§19 すぐに返答もできなかった

 横浜市南部。


 二階堂さんの告別式は、いかにも郊外という住宅街にひっそりと佇む斎場で執り行われた。効きすぎた暖房が、心に重くのしかかってきていた。


「ちょっと来て」


 息苦しさにたまらず、外の空気を吸おうと力哉が部屋を出たとき、水口さんに呼び止められた。


ぐさ先生が話したいって」


 江草奏一郎そういちろう


 昨年、デビュー二十周年を迎えたベテラン作家。これまで何度か顔を合わせたことはあるものの、深い面識があるわけじゃなかった。


 吹き抜けになったホールの、二階通路の突き当たり。江草は、ほとんど人が通らない場所のソファーにひとり座って待っていた。


「竹早さん。お久しぶりです」


 確か、そろそろ五十歳という年齢のはず。作家としても、竹早憧夢が逆立ちしてもかなわない実績と実力の持ち主なのに、年下の力哉に敬語で話しかけてきた。


「こちらこそ、ご無沙汰しまして」


 ソファーを勧められて腰を下ろす。その隣に、水口さんも座った。


「単刀直入に聞きますが、あなたはこのまま断筆するつもりではありませんよね?」

「いえ、そういうつもりでは……」


「あくまで休筆だと?」

「ご心配をおかけしまして、申し訳ありません」


 力哉が膝をそろえると、江草はいやいやそんなことはないといった素振りで手を左右に振る。ざっくばらんな、気さくな人だという噂は耳にしていた。


「では、無礼を顧みずに性急な話をさせてもらいますが、構いませんか?」

「はい」


 コーヒーが届けられる。斎場という場らしく、黒いスーツ姿の女性はまったくの無口で三つのカップを並べ終えた。


「意外に本格的な味だ」


 江草はカップをソーサーに戻すと、煙草に火をつけた。白い煙を深呼吸のように吐き出すと、何かを振り切るように言葉をつなぐ。


「数年前、あなたに対してネットで悪評が立った。今さらと思うかもしれないが、この件であなたに謝罪したいんだ」


「え……?」


 なぜ江草先生が? と言いかける。しかし、力哉はその言葉を飲み込んだ。


「あの件は、馬鹿どもがよってたかって尾ひれをつけたことで予想以上の傷痕を残した。しかし、そもそもの発端は『アラン酢飯』と名乗る何者かが、あなたの『アイ・ニード・ニート』とそっくりな作品をウェブ小説サイトに掲載したことだった。そこで聞きたい。あなたには、『アラン酢飯』が誰なのか見当がついてたんじゃないだろうか」


「いえ」


 咄嗟に嘘をつく。江草の真意がつかめなかったからだ。


「あれは間違いなく、刊行前の原稿を手にした者が犯人だ。蒼穹社から印刷会社に至るルートのどこか、つまり関係者の誰かから漏れたってことになる。それが私である可能性も否定できないでしょう」


「まさか、僕はそんなこと……」


 どう返答すべきか。今度は、あまりの直球に口ごもった。


 力哉の困り果てた姿を見て、水口さんが助け舟を出してくれる。


「あれは小説を書き慣れた文章だったから、最初から編集サイドの人間が怪しかった。ネットの書き込みには、内部の者しか知らない文言があったし」


 当時も聞いた話。だが、証拠がなかった。


「私は当時から、編集部の座波が怪しいと睨んでた。だからといって、奴にあの文章を書く力はないんだけどね……」


 座波は、水口さんが『アイ・ニード・ニート』の作業に集中するため、『恋する心理学』の第五巻を任せた編集者だった。その雑な仕事ぶりに業を煮やした力哉が交代を申し入れたことが、彼のプライドを折ってしまったことは想像に難くない。座波はその後、蒼穹社を辞めていた。


「結論を言うね。うちの会社が弁護士を通して調べたところだと、座波がネットにいろいろ書き込みをしていたことは確定。でも、本当の悪玉はささ香央瑠かおるだった。覚えてる?」


