§05 悪魔のアディショナルタイム
バイトも三日目になると、奈々美も少しは仕事に慣れてきた。
『ムーンウェイブ』は想像以上の人気店だったけど、それほど多くの客が姉の味を求めて訪れてくれていると思うと、奈々美はずいぶん誇らしい気持ちになった。
――リリ
私も、彼女みたいに夢を
と、階段を掃除しながら思う。
――姉の大切なお客さんに、少しでも気持ちよく過ごしてもらいたいしね。
すると、入り口ドアの半透明なガラスに人影が映った。誰かが入ろうとしているのに、両手がふさがっていて開けられない様子だった。
慌てて駆け上がってドアを開けると、そこにいたのは『十六夜劇場』の企画をしている
彼女は、その食器の返却に来てくれたのだった。
「わざわざありがとうございます!」
「ごちそうさまでした」
深雪さんはたぶん二十代で、奈々美とほとんど変わらない。なのに、劇場運営をほぼ任されているやり手だそうだ。
「上の劇場はスタッフが少なくてさ。深雪ちゃん以外には、ノーテンキな支配人と……舞台と音響と照明の担当者で総勢五人。支配人はギリギリ三十代だけど、舞台と音響と照明は還暦手前のおっさんばっかり。ちなみに全員、手のつけられない飲んべ」
情報源は、麻紀さんだった。
「じゃあ、紅一点なんですね」
「うん。あの子、おやじ転がしが絶妙にうまいんだよ」
深雪さんは、完璧なすっぴんだった。セミロングの髪を輪ゴムでポニーテールにしていた。そういう飾らない雰囲気が、おじさんたちの心を鷲づかみにするのかもしれない――と奈々美は思う。
「スタッフが少ないのは、『ムーンウェイブ』も同じですね」
シェフの姉の下に、セカンドの
「奈々美ちゃんが来てくれて助かったけど、ホールも足りないのよ」
正式な営業時間は、ランチタイムが十一時から十四時まで。ディナータイムが十七時から二十一時まで。本来いるはずのフランス人ウェイトレス・オロールちゃんのインフルエンザは、どうやら長引きそうだった。
そしてオーナー・蒼井力哉。
この悪魔は、毎日現れるわけではない。
ラストオーダーの八時半頃にフラッと現れて夕食をして、その後は常連客たちとダベりながらアルコールタイムへと突入する。
「本人は下戸なんだけど、お客さんたちと喋るのが楽しいみたいなのよね。私もたまに誘われるんだけど、体がアルコールを受けつけないタチだからさ」
悪魔が常連客と楽しむ時間のことを、麻紀さんは「アディショナルタイム」と呼んだ。彼女はサッカー馬鹿を自称していて、「イングランド・プレミアリーグのマンチェスターシティに所属するケビン・デ・ブライネというベルギー人選手を愛してる」のだそうだが、奈々美にはちんぷんかんぷんだった。
そして、その日――。
「おい妹。お前も飲んでいけ」
気が向いたのか、帰り際に悪魔が誘ってきた。奈々美も気が向いて、誘いに乗った。
*
「僕って、ダメなんです」
カウンターに座った常連客のひとり、
新卒二年目のIT企業勤務。いい感じのスーツに爽やかなネクタイを合わせた、きっちりとした身なり。育ちのよさそうな色白の顔、明らかに定期的に切って整えられた髪、遠慮がちでおとなしい喋り方……妙子ならひと目で「味気ない草食男」と断定しそうな真面目な青年だ。
「どうしたどうした。元気出せよ」
左隣の席から慰めたのは、
「仕事で、失敗ばっかりしちゃうんですよ。報告しようとすると、その報告の仕方が悪いって上司に怒られちゃうし……」
「そう凹むなよ。仕事にミスやトラブルはつきものだし、ひとりで背負い込むもんでもない。部下の尻拭いも上司の仕事のうちなんだから、素直に頼ってあげてもいいんだぜ?」
垣原さんは、自然と佐倉さんのグラスにビールを注いでやる。こんなとき、社会経験のある大人はカッコいいと思う。
「優しいですねえ……。私みたいな体育会系だと、ミスは頭ごなしに罵倒されて終わりですもん。体罰も日常茶飯事だったし」
右隣の席から佐倉さんの背中をさすってあげたのは、プロゴルファーの
その隣に座った奈々美が自分の細腕と比べてみると、まるで大人と子どもだった。
「体育会は特殊ですからねえ」
垣原さんがうなずく。
と、そこへ――
「はい、マルゲリータお待たせ……って、リリさんが冷凍しといてくれたのをチンしただけだけど」
力哉がキッチンから現れた。栞さんは近くのゴルフジムでインストラクターをしていて、悪魔もそこに通って教わっているらしい。
「ところで佐倉くん」
呼ばれて、うなだれていた青年が顔を上げた。背中は力なく丸まったままだった。
「はい?」
「君は普段、上司に対してどんな説明をしてる?」
「説明……というと?」
「たとえばカレーを作るときみたいに、肉とジャガイモと玉ネギを用意して、刻んで炒めて煮込んで、最後に粉を入れてハイ完成! みたいな話し方をしてない?」
「そうしてます……けど」
「それ、逆にしてごらん」
意味がわからなくて目が点になった佐倉さんに、力哉は解説を始めた。
「例にあげた料理のプロセス説明みたいに、最初に重要度の低い話から順に進めていって、最後に結論を述べる方法を【クライマックス法】というんだ。これは日常会話で多く使われる手法だけど、実は短気な人には向かない」
「だから?」
奈々美は思わず、合いの手を入れていた。でも悪魔はしれっとスルーして、佐倉さんに話し続ける。
「そんな人には、先にズドンと結論を言ってあげるほうがいい。先に『カレーができました』と結論を言って、その後で『こんな作り方をしました』と説明に戻るんだ。この話し方を【アンチクライマックス法】というんだけど、聞く者も先に結論がわかって安心できるメリットがある」
すると、栞さんがいきなり立ち上がった。お皿に載ったフォークがカチャッという音を立てた。
「わかった! 蒼井さん、それだ!」
「どうしました?」
「生徒さんにレッスンしてるときに、私の説明がどうしても耳に入らない人がいるんですよ。それは、私がずっと【クライマックス法】で話してたからだ! そんな人には、【アンチクライマックス法】で最初に結論を言ってあげればいいんだ!」
興奮した様子の栞さんに、垣原さんが続く。
「うちの部長なんか、まさに短気の見本だから、私も明日からやってみます。佐倉くんも、な?」
背中をドンとたたかれて、やっと佐倉さんの顔に笑みが差した。
「じっくり型と短気型、相手のタイプによって使い分ければいいんですよ」
カウンターの奥で、力哉が微笑んだ。悪魔のくせにみんなを幸せにするなんて、なんだかズルい奴だと思った。
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