日に公開します?〕


 応募開始は二月十五日。もうすぐだった。


〔たぶん……〕

〔たぶん?〕


〔実は、その五千字をプロローグにして、先が書けちゃってて〕

〔あれれ。長くなりそうなんですか?〕


〔と思います。もう三万字を超えたので〕

〔すごい! めっちゃ早いじゃないですか!〕


〔今、前半の山場から中盤の展開部あたりです〕

〔なんだかんだで絶好調ですねー〕


〔本命の長編を放置してていいのか悩んじゃいますけどね〕

〔大丈夫ですよ。雨西さんなら書けます。絶対に!〕


          *


「それは【リンゲルマン効果】ってやつですね。集団で作業すると個人個人の努力がおろそかになって、【社会的手抜き】と呼ばれる現象が起きることがある。個々の責任が分散されて気楽にやれるから、結果的に集中できなくなっちゃうんですよ」


『ムーンウェイブ』は、いつもどおりだった。食洗器は買い換えられて新しくなり、床の張り替えも少しずつ進んでいた。 

 

「でも同時に、【リスキー・シフト】と呼ばれる現象も起こり得ます。これは、集団で物ごとを決定するときには個人で決定するときよりも危険な選択に導かれやすいという暗示。『赤信号、みんなで渡れば怖くない』みたいに、ハイリスク・ハイリターンの選択を魅力的に感じるようになるんです」


 この人も相変わらず。というより、さらに滑舌がよくなって活発に見えた。


「皆さんにご報告が……」


 と笑顔で入ってきたのは、古着屋の布田さんだった。長かった髪がツーブロックに変わって、グリスでまとめられた頭頂部が光っていた。そして、彼の隣に恥ずかしそうに立っていたのは――


「ミキちゃんです。こないだ、ちょうど同じタイミングで昼休みの食事に出ることがあって、それで誘って……その……」


「まさに【ランチョン・テクニック】だよ。飲食をしながらだと、互いの好意は自然と高まっていくもんだからね」


 悪魔はまたドヤ顔を炸裂させた。でも、心からうれしそうだった。


          *


 みんなで布田とミキちゃんを祝福してアディショナルタイムがお開きになっても、奈々美の足はなかなか部屋に向かなかった。


 コンビニで立ち読みしてみたり、知らない道に入って迷ってみたり。その挙句、下品な酔っ払いに声をかけられたりもした。


〔最近、お店に来ないですよね?〕


 あれ以来、佐倉さんが何日も姿を見せていなかった。


〔どうしちゃったんですか?〕


 バス停のベンチに座って、LINEを書いては消し、書いては消し。寒さのせいなのか何なのか、指が震えて送信ボタンを押すことができなかった。


 そのとき。


 奈々美はミスった。思わずボタンに触れて送ってしまっていた。


 文面は、〔漣のこと、ごめんなさい〕。


 ――ダメダメダメ!


 この文だと、「漣が失礼なことしてごめんなさい」という主旨以外に、「漣の存在を黙っててごめんなさい」という意味にも取れてしまう……。


 ――どうしよう。


 と思ってると、すぐに既読がついてレスも来た。案の定だった。


〔漣さんって、カッコいいですよね〕


 やっぱり、佐倉さんは漣のことを気にしていた。即レスできずにいると、立て続けに次のレスが来た。


〔僕じゃ太刀打ちできないです〕

〔急に仕事が忙しくなっちゃって、まだ会社なんです〕

〔しばらくムーンウェイブにも行けません〕


 心の歯ぎしりが聞こえるみたいな文面。

 でも、返事があっただけでありがたかった。


〔ちゃんと食べて、ちゃんと寝てね〕


 奈々美はベンチから立ち上がって歩き出した。息が白かった。


 ――あれ?


 せっかく浮上した心は、すぐに打ち砕かれた。


 玄関に、見慣れたものがあった。


 赤いヒモのついた靴だった。


          *


 わけもわからず、闇雲に歩いた。


 気づいたら、漣のアパートに着いていた。


 二階の角部屋。明かりはついていた。


 いつものように階段を上がろうとした。


 カーテンを閉める女性の姿が見えた。


『十六夜劇場』の深雪さんだった。

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