 編集部でアルバイトをしていた、顔も服装も派手な子――。ハイヒールをコツコツと鳴らして闊歩する姿の記憶が甦る。


「彼女、最初から作家の追っかけ気分で来た子でね。よせばいいのに、先生たちも次々コロッと引っかかっていった。あっという間にピアスやらバッグやらが高級になっていったから、私はすぐに気づいた。二階堂さんと私で何度注意してもやめないから、会社からおさらばしてもらったんだけどね」


「でも、僕は彼女とほとんど関わってないですよ?」

「それは、あなたが相手にしなかっただけ。でも本人から見れば、時代の寵児たる竹早憧夢に粉をかけたのに袖にされたってことになる。それを恨んで、私のデスクから『アイ・ニード・ニート』の原稿を持ち出したのよ」


 まったくもって、記憶になかった。相手にしなかったとの自覚もない。


「で、竹早さん」


 江草が引き取って言う。


「リライトした『アラン酢飯』の中身は、かわ憲市けんいちだった。私の大学ミステリ研の後輩で、二階堂さんに紹介してデビューさせてやった男だよ。単行本は、数冊しか出せなかったけどね」


 力哉はコーヒーに手をつけた。冷めてしまって、嫌な酸味だけが舌に残った。


「その川根さんが、なぜ?」


「要するに、やっかみさ。自分の本は売れないのに、竹早憧夢の本は飛ぶように売れていく……。おそらく、その愚痴が笹井香央瑠の耳に入ったんだろう、あっさりと盗作騒ぎの片棒を担がされた。間抜けなことにね」


 江草が呆れた顔で言うと、


「今回、『恋する心理学』が発売延期になったことでネットが騒がしくなったのも、笹井香央瑠と座波が中心だった。あのふたり、今はなんと恒星書院の同じ編集部で仲よく働いてるから、商売敵をつぶすつもりでやってたみたい」


 と水口さんが追記した。


「竹早さん。当然ながら川根は蒼穹社に出入り禁止になるし、私もすでに縁を切った。だけど、馬鹿な後輩が恥ずかしい真似をしでかしたのは事実。本当に、申し訳ない」


 言うなり、江草は頭を深く下げた。


「やめてください。先生のせいじゃないです」


 しかし、江草は微動だにしない。ややあって、今度は水口さんに向き直る。


「水口さん、あなたにも迷惑をかけてしまった。亡くなった二階堂さんに合わせる顔もない……このとおりです」

「いえ。私のことなんかいいですから、どうか頭を上げてください」


 水口さんが肩に手をかける。折れていた姿勢がゆっくりと元の位置に戻ると、その目は赤く染まっていた。


「竹早さん。こんなタイミングで言うべきことじゃないとは重々承知のうえで、あなたにひとつ頼みたいことがあります」


「何でしょうか」


「今年から、蒼穹社文学新人賞の審査員を引き受けていただけませんか」


「は……はい?」


「実は、審査員のふじ玄道げんどうさんが急遽、体調不良を理由に降板を申し出てこられた。その空席に、あなたに座ってもらいたいんです」


「いえ……僕にそんな資格なんかないですよ。まだ三十三ですし、重鎮の先生方が大勢いらっしゃるじゃないですか」


 蒼穹社文学新人賞の歴史は五十年を超える。初期を除けば、これまでの審査員はすべてこの賞の出身者だ。とはいえ、自分より年長の出身作家は無数にいる。


「あなたは蒼穹社文学新人賞の出身だし、歴代受賞者で最も多くの部数を売った大ベストセラー作家です。これ以上の適任者はいませんよ。それに――」


「……」


「十三年前、私が審査員になった年の受賞者があなただった。当時は私が一番の若造審査員だったわけですが、今年からは最年長の審査員ということになる。こういう巡り合わせも、何かの縁でしょう?」


 名誉なことだった。でも、すぐに返答もできなかった。


「それから、機が熟したら早いとこ新作も出してください。あの愉快な月波恋愛相談所の面々との再会を待ち焦がれている読者は、私だけじゃないはずだから」

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